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北朝鮮の強制収容所に生まれた男性 「人間には自由というDNAがある」

2014年01月27日 19時49分 JST | 更新 2014年02月06日 01時47分 JST
Taichiro Yoshino

北朝鮮の政治犯収容所で収容者の間に生まれ、生まれながらにして政治犯として過ごし、脱走した経験を持つシン・ドンヒョク氏(31)が来日した。2014年3月に日本で公開される自身のドキュメンタリー映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」で、母と兄の脱走計画を密告し、2人の公開処刑を目の前で目撃するなどの壮絶な体験を語っている。

韓国統一研究院は、北朝鮮には5カ所の政治犯収容所があり、8万~12万人が収容されていると推定している。シン氏は北朝鮮の人権状況の改善を訴えながら、「自由主義国家」に生きる私たちにも「当たり前のようにある自由がどれほど貴く、守り抜くのが難しいか。ぜひ大事にしてほしい」とも問いかけた。

■母と兄を密告、公開処刑を目撃

シン氏が生まれたのは北朝鮮・平壌の北東部にある強制収容所「第14号管理所」。両親も収容者で、強制労働などの報奨として結婚を許された。生まれた子はやはり政治犯としての扱いを受け、6歳の小学校入学と同時に農場や炭坑での労働にかり出される。

そこから出ることは基本的に生涯許されない区域だ。脱走や男女の私的な接触は一切禁止され、小学生は「破ったら即銃殺」という収容所の掟をたたき込まれる。食事はトウモロコシのかゆなどが最低限しか与えられず、空腹をしのぐためネズミを捕まえてあぶって食べたという。

映画はシン氏の証言のほか、人権団体などが入手した収容所や取り調べなどの映像、強制収容所の元看守や所長らのインタビュー、それらを再現したアニメーションで構成される。「生まれて最初の記憶は公開処刑だった。銃声に驚いたのを覚えている」「同級生が先生に殴られて死んだ。当然だと思った。自分たちは罪を犯した人の子どもなのだから」といった証言が流れる。

最も衝撃的な場面は14歳のとき、母と兄の脱走計画を盗み聞きしたシン氏が看守に密告するところだろう。自身も捕らえられて拷問を受けたあと、縄を解かれた場所では、大勢の前で母が絞首台に立たされ、兄が木の棒に縛られていた。

「2人が処刑される場面を見て、何も感じなかった。家族の愛を知らなかったから。むしろ母のせいで投獄されたと思い、憎しみしか感じなかった。家族を密告しろとは教育されていたが、母が処刑されたら泣けとは教育されていなかったから」

やがて外から来た収容者と職場で懇意になったシン氏は、収容所の外に平壌という都市があり、金正日総書記ら支配階層が住んでいることを知る。話に聞いた外の食べ物はどれも美味そうだった。「チキン、白米、バーベキュー。死ぬ前に一度食べてみたかった」。2005年1月、2人で鉄条網を越えようとしたが、1人は感電死し、その背中を踏んで鉄条網を乗り越えた。

「翌日見た北朝鮮ほどの衝撃はなかった。人々は思い思いの服を着て、自由に行き来して笑っていた。まるで天国のようだった」。世界から統制国家、監視国家と言われる北朝鮮も、シン氏にとっては自由が広がる別世界だった。

空き巣や盗みで食糧を確保しながら約1カ月かけて中朝国境までたどり着き、国境の河を越えた。現在は「LiNK」など北朝鮮の人権状況改善を訴える団体に所属し、世界各国で体験を話している。2014年3月にもジュネーブでの国連人権理事会で証言する予定だ。

北朝鮮強制収容所に生まれて」は、2014年3月1日から東京のユーロスペース15日から名古屋のシネマスコーレ、29日から大阪のシネ・ヌーヴォで順次上映される。

■土下座して謝りたい、しかしできない

シン氏は1月26日に東京・明治大学であった特別上映での会見と、27日のハフィントンポストと朝日新聞との共同インタビューで心境を語った。主なやりとりは以下の通り。

――母と兄が処刑されたときに何も感じなかったと言うが、今もそうなのか

その当時は家族という重要な意味、概念を知らなかった。収容所の中にいれば公開処刑されなくても拷問や事故で普通に死ぬ。だからその涙を流すような感情を持てなかった。しかし。脱出して多くの国をめぐり、多くの人々が家族と助け合い、愛し合って暮らすのを見て、母は自分を生んでくれた存在であり、兄は血を分けた兄弟だと分かった。

生きていたら2人の前で土下座して謝りたい。しかしできない。そのことが毎日、トラウマとして襲ってくる。今でも当時のことを思い出すと涙が出てくることがある。収容所の看守は私の感情をなくそうと教育し、懲罰を加えたが、人間には自由というDNAがある。私もそれを取り戻したということだ。

――どのような教育を受けていたのか

収容所で守らなければならない規則、最低限の読み書きと数の数え方、労働のやり方を叩き込まれる。金日成(主席)、金正日(総書記)の写真やスローガンはまったくなかった。人間としての扱いを受けていないということだ。

――やはり、にわかには信じられない話ばかりだ

何度も言われた。ウソをついているのではないかとも。でも、ナチスのホロコーストもカンボジアの大虐殺も、当時は誰も信じなかった。スーダンの大虐殺やコソボなど、虐殺は今でも起きている。ナチスの強制収容所は期間としては3年だが、北朝鮮は国家成立後50年以上も続いている。

一つ言えることは、北朝鮮の独裁体制は10〜20年前にはなくなっていなければならず、国民は自由を手にしなければならなかったのに、国際社会や韓国政府はそのチャンスを失ったということだ。現在も日本の拉致被害者やその家族は苦痛を受けており、力を合わせて国際社会に訴えて同時に解決できないかと思っている。

■生まれなければこんなことは味わわなかった

――人生を恨むことはないか

脱出して8年もたったのに、未だに思い出したくない辛い記憶を人前で語らなければならない。生まれなければこんなことは味わわなかっただろうとも思う。平凡な国に生まれ変わるなら、野球選手になれればいいと思う。

――夢は何か

政治犯収容所、独裁者をなくし、自由を与えることだが、人前で話して注目を浴びることは本来は性に合わない。本当の夢は生まれ故郷に帰って、静かな山の中で自給自足で暮らすことだ。

独裁体制が恋しいわけではないし、また苦しみを味わいたいわけではない。ただ、私が育った土地は空気もよく、景色も美しい所だった。脱出したが、ルーツはそこ(収容所内の故郷)にある。収容所がなくなったら帰りたい。金がすべて、金がないと何も出来ない資本主義社会の韓国に暮らすようになり、病んでいる部分を切実に感じる。あまりに自殺のニュースが連日報じられると、強制収容所よりも自殺が多いのではないかと感じる。

――そこまで辛い思いをして、なぜ語るのか

生き残ったのは運が良かったとしか言えない。北朝鮮にはまだ生きているか分からないが、父も親戚もいる。仲の良かった友人もいるし、今も誰かが収容所の中で生まれている。何もせずにいるより、一言でも実態を話すほうが、彼らの助けになるのではないか。早く彼らの助けになりたい。

――シンさんにとって「自由」とは

収容所で24年暮らして「自由」という言葉自体を知らなかった。しかし脱出後、多くの国を回って感じたことは、人間は生まれたときから自由という言葉をDNAとして持っている。そして普段何げなく使っている「自由」を守ることがどれほど大変なことか、ということだった。皆さんがあまりに当然のこととして使う「自由」という言葉がどれほど大きな意味を持っているか、そして北朝鮮で自由を与えられず、自由を感じられない人のために、少しでも何かできないかと考えてもらえれば幸いだ。

この社会は、人間から自由を奪ったらだめだ。自由が人間に与えるものは大きい。みなさんも自由を大事にしてほしい。


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