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日中間の戦争の傷が未だ癒えない理由

2014年02月14日 16時54分 JST | 更新 2014年02月14日 16時54分 JST

China and Japan: Seven decades of bitterness

尖閣諸島問題をきっかけに、中国では定期的に反日デモが繰り広げられました。両国間の緊張は第二次世界大戦にさかのぼります。BBCの大井真理子が、中国人記者と共に両国を訪れ、戦争の傷がいまだに癒えない理由を取材しました。

「戦時中に日本が中国に対して行ったことに、あなたは罪悪感を持っていますか?」

これは、中国国営テレビ中国中央電子台(CCTV)の元記者である劉海寧と日本に取材に行った時、私が一度となく通訳しなければならなかった質問です。

彼女が質問した日本人は、最も高齢の人でも終戦時の1945年には子どもだったでしょう。

「申し訳ないとは思っている」と、ある男性は答えました。「悔やまれるできごとはたくさんありました」と別の人は答えました。

「でも、私が残念に思うだけではあなたは不満かもしれませんね」と、インタビューを受けた日本人の一人が聞き返しました。日本の歴史教育は、日本軍が行った残虐行為を誇張して教えていると主張する愛国主義者です。「ええ。足りません」と彼女は答えました。

日中間の戦争の歴史の中で、異議を挟む余地のない事実はあります。日本は1931年に中国北部の満州を占領し、1937年に全面戦争となりました。1945年に日本が降伏するまでに何百万人もの中国人が亡くなりました。

最も悪名高い事件は、当時政権を握っていた中国国民党が首都にしていた南京で起きました。また、残虐行為は他のアジア諸国でも行われました。

しかし、「罪悪感」という言葉を日本語に通訳するたび、私は不愉快な気分になりました。そしてインタビューを受けた日本人は、誰ひとりその言葉を使おうとしませんでした。

戦後に生まれた今の若者も、過去の過ちの責任を負わなくてはいけないのでしょうか?

取材2日目に、私はこの疑問を劉にぶつけてみました。私自身もまた罪悪感を持つべきなのか?とたずねたのです。彼女は肯定も否定もしませんでした。

「日本にいる間、私はこの質問をし続けるつもりです」と劉は言いました。「なぜなら多くの中国人がそう感じているからです」

私は十代のころ、第二次世界大戦の歴史に興味を持ち、それ以来この題材について調べてきました。休暇で行ったアジア諸国の旅行先で戦争博物館を訪ね、日本がもたらした被害や彼らの苦しみを理解しようと試みました。

その度に、学校で習ったことだけでは決して十分ではないと感じ、昨年、日本の歴史教育の欠点について記事を書きました。現在の日本のカリキュラムでは、100万年以上にわたる日本の歴史を、1年間の授業で概論するだけだということ、それでは多くの日本人が、隣国との地政学的緊張の原因を正しく理解することができないと指摘しました。

この記事は、私の家族を含む、母国の多くの人たちに、不愉快な思いをさせました。

外国人が日本を批判したのではありません。日本人の記者が、世界中の視聴者の前で公然と日本を批判したのです。

「売国奴」、「外国のスパイ」など様々な悪口を言われ、「自分の国を愛していないのか?」とツイッターでたずねる人もいました。もちろん、日本を愛しています。

自国の過去と向き合うことは、ひどい失恋の経験に似ています。ショック、拒否、怒り、悲しみ。そしてようやく、起きてしまったことは変えられないのだという受容の段階にたどり着きました。

しかし、2012年に中国で起きた反日デモが暴徒化する様子を見たあと、2つの疑問が頭を離れなくなりました。

両国の関係を改善するために、私たちにできることはないのでしょうか? そして、同じように日本軍に占領され、多くの市民を殺されたアジアの他の国々が、中国や韓国ほど私たちを憎悪しないのはなぜなのでしょうか?

「憎悪」という言葉は強すぎるかもしれません。しかし、日本車を燃やしている中国のデモ参加者たちは、そのような感情を抱いているように見えました。

劉海寧の意見は異なります。彼女が育った1980年代から1990年代にかけては、日本の音楽やドラマ、漫画などのポップカルチャーが、中国の若者たちの間でも人気でした。彼女も周りの友達も、日本に対して肯定的な気持ちを持っていたと言います。

「13億人もいる中国人の代弁者になることはできません。中国は広大な国であり、誰もがそれぞれに色々な感情を持つ権利があります」と劉は言います。

「たとえば、日本の侵略によって近親者を亡くした人や、戦争中に実際にとてもつらい思いをした人の中には、敵意や、憎悪さえいまだに残っているかもしれません。それは批判されるべきことではありません」

私が2006年から住んでいたシンガポールも、日本兵の手によって苦しめられました。しかし、もう何十年も反日デモは行われていません。

具体的な犠牲者の数は資料によって異なりますが、5万人から10万人の中国系シンガポール人が、華僑虐殺事件と呼ばれる事件で殺されたと考えられています。1942年に人口が80万人弱だった小さな都市国家にとって、これは非常に高い犠牲者の数です。

私は被害者の親族のひとりに、シンガポールのビーチロードにある「日本占領時期死難人民記念碑」(市民戦死者記念碑)で会いました。

「今の世代を責めるつもりはありません」。ラウ・キー・ション氏の言葉に、私は驚きました。なぜ中国のデモ参加者のように怒らないのか、私はたずねました。

「シンガポールは移民の国です。だから私たちの基本哲学は生き残らなければならないということなのです」

「1965年にマレーシアから独立したとき、尻尾を巻いてマレーシアに出戻る羽目になるまでの猶予は3年ほどだろうというのが一般的な見方でした。だから日本の資金援助や投資を受け入れるほうが、彼らが過去にしたことを批判するより筋が通っていたのです」

ちょうど同じ頃、私は仲の良い友人ジェイド・マラヴィリャスの親戚が、日本軍占領下のフィリピンで殺されていたことを知りました。知り合って何年もたつのに、彼女は私の記事を読むまでそのことを黙っていました。「友人関係に水を差すかもしれない」と思ったからだと彼女は言います。

「戦争中、デ・ラ・サール大学には大勢の人が避難していて、その中に私の大叔父さんたちと大叔母さんたちもいたの」とジェイドは話してくれました。

「日本兵が大学を襲撃して、大叔父さんたちは殺された。大叔母さんのひとりは刺されたけれど命は助かって、私が十代の頃にそのときの傷跡を見せてくれたわ」

彼女には日本人に対する恨みはないのでしょうか?「初めて私に会ったとき、大叔父さんや大叔母さんのことを考えなかったの?」と私はたずねました。

「そんなわけないでしょう。私のパートナーのお母さんは日本人なのよ」とジェイドは笑いました。「それにあなたが悪いわけじゃないもの」

私は彼女の日本に対する感情が、中国の若者と違うのはなぜだと思うかとたずねました。

「正確にはわからないけれど、フィリピンはスペインの植民地だったし、私たちにとって日本人は別の占領者に過ぎないからかもしれない」が、答えでした。

中国にも1970年代には日本と友好的な関係を築こうとした時期がありました。毛沢東主席のもとで日本と国交を回復した頃です。

「当時の中国共産党のプロパガンダは、国共内戦における共産党側の勝利に焦点を当てていました」とテンプル大学現代アジア研究所のロバート・デュジャリック所長は言います。国共内戦とは、毛主席の共産党が率いる中国工農紅軍と蒋介石が率いる国民革命軍の間で1949年まで続いた内戦です。

1972年、当時日本の総理大臣だった田中角栄氏が戦争中の日本の行いについて謝罪したとき、「毛主席は『あなたがたが倒したのは中国国民党だ、あなたがたは我々が権力の座に就く助けとなってくれた』から謝らなくていいと言ったのです」とデュジャリック所長は言います。

しかし、1989年6月4日に民主的な権利を求めて集まっていた学生たちを中国軍が弾圧した天安門事件以来、共産党のプロパガンダの焦点は愛国意識に移ります。

「天安門事件までは、共産党は、内戦で国家主義者の蒋介石の軍を破った、栄光ある勝者として描かれていました。しかし天安門事件後、政府は中国が被害者であった点を強調するようになりました」と東京大学で現代中国政治を教える高原明生教授は言います。

共産党は自らを1世紀にわたってよそ者から強いられた屈辱を終わらせた党として演出するようになりました。

「その方法は、まるで一番最近の侵略者への憎悪をたきつけるかのようです」

中国のホテルの部屋でテレビをつければ、日本の侵攻に抵抗する中国人を描いたドラマがすぐに目に入ります。「愛国教育」政策の一環として、昨年はこのような番組が200本以上制作されました。

私たちは数えきれないほどの反日ドラマで、日本兵の役を演じ、1日に8回死んだという俳優とも話をしました。

もしもこのような番組をずっと見て育ったら、私自身も、日本は恐ろしい国だと思うようになったことでしょう。

北京の南西部にある小学校で見学した朝礼にも、同じようなメッセージが込められているように見受けられました。子どもたちが順番にステージに立ち、歌ったり、詩の暗唱をしたり、武術を披露したりします。詩のひとつは、小学校の近くにある盧溝橋で1937年に起きた事件を歌ったものでした。日中戦争のきっかけになったと多くの人が考えている事件です。同じ詩が、学校の玄関の石壁にも刻まれていました。

このような反日教育は正当なのでしょうか?正直、私にもわかりません。中国でさまざまな場所を訪ね、日本の残虐行為からの生存者の話を聞く度に、胸が張り裂けそうになります。

生存者のひとり、チェン・グイシェン氏は、1937年に南京で虐殺が起きたとき、14歳の少女でした。

彼女は、学校の外に死体が山積みにされていたと話してくれました。同じ年頃の女の子が7人の日本兵にレイプされ、ナイフで殺されるのを目撃しました。彼女自身も2度捕まってレイプされそうになりました。2度目は、彼女を抱えていた兵士が足を滑らせ、手を緩めたために、何とか逃げることができました。疲れ果てて倒れ込むまで走り続け、中国人の農夫に草の山の下にかくまってもらいました。

日本兵のそのような行状を聞くのはとても辛い経験でした。しかし彼女の話には後日談があり、それが、ささやかながら救いとなりました。

戦後、自分自身の体験談をするために日本へ行ったとき、日本の人々が彼女を抱きしめて謝罪し、先祖たちがそのようなことをしたとは全く知らなかったと言ってくれた。そしてその時、今の日本人を許したと言ってくれたのです。

日本の指導者たちも中国に幾度も謝罪してきました。

中国共産党の機関紙である人民日報で記者をしていた馬立誠氏が数えたところ、日本が中国に謝罪した回数は25回に及ぶと言います。しかしそのような謝罪は――そして長年にわたって日本が中国に行ってきた計3兆6500億円(357億ドル、218億ポンド)の経済支援についても――中国メディアで報じられたことも、学校で子どもたちに教えられたこともないと言います。

「日本の対中侵略戦争では中国に大きな災難がもたらされた」と彼は著書『Beyond The Apology (謝罪を超えて)』の中で書いています。「だが現在の日本の指導者に土下座を求めるのは現実的ではない」

「日本人の謝罪の言葉は、我々にしてみれば十分ではないように思えるかもしれないが、彼らにしてみれば大きな一歩である。だから我々はそれを受け入れ、前に進むべきなのだ」

この本を出版したとき、彼は母国の人たちから裏切り者と呼ばれました。この問題が強い感情を引き起こすことを考えれば、正常な反応だと彼自身は言います。

劉海寧も、日本の謝罪を学校で教わらなかったと言います。しかし、たとえ子どもたちがそのようなことを習ったとしても、中国人の日本に対する態度に大きな変化は見られないだろうとも言います。

「人々の姿勢を変えるのには時間がかかります、数年か、もしかしたら10年か。だから、日本の指導者たちが、ずっと一貫した行動と言葉を示すことが重要なのです」と劉は言います。

「人々が過去の日本の謝罪や経済支援について詳しく知れば、一時的に日本を好意的に見るようになるかもしれません。しかし、南京虐殺を否定する発言や、戦犯を美化しようとする行動がたとえ一度あるだけで、信頼は一気に崩れてしまい、取り戻すのにさらに長い時間がかかってしまうでしょう」

2012年、愛国主義者で有名な河村たかし名古屋市長が南京事件を否定し、「一般的な戦闘行為」以外の大量虐殺はなかったと発言しました。河村市長は自分の考えは変わっていないと、昨年再度明らかにしました。

戦犯を含む戦没者を祀る靖國神社への日本の指導者の参拝も、中国や韓国の人たちの怒りを買います。

このような行動が突然なくなることはないでしょう。

旅の終わりに、劉は私が2日目に投げかけた疑問に答えてくれました。私が個人的に罪悪感を持つ必要はないと言ってくれたのです。

しかし2人とも、日中のこれからの関係については、旅を始めたときほど楽観的ではありませんでした。

日本の子どもたちは引き続き、父祖が中国やアジア諸国で犯した残虐行為についてほとんど学んでいません。そして、天安門事件前の1970年代と1980年代に、日中が過去の戦争の問題を清算しようとしたことを、中国の多くの若者は知りません。

劉は「両国の指導者たちが互いに対立する現在の政策を取り続ける限り」和解のチャンスはないと言います。

「少なくとも一般大衆や草の根レベルでは、誠実で率直な会話を増やすことによって関係を改善するチャンスはあります」と劉は言います

「戦争は選択肢ではありません。たとえどんなに困難でも……私たちは可能な方法をすべて試してみるべきなのです」 

この記事の英語ページはこちらをご覧ください。

http://www.bbc.co.uk/news/magazine-25411700

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