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【ベルリンの壁崩壊】ゴルバチョフはもはやヒーローではない。プーチンと同じだ

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GORBACHEV
In this photo taken late Monday, Nov. 12, 2012, former President of the Soviet Union Mikhail Gorbachev speaks to journalists on Ekho Moskvy radio in Moscow, Russia. Gorbachev has authored a new book of memoirs that comes out Tuesday, Nov. 13, 2012. (AP Photo/Alexander Zemlianichenko) | ASSOCIATED PRESS
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ベルリンの壁崩壊25周年に際し、ミハイル・ゴルバチョフ、ソ連最後の指導者は西側にとって今もヒーローである。しかし、ゴルバチョフにとって、西側はもはや好ましい存在ではない。

私は2005年にゴルバチョフとモスクワで、ソ連崩壊へとつながった同氏の改革運動「ペレストロイカ」20周年について語り合った。ゴルバチョフは、ロシアに対するアメリカの“勝利コンプレックス”について怒りと裏切りをあらわにした。

明らかに、ウクライナを巡る西側とロシアの間の危機に見られる現在の敵意の種は、ここしばらくの間に育ってきたものだ。

ウラジーミル・プーチンとミハイル・ゴルバチョフは指導者としてこれ以上ないほど異彩を放っている。しかし、両者とも誇り高きロシア人で、自分たちの国は当然受けるべき報いを受けていないと感じている。この二人は「踏みつけられた後に跳ね返る小枝」のようだ。これは(イギリスの哲学者の)アイザイア・バーリンが、こうした屈辱への反発の中に、恨みや攻撃的なナショナリズムがどのように根付いているかを表すのによく用いたフレーズだ。

以下が、2005年にゴルバチョフが私に語ったことである:

アメリカ人は私たちを適切な敬意をもって扱ってこなかった。ロシアは真剣なパートナーだ。私たちは素晴らしい歴史を持つ国家で、外交経験も豊富だ。科学にも大いに貢献してきた教育国だ。

ソビエト連邦は西側にとって単なる敵ではなくパートナーだった。そのシステムにはある種のバランスがあった。アメリカ合衆国とヨーロッパは新しいヨーロッパのための憲章であるパリ憲章に署名し、新しい世界ができることを示そうとした。しかし、その憲章は無視され、空白を利用して政治的利益が追求された。私たちが提案した新しい考えに反し、勢力圏を獲得しようとの必死の努力がアメリカによって再開された。その最初の結果がユーゴスラビア危機であり、ロシアに対する優位を得るため、NATOが駆り出された。

私たちはヨーロッパのための新しい安全保障を構築する準備ができていた。しかし、ソ連が崩壊してワルシャワ条約機構が終了した後、NATOは過去の約束をすべて忘れてしまった。それは軍事組織というより政治組織になった。NATOは「人道的理由」でどんなことにも干渉する組織になると決めたのだ。私たちは現在までにユーゴスラビアだけでなくイラクでの干渉も目撃してきた。それは国連からの何の委任も承認もない干渉だ。

私が宣言したときに西側が大歓迎した、20年前の新しい考えについてはこれくらいにしておこう。

ほとんどではないにしても多くのロシア人と同じように、ゴルバチョフはプーチンのクリミア併合を支持した。クリミア住民が住民投票でロシアに加わることを決めたとき、ゴルバチョフはそれを「幸せな瞬間」「国民の意志」と呼んだ。ゴルバチョフは11月6日、インターファクス通信に対し、「プーチンが他の誰よりもロシアの利益を守っていると完全に確信している」と述べた。また、ゴルバチョフは現在のウクライナ危機が、アメリカによるロシア非難のための「口実」になっていると述べた。

putin crimea

ベルリンの壁の崩壊を回顧する

西側の行為に対するゴルバチョフの苦々しいトーンは、冷戦直後の時代の希望に満ちた観測とは著しく異なる。それは、1989年当時の分裂した世界の統一を目指していた、世界の指導者たちによる特筆すべき会合の議事録から証明されている。

ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領が招待し、マーガレット・サッチャー、ミハイル・ゴルバチョフ、そして、フランソワ・ミッテランが1995年、コロラドのリゾート、ブロードムーア・ホテルに集まった。ベルリンの壁崩壊とドイツ統一についての各自の決定や疑念をともに回顧するためだ。

この会合で最も顕著なのは、ロシアと西側の間の敵意が再燃する可能性ではなく、統一ドイツがどのようにヨーロッパで支配的になるかというマーガレット・サッチャーの心配――2014年においてもはっきり存在している問題――だった。

以下は、この会合での各国首脳の発言の抜粋だ。


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懐疑的なゴルバチョフ

gorbachev 1989

ミハイル・ゴルバチョフ | 私の前任者コンスタンティン・チェルネンコの葬儀の間、ジョージ・ブッシュ(当時は副大統領)、マーガレット・サッチャーと話した際、東ヨーロッパの国々の指導者たちとも話しました。私は彼ら全員に向かって、「これまでただ宣言されてきただけの事柄――各国の対等性と国内問題への不干渉――は、今や私たちの真の政策になることを保証したい。それで、あなたがたは自分の国の問題に責任を負わなければいけない。私たちにはペレストロイカが必要で、自分の国でそれを行う。あなたたちは自分たちの決定をしなさい」。私は、これはブレジネフ・ドクトリンの終わりですと言いました。

彼らはみな懐疑的な態度をとったと言わねばなりません。彼らはこう考えました。「ふむ。ゴルバチョフは国連で軍縮だとかなんとか言っていた。自国の改革のことを話している。彼はどこか調子が悪いに違いない。彼が少しばかり物事を改善した後、ソ連は昔のやり方に戻るだろう。これはソビエトの指導者たちがいつもやるゲームだ」。

私が政権にあった間、私たちは宣言した方針に従い続けました。軍事的にも、政治的にさえ、干渉しませんでした。チェコスロバキアから(同国の元大統領の)グスターフ・フサークの一行がやって来たとき、私たちはできるだけの援助はするが、「あなたたちの国のことは、あなたたちの責任だ」と言いました。

ジョージ・H・W・ブッシュ| 私たちは(ゴルバチョフが宣言した不干渉に)懐疑的でした。用心深く、慎重でした。私たちはこれら東ヨーロッパ諸国の内部の何かを刺激して、ソビエトの指導者たちが行動を起こさざるを得なくなるようなことを望みませんでした。

(ポーランドの元首相の)ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍を訪ねて、副大統領としてポーランドに行ったときのことを思い出します。ちなみに、彼は東ヨーロッパの指導者たちすべての中で、最もあなたに個人的に近いと考えられていました。どれほどの自由が許されるのか見定めるのに苦労しました。ヤルゼルスキもそれを見定めるのに苦労したと思います。

ポーランドでの出来事

フランソワ・ミッテラン| ポーランドでの出来事は非常に象徴的でした。でも、それ以上ではありません。労働組合が連帯によって目覚めさせられました。でも、ソ連は出来事の進展をコントロールしようとするのを決してやめませんでした。チェコスロバキアでしたように。すべてを決したのは、東ドイツからハンガリー、チェコスロバキア、そして後には西ドイツへの、人々の異様な移動をコントロールする力がなかったことです。あれがソビエト帝国の終わりでした。

もしゴルバチョフがそれらソ連の支配下の国々で軍事力を使うと決めたなら、誰も逆らえなかったでしょう。しかし、彼は、それは歴史的な大失敗であると考えていると公言していました。

ゴルバチョフがドイツ民主共和国(東ドイツ)の大統領に、危機を解決するために軍事力を使う気はないと言った瞬間、これは新しい日、新しい取り決めだと言ったとき、それが終わりでした。 大きな変化が起きたときです。断層線はワルシャワでもプラハでもなく、東ベルリンだったのです。

ですから、ドイツの共産主義指導者たちは、引き続き共産主義指導者たちでしたが、もはや何も指導しなくなりました。それは本当に人気のある、平和な革命で、彼らは対抗して何をすることもできなかったのです。その後、すべてが崩壊しました。ヨーロッパの変革とドイツの統一につながっていきました。

ブッシュの自制

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ブッシュ| ベルリンの壁が崩壊したとき、ソ連内部に「もういい加減にしよう。王冠の宝石を手放したりはしない。しかも、すでに軍隊がいるじゃないか」という分子がいるかどうか分かりませんでした。

あの時、ホワイトハウスの執務室で行われたインタビューで、なぜベルリンの壁崩壊についてのアメリカの人々の気持ちを共有しないのかと尋ねられました。議会の反対勢力のリーダーたちは、私が出掛けて行って、あの生徒たちと一緒にベルリンの壁の上に立ち、アメリカがどう思っているか世界に見せるべきだといいました。

私はとても興奮していました。けれども私の意見は、今はミハイル・ゴルバチョフやソ連の軍隊の目玉に指を突っ込むときではないというものでした。以前からドイツ統一に賛成していましたし、物事は適切な方向に向かっていると思いました。

だから、何か愚かなことはしたくなかったのです。ソ連内部の分子がゴルバチョフに反対して立ち上がらざるを得なくなるような仕方で感情を表現するようなことは。

ゴルバチョフ| 生じうることについて、私たちは世間知らずではありませんでした。進行中の事柄は文明化の変化の過程であると理解していました。東ヨーロッパで選択の自由と不干渉の原則を追求し、同時に西側に介入する機会や、起きていることに彼らが入り込んでくる機会を与えるべきでないときを知っていました。

あの時ソビエトの指導層の中で起きていたことについて言えば、広範囲な改革プロセスを1人で始めることなどできなかったでしょう。オフィスでのまさに初めの月々から、私の周囲には改革派グループがいました。そして人事異動を始めたのです。政治局と州を含めて、新しい人材に変えていきました。この時期――1986年と1987年――はまた、私が民主的プロセスを拡張しなければならないと考えた時期です。市民たちを関与させなければ、結局、官僚たちが改革すべてを鎮圧してしまいます。これらの変化がなければ、私はフルシチョフの運命をたどったでしょう。もちろん、スムーズなプロセスではありませんでした。

サッチャーは“ドイツが支配するヨーロッパ”を懸念していた

brandenburg gate 1989

マーガレット・サッチャー| ジョージ・ブッシュとは違い、私は始めから明確な理由でドイツ統一には反対でした。ドイツを統一すれば、それはヨーロッパ共同体で支配的な国家となるでしょう。彼らには力があり、能力があります。ドイツが支配的なヨーロッパになるでしょう。

でも、統一は達成されました。本当に、ヨーロッパの他の国々に何の相談もなく。それが起きて、私たちは驚きっぱなしでした。私の世代は、もちろん、ドイツに対する2度の戦争を覚えています。そして2度目は非常に人種差別的な社会でした。ドイツで起きた出来事は、イギリスでは決して起こらないことでした。

私はさらに、東ドイツ、つまり私たちが戦った相手国がヨーロッパ共同体に最初に加わるのは間違っていると思いました。ポーランドやチェコスロバキアといった、私たちの味方の国々を最初に待たねばならないのに、です。ポーランドやチェコスロバキアは1945年にすでに自由になっているべきだったのに、ソ連崩壊まで共産主義のくびきの下に捕らわれていました。それに今も、ヨーロッパに十分統合されておらず、保護貿易政策に苦しんでいます。

ブッシュ| 非常に率直に言いますと、私たちはサッチャー女史とフランソワ・ミッテランとは違っていました。多分それは、2度の世界大戦の歴史に根ざす心配を共有していないからでしょう。アメリカがかやの外だからかもしれません。

でも、私はドイツ統一が西側にとって基本的な関心事になると感じました。ドイツ人をもっと信頼すべきときが来たと思いました。第2次世界大戦後に彼らが行ってきたことを踏まえてです。

それに私は、ヘルムート・コールが統一ドイツをNATOから脱退させることはないと確信していました。私は、彼が西側を選び、ゴルバチョフ氏が望むようなNATOとワルシャワ条約機構の間の中立を選択することはないと確信していました。すべてのプロセスは、コール首相を含め、私たちみなが考えていたより速く進展しました。ミッテラン大統領はこのすべての真っただ中にいました・・・。

ミッテラン| 問題は、統一は確実か、それとも阻止されるかでした。

当時の私の考えを説明するため、短く歴史の枠を描かせてください:
何世紀にもわたって、フランスの指導者たちとヨーロッパの他の指導者たちは、ドイツの人々が、王、諸侯、司教領、様々な利害、プロイセン、ラインラント、バイエルンなどの中で分裂している状態を保つのがふさわしいと考えていました。しかし、歴史は流れ、ドイツ国家が誕生します。国境を持たず、長年境界線を求めてきたこれらの人々が、それを見つけたのです。

最初のドイツ国家は1870年から1919年にかけて強くなりました。その後、2つ目のドイツ国家が生まれ、勝利し、敗れました。何百万もの人が亡くなりました。ドイツの荒廃そのものが特筆すべきことでした。でも、境界線の探求は終わらなかったのです。
「我が闘争」の中でのヒトラーの当初の目的は、すべてのドイツ人を集めること、(チェコの)ズデーテン地方からオーストリア、そして、ヨーロッパ中の民族コミュニティーに散らばる人々を集めることです。彼は最初、イギリスと戦争するのは間違いである、なぜならそこにはドイツ国家のための土地はないから、と考えていました。しかし、ウクライナの東には土地があります。それで(アドルフ)ヒトラーは考えました。西側への進攻はすべきでないと。ところが権力を取ると、彼は正反対のことをしました。そして、負け始めたのです。ドイツは打ち破られ、再び分裂しました。

ですから、ドイツ人自身が、何世紀にもわたって統一を試みると、いつも経験したひどい破壊の記憶を持っているのです。ですから、第2次世界大戦の後、ドイツをさらに分割するというのは現実的な夢でした。シャルル・ド・ゴールはドイツを5つに分割したいと考えました。彼は、歴史を1世紀さかのぼるだけでドイツはもっと多くの部分に分かれていたことを知っていました。1866年のサドヴァの戦いの少し後の時代でさえ、ハノーファー、ヴュルテンベルク、バタヴィア、そしてプロイセン支配下のいくつかの土地に分かれていました。それぞれのつながりは、歴史的に言えば、それほど強くありませんでした。

これらすべてにもかかわらず、そして、人工的な東と西への分割にもかかわらず、1989年にベルリンの壁が崩壊したとき、ドイツ国家が存在しました。法的に言えば、国境は外部の世界によって認められていました。ドイツ民主共和国(東ドイツ)も連邦共和国(西ドイツ)も主権国家として認められていました。

ですから、1989年から1990年に起きた問題とは、ドイツ統一がフランスにとって良いか悪いかではありません――当然、6千万人のドイツの方が8千万人のドイツより安全です。ドイツが分裂していた方がより好都合なのです。

けれど、誰も何もできませんでした。超大国も。東ドイツの軍隊も。クーデターも起きません。暴動もありません。壁はただ崩壊したのです。それは人気のある革命で、通りにいる一般の人々が自分たちの見方を世界中に示したのです。

mitterrand thatcher

ですから、マーガレットと私は統一ドイツについて同じ歴史的な心配を持っていましたが、ここが違います。私はそれを決まったこと、誰も覆せないことと考えました。私は1989年7月という早い時点で、ドイツが国民投票によって平和的に、民主的な統一を望むのなら、それは避けようがないと言っていました。そして、それが起きたのです。

結局、あらゆる条約を無効にする再統一への疾走が起きました。そのプロセスの中で、私たちはそれぞれ、他の人のものより重要だと考える見解を持ちました。

アメリカ合衆国は主にNATOのことを考えました。私は主に国境問題を考えました。ドイツが東西の国境を認識せずに統一することは望みませんでした。

ドイツは確かに、何をすべきか分かっていませんでした。コール首相が1989年11月にドイツ連邦議会に行って、既に起きたことをどのように扱うかについての十個のポイントを提案したとき、再統一はその中にありませんでした。そのとき、彼は東西ドイツの連合同盟を考えていました。

ポーランドの首相が私のところに来て言った。「もう終わりだ」

ゴルバチョフ| ドイツ問題はヨーロッパ政策の中枢でした。第2次世界大戦後のソビエトの立場が、ドイツは統一されるべきである――ただし民主的な、中立の、軍備を持たない国として――だったのを思い出されるでしょう。しかし、そうはなりませんでした。

私が初めて書記長になった後、西ドイツの大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが会いに来て、ドイツについての私の意見を求めました。私は、戦争、また戦後に作られたシステムの結果として2つのドイツは歴史的事実である。歴史はその決定をすでに下した。ドイツは多分、向こう5年、あるいは10年、あるいは100年で統一するだろうと言いました。それが当時の私の立場でした。

同時に、1975年に始まり、欧州の冷戦終結に貢献したヘルシンキ・プロセスが進行していました。それが戦後の現実を統合していて、その中に分裂したドイツもありました。また、私たちとヨーロッパの関係の正常化を可能にしました。私たちはそれで、西ドイツとの広範囲な協力に関わるようになったのです。東西ドイツはともに私たちの最大の経済上、また貿易上のパートナーでした。私の意見では、ミッテラン大統領がポーランドとチェコスロバキアとの条約に署名したことで生じた国境問題について、連邦共和国(西ドイツ)は既に解決していました。これらすべてが、新しい状況へ向かう布石となりました。

しかし、決定的に重要なのはソ連でペレストロイカが始まったことでした。それは中央ヨーロッパと東ヨーロッパの国々の、とりわけ東ドイツの人々の意見に影響を与えました。

1989年10月に、40周年記念の式典に出席するためにドイツ民主共和国(東ドイツ)を訪れたとき、指導者たちが組織したトーチライトのパレードがありました。行進する人々は、国中の28の地域から注意深く選ばれていました。彼らは“信頼できる”はずの人々でした。けれども、彼らはドイツ民主共和国への民主主義とペレストロイカを求めて、スローガンを叫び始めたのです。
ポーランドの首相が私のところに来て言いました。「もう終わりだ」。これが現実になりました。そして、政治家は現実を受け入れなければなりません。

私にとって、ドイツ統一問題は最も難しいものでした。ブッシュ大統領とアメリカの政権にとって主要な問題はNATOの将来でした。そして、今日、共同の機構を構築しようとするヨーロッパのプロセスよりも、NATOがいかに推進されているか見れば、なぜそれが彼らの心配だったか分かります。それは問題です。

フランス大統領は国境を心配しました。サッチャー女史は、誰がヨーロッパを支配するかの地政学的な心配をしました。誰もが疑問を持っていました。

しかし、そうした疑問は、戦時中に払った多大の犠牲を考えると、ソビエトの指導者が直面した問題とは比べものになりません。それで、私たちにとって、ドイツ統一について決定するのは簡単ではありませんでした。私たちは非常に遠い道のりを歩まねばなりませんでした。私たちは、このプロセスには長い時間がかかり、アメリカ傘下ではなく、ヨーロッパのプロセスの下で新しいヨーロッパ機構を構築することで調整されると考えました。

コール首相のように、私たちも当初はドイツの2国の何らかの提携、おそらく連盟が起こるだろうと考えました。

その後、私たちの誰も準備できない速さで群集が新しい現実を造ったとき、歴史が語り始めました。突然、これらの疑問すべてが新しい枠組みに置かれました。

george bush gorbachev

私たちは冷戦を終わらせ、ジョージ・ブッシュと私がマルタで言ったように、私たちはもはや互いを敵とは考えないと言いました。私たちは自国に自由を花開かせるために長い道のりを来ました。私たちは全体主義を解体し、ソ連でペレストロイカを、東ヨーロッパで改革を開始しました。世界全体が発展の新しい段階に進みました。

ドイツ自身が軍隊を送り込んだりして、このすべてを犠牲にするのでしょうか?いいえ。私たちの選択肢は政治的プロセスだけでした。そして、政治的プロセスは人民が望む現実に制約されます。ドイツ人の自由な発言を聞かなければなりませんでした。
ドイツについてのブッシュ大統領の意見は正しいと思います。ドイツは民主主義的な価値観を受け入れました。責任感をもって行動しました。自分たちの罪を認め、過去を謝罪しました。非常に重要なことです。

それが難しいのと同様、ソビエトの指導者が現実に即した決定をすることを避けることもできませんでした。

ブッシュ| 私たちの心配は、単純にNATOだけだったわけではありません。東側の国境問題を非常に心配しました。私はコール首相やポーランドの指導者たちとこの件で個人的に働きました。ポーランドはドイツとの条約提携を求めていました。しかし、コール首相は、統一ドイツの連邦議会が投票できるようになるまで、その準備ができない状況でした。

11月28日にコールは彼の10つのポイント計画をもって出てきました。その後、12月2日にあなたと私はマルタで会いました。記憶違いでなければ、あなたは言いました。ドイツが何をすることを望むとしても――自己決定――、ソビエトはそれで良い。あれは軍事力の使用についての私たちの心配を鎮めてくれました。

ドイツ統一について唯一意見が違ったのは、喜んで白状しますが、マーガレットでした。

ゴルバチョフ| ええ。私はマルタで確かにそう言いました。同じことをしばらく後にコール首相にも言いましたよ。1月と2月に。けれどもやはり、私の立場は、ドイツ統一は時間をかけるプロセスであるべきだというものでした。1990年にキャンプデービッドで、統一ドイツは諸々の条約の間で中立であるべきだとのソ連の見解を表明しました。そして、ウィーンでの会合で、(ソ連外相のエドゥアルド)シェワルナゼだけが中立主張の立場だったのを見ました。

それで、キャンプデービッドで、私たちはそれぞれが考えを表明するけれども、ドイツの人々が決定するということで合意しました。統一ドイツはNATOのメンバーになりたいと言い、私はその現実を受け入れなければなりませんでした。

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サッチャー| 明らかに、私たちの間でいくらかの討議がすでになされていました。そして、多くの人々が、本来は決して起きるべきではなかったことを起こしてしまった、ドイツ人の性質の中に問題があるという、私と同じ怖れを持っていました。今に至るまで、どうしてそんなに大勢のドイツ人が、これらの特筆すべき、高い知性を持つ人々が――科学は優秀で、音楽も素晴らしく、産業の高い効率性を示す――ヒトラーにあのようなことをするのを許したのか理解できません。

ドイツをヨーロッパにつなぎとめたのではなくて、ヨーロッパを新しい支配力のあるドイツにつなぎとめた。だから、私は“ドイツのヨーロッパ”と呼ぶ

ミッテラン大統領が言ったように、ドイツは1870年になって国家となり、そして、戦争を始めました。私が今でも恐れていることがあります。ドイツの一部の人々が、移民に反対してひどい仕方でデモをするのを見ると、その恐怖がよみがえってきます。

私には、あなたが再統一を促進したように思えます。避けられなかったと言われますが、そうではありません。政治指導者たちは現実を受け入れるためにそこにいたのではありません。私は、私たちは必然を変化させるためにそこにいたのだと思います。――自由への愛のために。そしてあなたは道徳的に正しい方向へ、確かに介入しました。

何にしても、今やドイツは再び非常に強力になりました。その国民性は卓越しています。ドイツに加えて、今やヨーロッパにオーストリアがあります。それがドイツの要素をより大きくしています。

ミッテラン大統領と私は知っています。頻繁に同じテーブルに座ってきました。ドイツはその力を使います。ヨーロッパにおける最大の貢献者だという事実を使ってこう言います。「見てください。私は誰よりも多く金銭を費やしています。だから自分の望む事柄について、自分のやり方を持てるはずです」。私はそういう意見を何度か聞きました。そして。金銭的援助を期待する小さな国々がドイツに同意するのを聞きました。単一通貨の中央銀行がそこにない限り、ドイツ議会は(EU統合に道筋をつけた1991年の)マーストリヒト条約(欧州連合条約)を批准しなかったでしょう。ヨーロッパ連合は何と言いましたか?ええ、そうしてください、です。

つまり、私の理想とは正反対ということです。ある人たちは、ドイツをヨーロッパにつなぎとめて、そういうことが再び起こらないようにすべきだと言います。でも、ドイツをヨーロッパにつなぎとめたのではなくて、ヨーロッパを新しい支配力のあるドイツにつなぎとめたのです。だから、私は“ドイツのヨーロッパ”と呼ぶのです。

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この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。

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