【戦後70年】空襲は「死傷者極めて少数」? 1945年8月2日はこんな日だった

70年前の1945年8月1日深夜から2日未明にかけて、アメリカ軍のB29が来襲、富山、八王子、水戸、長岡を空襲した。しかし「死傷者は極めて少数」と報じられた。

■八王子、長岡など空襲

70年前の1945年8月1日深夜から2日未明にかけて、アメリカ軍のB29が来襲、富山、八王子(東京)、水戸、長岡(新潟)などの都市を空襲した。

1945年10月撮影。
1945年10月撮影。

八王子は、8月2日0時48分にB29が爆撃を始めた。市街地の80%、家屋約1万4000戸が焼け、死者約450人、負傷者約2000人を出したとされる

東京都八王子市に住んでいた森田志津子さんは当時16歳。父と弟と3人で空襲に遭った。防空壕も出火し、防火用水をかぶりながら川の土手に避難した体験をつづっている。

「夜が白み出すと、火の静まるのも待ち遠しく、みな家に向かいました。歩き出すと下駄の底が黒くこげました。地面はまだ熱かったのです。町は土蔵だけがぽつりぽつりと立っている外は1軒の焼け残りもなく、今まで分からなかった周りの山並みが、四方に見渡せるほどの焼け野原に変貌していました。道中のあちこちに、男女の見分けも全くつかないほど真っ黒焦げになった死体が、手足が踊っているような格好で転がっていました。(*1)」

しかし「死傷者は極めて少数」と報じられた。

「空襲警報とともに、老幼者の事前避難を行い、全市の避難路には『誘導員』を配置したため、避難の混乱は寸分も起らず、河原、山地など予め避難先と目されていたところには整理員を配置し、避難者の密集するのを避けた。このため避難場所にかなりの投弾があったのに死傷者は極めて少数だった。(*2)」

8月1日深夜から2日未明の空襲を伝える朝日新聞の号外
8月1日深夜から2日未明の空襲を伝える朝日新聞の号外
朝日新聞(大阪本社版)8月3日付
朝日新聞(大阪本社版)8月3日付

1日午後10時半に始まった新潟県長岡市の空襲では、約1万2000戸が焼け、1486人が死亡した。死亡者には、鶴田義隆市長(当時55)も含まれていた。市役所の防空本部で消火の指揮を執っていたが「庁舎が延焼するや第一線に立って最後まで敢闘し、一歩も引かずに遂に従容として殉職した(*3)」という。

■ポツダム会議が終了

ポツダム会談に参加した(左から)イギリスのアトリー首相、アメリカのトルーマン大統領、ソ連のスターリン書記長。
ポツダム会談に参加した(左から)イギリスのアトリー首相、アメリカのトルーマン大統領、ソ連のスターリン書記長。

イタリア、ドイツが降伏し、大勢の決した第2次世界大戦の戦後処理を話し合う、主にアメリカ、イギリス、ソ連の連合国首脳による会談は、7月17日からドイツ・ベルリン郊外ポツダムで開かれていたが、8月2日に終了。ドイツの米英仏ソ4カ国による分割占領や賠償、ナチス・ドイツや協力者への戦争裁判などを定めた「ポツダム協定」を結んだ。

日本に無条件降伏を呼びかけるポツダム宣言は、すでに7月26日に発表されていた。鈴木貫太郎首相は28日の記者会見で、記者の質問に答える形で「政府としては何等重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するのみである」と述べた。各新聞は「政府は黙殺」(朝日新聞東京本社版)、「笑止、対日降伏条件」(読売新聞)、「笑止、米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん」(毎日新聞)と報じた(*4)。

8月3日に続く)

朝日新聞(東京本社版)1945年8月2日付
朝日新聞(東京本社版)1945年8月2日付

*1 『グラフィック・レポート 昭和の戦争記録――東京目黒の住民が語る』岩波書店、1991

*2*3 朝日新聞(東京本社版)1945年8月3日付

*4『日米の教科書 当時の新聞でくらべる太平洋戦争』辰巳出版、2015

※文中の引用は現代表記に改めました。

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