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終戦の『聖断』そのとき昭和天皇は 「何遍も両方の頬をお拭いに...」内閣書記官長の証言で振り返る

2017年08月14日 22時22分 JST | 更新 2017年08月15日 16時14分 JST

1945年8月15日正午、昭和天皇が「ポツダム宣言」を受諾し、太平洋戦争の無条件降伏を告げる「終戦の詔書」を読み上げた音声、いわゆる「玉音放送」がラジオで全国放送された。

この「玉音放送」で流された昭和天皇の肉声がレコード(玉音盤)に収録されたのは、その前日(8月14日)に昭和天皇がポツダム宣言受諾の意思表明(いわゆる「聖断」)をした「御前会議」から数時間後のことだった。

この日の「御前会議」で、昭和天皇はどんな様子だったのだろうか。

ミッドウェー、レイテ沖、サイパン、沖縄、広島、長崎… 「終戦」に至るまで


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(上段左から)ミッドウェー海戦で大破した飛龍、レイテ沖海戦(下段左から)サイパンの戦い、広島の原爆ドーム

真珠湾攻撃から半年が経とうとしていた1942年5月、日本軍は「ミッドウェー海戦」で敗北。次第に太平洋における制海・制空権を喪失。戦争の主導権を失い、戦局の劣勢が方向づけられた。

44年7月、日本軍のサイパン島守備隊が玉砕し、同年10月の「レイテ沖海戦」で連合艦隊は壊滅。戦争の趨勢は決定的となりつつあった。

45年2月、元首相の近衛文麿は昭和天皇に戦争終結を進言した。いわゆる「近衛上奏文」だ。

「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。(中略)国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候」

ただ、「一撃和平」「本土決戦」を叫ぶ軍を抑えることは叶わなかった。

45年3月、沖縄戦がはじまる。この時、アメリカ軍55万人に対し、迎え撃った日本軍はわずか11万人。住民も巻き込んだ壮絶な戦いで、日本側は軍・民合わせて18万人もの命を失った。沖縄県民は4人に1人、12万人以上が犠牲となった。

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沖縄南部海岸で米軍戦車による洞穴への火炎放射

東京をはじめ、主要都市も空襲の標的となった。幾多の犠牲を重ねた後、8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が落とされた。和平仲介の望みをかけたソ連も対日参戦し、もはや戦況は絶望的となった。

昭和天皇は、さらなる戦闘を主張する軍部を抑え、8月9日と14日、2度にわたる御前会議を経て「ポツダム宣言」受諾による早期講和の意思を表明。いわゆる「聖断」を下した。この時、昭和天皇は以下のように述べ、自らラジオで終戦を国民に伝える意向も明らかにした。

「自分の非常の決意には変わりない。内外の情勢、国内の情態、彼我国力戦力より判断して軽々に考えたものではない。国体については敵も認めていると思う。毛頭不安なし。敵の保障占領に関しては一抹の不安がないではないが、戦争を継続すれば国体も国家も将来もなくなる。即ちもとも子もなくなる。今停戦せば将来発展の根基は残る。武装解除は堪え得ないが、国家と国民の幸福の為には明治大帝が三国干渉に対すると同様の気持ちでやらねばならぬ。どうか賛成してくれ。陸海軍の統制も困難があろう。自分自ら『ラヂオ』で放送してもよろしい。速に詔書を出してこの心持を伝えよ」

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1945年8月14日「御前会議」が開かれた御文庫附属庫の会議室(千代田区・皇居内)

「何遍も両方の頬をお拭いに」「陛下ご自身もお泣きに」 内閣書記官長の証言


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大元帥と立憲君主、2つの役割を担っていた昭和天皇

大元帥と立憲君主、2つの役割を担っていた昭和天皇は、「統帥権」に基づき発した徹底抗戦の大元帥命令を、立憲君主として持つ「和平の大権」をもって否定した。また、天皇の権威が維持されているうちに、天皇の自らの決定によってポツダム宣言を受諾が決まったことは、戦後の「国体」の護持へとつながった。

当時、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長だった迫水久常氏は、14日の御前会議で「聖断」を下した昭和天皇の様子をこう語っている。

陛下は白い手袋をおはめになった御手で、何遍も両方の頬をお拭いになりました。陛下ご自身もお泣きになっておられたのであります。

太田文部大臣がおっしゃいましたが、岡田厚生大臣のごときは、椅子に座っておるのが堪え難くお泣きになったのを私は覚えております。誰も泣かない者はありませんでした。

陛下は「陸海軍においてもし必要ならば、自分がどこに行ってでも説き諭す。軍隊は非常な衝撃を受けるであろうから、どこにでも行って自分は説き諭してもよろしい」と仰せられました。「必要であるならば、マイクの前に立って直接国民に諭してもよろしい」というお言葉もそのときにあったのであります。

陛下のお言葉が終わりまして、鈴木総理大臣が立ちまして、陛下の思し召しを承ったことを申し上げまして、陛下はご退席になりました。
産経新聞社『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より

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昭和天皇

8月14日午後11時30分から同50分にかけて、昭和天皇は内廷庁舎二階の「御政務室」で「終戦の詔書」をレコードに2回録音した。

この直後、日本の降伏を阻止するべくクーデターを企図した陸軍の若手将校らが、近衛師団長を殺害し、偽の師団命令を発動(宮城事件)。「玉音盤」の奪取を目論み、皇居に侵入したほか、NHKの放送会館を占拠したが、クーデターは失敗に終わった。

15日正午、「玉音放送」はラジオで全国に放送された。

国体護持のためか、戦後の羅針盤か 「聖断」「玉音放送」の意義とは


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「終戦の詔書」

戦後になって新たな史料の発見や研究が進むにつれ、「聖断」をめぐっては、「国体護持のためで、国民の生命は二の次だった」と厳しい評価もある。「終戦の詔書」についても、満州事変や日中戦争について言及されておらず、アメリカ・イギリスとの戦争を「自存」のためとしたことで、なおも批判は続く。

一方で、「玉音放送」には、戦後の「天皇」のあるべき姿、進むべき道が示されていたという意見もある。

昭和天皇は戦後の混乱期から復興期(1946〜53年)にかけて、精力的に地方を巡幸し、平和主義者としての姿を強く印象づけた。だが、1972年に返還された沖縄の訪問だけは、ついに叶わなかった。

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地方を視察される昭和天皇と香淳皇后(1951年、千葉県市川市)

ただ、『昭和天皇独白録』に沖縄戦での悲惨な戦いに関する言及があるように、あの戦争への強い自責と後悔の念を、生涯にわたって抱き続けたことは、確かだと言えよう。

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昭和天皇と香淳皇后(1986年04月17日)

戦後日本の復興を見届けた昭和天皇は、1989年1月7日に崩御。波乱に満ちた87年の生涯は、まさに「激動の昭和史」そのものだった。

▼「昭和天皇」画像集▼

昭和天皇の生涯


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