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「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考

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(4/25に文章を一部加筆・修正して再掲載します。)

参院選挙を前にして、相変わらず、党内にも、世間にも、憲法学者の間にも、集団的自衛権の限定的行使を容認した一昨年の閣議決定や昨年9月成立し今年3月施行された安保関連法制に対し、戦争法だ、憲法違反だ、立憲主義の蹂躙だ、という声が鳴り止みません。そこで、大学時代に憲法学を専門的に学んだ立場から、改めて、政府が閣議決定して修正した憲法解釈について私自身の考え方を整理しておきたいと思います。(法的な概念の正確性を期する余り、多少くどい文章になっていることをご容赦ください。)

まず、多くの憲法学者や国際法学者も指摘しているように、集団的自衛権の本質は「他衛」です。じっさい、過去の集団的自衛権の行使事例を振り返っても、自国の存立が直接脅かされるというよりも、密接な関係を持つ同盟国などに向けられた武力攻撃に対しその国を守る、あるいはその国に加勢すること(すなわち、他衛)を通じて自国の安全や生存を図ろうとするケースが殆どでした。したがって、従来の政府の定義(最終的に昭和56年に確立)も「他衛」としての集団的自衛権でした。たとえば、「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている」(昭和56年5月29日の政府答弁書)が、典型的な政府による集団的自衛権の定義です。

この定義からは、想定されている武力攻撃が我が国に対し直接向けられたものでないことは明らかであるものの、その攻撃により我が国の国民の生命、自由、幸福追求の権利がどのような影響を受けるかについては定かではありません。つまり、自衛権の行使といっても、自国に直接向けられた武力攻撃に対し反撃するしか選択肢が残されていないような差し迫ったケースというより、能動的に(自国と密接な関係にある)外国まで出かけて行って、そこへ加えられている攻撃を実力で阻止するような態様を想定しており、受動的な自衛というより「他衛」というべき概念です。集団的自衛権をそのような概念で捉えて、そのような自衛権の行使は我が国の憲法上認められるものではないと結論付けたのです。

すなわち、そのような集団的自衛権の定義を前提とすれば、憲法13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」との規定に根拠をおいて自衛権の行使を合憲と解してきた政府が、前述のようにわざわざ攻撃を受けた国にまで出かけて(あるいは攻撃国にまで迫って)行ってその攻撃を阻止する「他衛」を正当化できないことは火を見るよりも明らかです。これが、「昭和47年見解」で示された政府の「いわゆる集団的自衛権」を違憲とした基本的論理なのです。以来、この基本的論理は40年以上も踏襲されました。

ところが、今回、国際情勢の変化や軍事技術の進歩に鑑み「自衛」の視点(我が国に対する脅威の近接性、切迫性、および武力攻撃波及の蓋然性等)から改めて集団的自衛権の概念(定義)を見直してみたところ、たとえば(集団的自衛権の行使そのものには否定的な)木村草太首都大学東京教授がかろうじて憲法上許容し得るとした「集団的自衛権と個別的自衛権が重なる部分」(つまり、外形的には我が国に対する直接の武力攻撃が発生していないにも拘らず反撃するという意味で「他衛」と見なされるものの、当該武力攻撃によってもたらされる我が国の国民の生命、自由、幸福追求の権利への侵害に切迫性があり近接性があり、しかも攻撃が直接我が国に及ぶ蓋然性が高いと判断されることから、それへの反撃が「自衛」と解される十分な根拠がある場合)などについて、武力行使の新三要件に基づく限りで(これまで集団的自衛権とされてきた行為の一部を)合憲と判断し得るのではないかという結論に至り、閣議決定を通じて政府解釈をアップデート(修正)した、ということだと思うのです。

したがって、私は、一昨年7月の閣議決定をもって昭和47年見解の基本的論理を維持しているとの政府の説明も十分成り立つのではないかと考えるのです。すなわち、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置」としてならば、そのような自衛の措置は、たとえ我が国に直接武力攻撃が加えられない(つまり、当該武力攻撃に対する反撃行為は個別的自衛権では説明し切れない)ような場合であったとしても、憲法上「容認されるものである」とされたのです。換言すれば、この「47年見解」で違憲と断定された「いわゆる集団的自衛権」とは、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする」従来の定義に基づく「他衛」のことを指すのであって、それはすなわち、我が国に対する脅威の切迫性や近接性、武力攻撃が我が国へ直接波及する蓋然性が存在しないにも拘らず、我が国が反撃を加えることができる権利と解されるのです。

ところで、たとえ従来の定義に基づく「いわゆる集団的自衛権」のごく一部を認めるような政府解釈の修正であったとしても、本来国家権力を縛るためにつくられた憲法の解釈を国家権力たる政府が自ら変更するのは立憲主義の蹂躙だ、という主張について一言触れておきたいと思います。政府はいかなる理由があろうとも過去の解釈を自らの手で変更してはならないのでしょうか。そんなわけがありません。憲法81条には、国家行為の憲法適合性を判断する終審裁判所は最高裁であると明記されており、最高裁が判断するまでの間は、政治部門(行政府と立法府)が憲法の有権解釈権を有しています。問題は、政治部門が、法規範論理(憲法規範の枠内に収まる論理)に基づいて、過去に積み重ねられた解釈と整合性のある解釈変更の根拠を示せるか否かということです。それをはみ出すようであれば、憲法を改正するしかないことは論を待ちません。

また、政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。なぜでしょうか。要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)

以上要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。

もちろん、だとしても、このたびの安保法制の立法過程において、なぜそういった新規立法が必要なのかを示す立法事実を十分に説明し切れなかったり、国際情勢変化や軍事技術の進歩などについて説得力ある説明ができず、国民多数が未だ十分に理解していない段階で、数の力で押し切った政府の責任は重いと考えます。その意味での反発や批判は正当なものといえます。ただし、それを以って「戦争法」だとか、「集団的自衛権は違憲」だとか、「立憲主義を蹂躙するもの」などと批判するのは感情論以外の何物でもなく、いかに憲法学の大家や熱心な政治家や気鋭の学生さんたちが論陣を張ろうとも、それらは学問的にも政策的にも誠実な議論とは言えないのではないかと感じています。