BLOG

「避難指示解除」後の飯舘村(上)帰還農家が背負う「開拓者」の苦闘--寺島英弥

2017年3月末、6年ぶりに避難指示が解除された福島県飯舘村。

2018年01月23日 12時18分 JST | 更新 2018年01月30日 08時12分 JST

2017年3月末、6年ぶりに避難指示が解除された福島県飯舘村。その中、標高約600メートルにある比曽地区は厳寒のさなかだ。全87戸のうち帰還は4戸。農業を営む菅野義人さん(65)は生業再生を期したが、国の対応はずさんだった。

除染後の農地の地力回復工事が同年秋まで延びて持ち主への引き渡しが遅れたうえ、汚染土のはぎ取り後に露出した無数の大石が残され、農業を知らぬ土木業者の粗雑な工事を自らやり直しするなど、解除後の1年は「無」だった。

買い物や郵便投函が地元でできず、ネットの注文品も宅配されず、自力で除雪しなければ家族の介助ヘルパーも村外から来られない。だが菅野さんは、「開拓者」の苦闘を負わされながらも、「後継者が戻る日までに農地を回復することが私たちの使命」と、終わりの見えぬ冬に耐える。

学生たちに語る苦闘

2017年11月13日、仙台市の東北大学川内キャンパス。菅野さんは、筆者が担当した新聞ジャーナリズム講座に招かれ、東京電力福島第1原子力発電所の事故以来の体験を学生たちに語った。

「(2011年3月に)原発事故が起きて、同居する長男のお嫁さんに赤ちゃんができたので、すぐに茨城県の実家に避難させた。比曽は村内でも放射線量が高くなり、政府から村に全住民避難の指示も出て、私と女房=久子さん(65)=は、二本松市の友人から一軒家を借りた。翌年11月、長男の家族が次の避難先の北海道に向かう途中、久しぶりに飯舘村のわが家に寄ってくれた。しかし、除染前で家の周囲の放射線量は、居久根(屋敷林)に面した裏手で5~6マイクロシーベルトもあり、これから自分の家族をつくる村の若い世代がいられる環境ではなかった。原発事故の後、安全や信頼の物差しも失われ、それぞれが手探りしていた。再び集えるのがいつになるのか分からないが、私も女房も、よく一家楽しんだバーベキューをもう一度やりたいと願っていた。まず帰還できるわが家を作ろうと、明治45(1912)年に曽々祖父が建てた家の解体と改築を決めた」

教室で学生たちに囲まれて語った菅野さんに、こんな質問があった。昨年3月末の避難指示解除後間もなく飯舘村を訪ね、「解除」の風景からはほど遠い異様さを感じたという女子学生からだった。

「村のあちこちにトンパック(除染土1トン詰めのフレコンバッグ)がいっぱい積まれて、今も放射能が怖いと思った。お嫁さんの話を聞いたが、帰還することに不安はなかったのですか」

菅野さんは「不安がないとは言えない」と率直に心中を語った。

環境省は、家の周囲や農地を一定基準で除染(放射性物質が多い地表から深さ5センチの土壌のはぎ取り)したが、それは地区の生活環境のごく一部だ。汚染された居久根(いぐね・屋敷林)は林床の表面を掃除しただけだ。山林は未除染のままで、それらがある家の裏手に回ると、放射線量は3~4マイクロシーベルト(毎時)に上がる。

宅地の除染作業が本格化した2016年夏、菅野さんは地元行政区の仲間や支援者の専門家と一緒に地区の全戸を巡り、家の周りの除染前後のデータを集めた。

「除染前だと、家の前で6マイクロシーベルト、裏に回ると20マイクロシーベルトという所もあった。その仲間と支援者の人たちと一緒に、わが家の居久根の土や枝を除去して、粘土層まで深い穴を掘って埋設する実験もしてきた。放射線量を劇的に下げたし、地下水にも放射性物質が出ないことを継続的に証明できた」

「『農家の自分が何をやっているのか?』と思ったこともある。だが、他の誰がやるのか? 息子や孫にやってくれと言えるか? 線量を下げることが帰還のカギになるのなら、生かしてもらえる時間があとせいぜい20年だとしたら、自分たちが今やらなくては。60代の私たちの世代の責任であり、使命なんだ。できることを一歩一歩やっていくしかない」

飢饉を生き抜いた先祖

飯舘村の南部、帰還困難区域の長泥地区に隣接して、比曽のなだらかな小盆地がある。菅野さんは避難指示解除後の7月に避難先を引き払った。それまで毎日のように帰還準備で通い、全面的な改築工事を終えた比曽の自宅に、久子さんと2人で帰還した。

比曽はかつて冷害常襲地だった。1780年代の「天明の飢饉」で、当時相馬中村藩の山中郷(さんちゅうごう)と呼ばれた現飯舘村では、約5000人の4割が死亡・失踪し、旧比曽村(現在の比曽、長泥、蕨平の3地区)の住民が91戸から3戸に激減した歴史がある。菅野さんの先祖は生き残った1戸で、荒野と化した古里にとどまり復興に尽くした。

「天明4(1784)年の3月までは、砕けしいな(稔実不良の籾)、麦類、ヒエなどの雑穀に、葛、ワラビの根を混ぜ、粥や団子にしてしのいだが、草木の萌え出る頃を待ち、セリ、ナズナ、ウコギ、クコ、カエルッパなどに藁(わら)の粉、こぬか等を混ぜ、練りモチや団子にした」

「天明4年の春には、多くの餓死者に加え、疫病が流行し、病死、中毒死もあり、死者の数は増えるばかりであった」

「耐える意思なき者は、老父母を置き去りにして逃げ行き、或いは、我が子を淵川池堤に投げ入れ、富家の門前に置き去りにする者あり」

「凶作により人の心まで落ちて、浸種や苗代に蒔いた種まですくい取り、強盗、追いはぎ等数々の罪人多く、火あぶり、はりつけ、打ち首等の仕置きあるも止まらず」

――以上は、当時の比曽村の惨状を記した『天荒録』の一節(現代語訳)である。

これに先立つ宝暦5(1755)年の飢饉でも、「穀物の値も上がり、ワラビの根、葛の粉、こぬかを食べ、絶食の日もあり、山中郷の人は顔色青白くやせ衰え、病人や老人たちは2〜3日伏せた後相果て、野山、道路で死ぬ者も多くあった」(『宝暦山中郷飢饉聞書』より)。

菅野さんは、比曽に入植した初代から数えて15世代、約400年続く農家で「肝入」(名主)も務めた。比曽は高冷地の開拓の難儀、数々の大凶作、家族を犠牲にした戦争を乗り越えて耕し、肥やし、守ってきた農地、集落であるという。「それが復興の原点。先人の労苦を思えば、乗り越えられない困難はない。原発事故もまた歴史の試練と思い、帰還以外の選択肢は自分になかった」

改築した母屋も、その思いを形にして伝える。太い柱は杉とヒノキ。「傷みがなく構造もしっかりしていて、残せるものは残そうとやったのだが、『五寸五分』といった昔の寸法なので、大工さんは大変だった」「ふすまを外すと『田の字』の広間になり、昔は大勢の人が集まり、結婚式も葬式もここでやった」。

菅野さんはそれらの黒光りする大黒柱や無骨な太い梁をそのまま残し、内側は温かみのある木と白壁、外観は黒い瓦屋根と白壁、こげ茶色の板壁が調和した家に直した。目を見張るのは、部屋の1つの天井近くに掲げられた立派な屋根のある神棚だ。幅5~6メートル、高さは1.2メートルほどもあり、比曽の歴史と先祖の生き方を受け継ぐ気概が漂う。濃い飴色に染まった神棚には「明治四拾五年壱月六日 大工 越後之国蒲原郡 相馬駒吉 戸主 菅野義久」との墨書が読めた。

農地返還は遅れに遅れ

東北大の講座の後、菅野さんを比曽に訪ねたのは2017年12月1日。東北の冬は早く、飯舘村では11月12日に、初雪が降っていた。柔らかな日が差すが、阿武隈山中の空気は痛いくらいに冷たい。除染後の水田のむき出しの土色と雑草の枯れ色、その上に緑色のカバーで覆われて居座る除染土の広大な仮置き場。裸になった木々、取り残されたように動かない重機群の他に、人の姿はどこにも見えない。高台にある菅野さんの母屋の脇には、唯一の生気を発する玉ネギの畑が作られていた。緑の芽はまだひょろりと、か細いままだ。

「避難指示が解除になってから、初めて植えた。時期的には玉ネギしかなく、10月末から11月末に植えたが、だいぶ遅くなり、冬越しがうまくいくかどうか」

菅野さんは篤農家らしからぬ自信なげな口調だった。

「比曽では他地区よりも農地の除染作業が1年遅れて昨年(2016年)に終わり、解除の春を過ぎて、7月末にやっと地力回復工事が始まった」

地力回復工事とは、表土はぎ取りで地力を失った農地に、環境省が営農再開支援としてカリウムなどの基本肥料、放射性物質の吸収抑制効果がある土壌改良材ゼオライトを投入し、すき込む工程のこと。比曽では、土木業者が請け負ったその作業が、遅れに遅れた。実際に菅野さんの農地で工事が行われたのは、9月末だった。それも元の牧草地だけで、水田はいまだ撤去時期不明の仮置き場の下にある。「9月を過ぎると、標高が高く秋の霜の早い比曽では農繁期を逃す。そもそも『役所仕様』の地力回復工事を当てにできず、一から土作りをしなくてはならぬ手間暇を考えると、貴重な1年が既に無になった。これで何が解除か」

農業を知らない土木作業員たちの工事に立ち会うたび、落胆や憤りを味わった。

「地力回復というが、あれは農地の『再生』のための工事ではなかった。彼らは土をうなう(土を掘り起こして耕す)方法も分からない。ただトラクターにロータリー(土を耕起する機具)を付けて、四角い農地を丸く回り、早くかき回すだけ。丁寧に細かく土を砕かなくてはいけないのに」

東北で雨と低温が続く異常気象だった2017年は、9月になっても雨が上がらず、地下配水管も重機の重みで壊れ、農地はぬかるんだ。

「工期があるからか、作業員らは水たまりの中をうなっており、『どろどろにぬかるだけだから、やってもだめだ』と言っても聞かない。案の定、長靴が脱げるほどぐちゃぐちゃな畑に玉ネギを植えざるを得なかった」

無数の大石との格闘

地力回復工事を巡る環境省の出先機関・福島環境再生事務所(現・福島地方環境事務所)からの比曽行政区への事前の申し合わせも、たびたびうやむやにされたという。例えば「工事が終わった農地から順に白い旗を立てて、持ち主に知らせて引き渡す」との約束があったというが、菅野さんの農地に現場の工事業者が白旗を立てたのは、20アールの畑1カ所だけで、後は忘れられた。

牧草地として復旧する予定の別の農地には、牧草の種がまかれることになっていたが、実際にはまかれなかった。インターネット上に公表されている環境省の除染関係工事の仕様書にも、その工程は明記されている。おかしいと思った菅野さんが「いつになるのか」と問い合わせた。「調べてみます」という先方のその後の回答は、「そこは牧草地じゃなくて田んぼになっている」。菅野さんは「地目登録台帳でも牧草地にしている。なぜ、そんな判断をしたのか?」と指摘すると、相手の返事は「判断した人間はもうここにいません」だったという。

本当の地力回復には、田畑1枚ごとに「pH」などの状態を調べ、それに合わせて早いうちに必要な肥料や改良材を入れて土壌の性質を調整し、さらに牧草などの緑肥を施さなくてはならない。

本来、役所の机上で作られた一律の工事仕様書で、農家が「生命」とする土の力を回復させることなどできない。そう考えていた時に、さらなる役所のミス。「もう自分でやらせてほしい。あなた方の補完工事をやってやるのだから、その分の経費をお願いしたい」。待ちきれなくなった菅野さんは10月初めに伝えたが、回答はないままだという。

環境省側への不信が極まったのが、「石」への対処だった。牧草地は長年深耕した水田と違い、表土をはぎ取られると、浅い土壌がむき出しになる。そこに露出するのが、地元の土壌の特徴である無数の花こう岩だ。「先祖以来、比曽で農地を開拓する者の宿命は石との闘いだった」と菅野さん。除染後に新たな牧草地を開こうとすれば、大小の石を取り除かねばならない。当然ながら重労働になる。

地元行政区への事前の説明会で、環境省側は「除染の機械に当たった石については、人を配置して、すぐ確実に除去する」と約束した、と菅野さんは振り返る。

「しかし、結局、石はそのままにされた。現場の業者は『表面に顔を出した石は取れない』と言った。話が違うと怒ったが、らちが明かず、自分のバックホー(小型のショベルカー)を使って、1つ1つ掘り出すしかなかった。それにも1カ月、予定外の手間暇がかかった」

後になって当時の担当者から菅野さんに電話があり、最初の説明について「申し訳ない。できないことを言ってしまった。勘弁してほしい」と一方的に謝られたという。掘り出された大小の石は撤去される当てもなく、数えきれぬ徒労を証言するモニュメントのように積み重ねられている。

「あぜんとした。その場その場を取り繕うような対応を重ねて、誰も地元に責任を取らない。おそらく記録にも残していないだろう。後に残るのは、除染をして避難指示を解除し、農地再生を支援し、被災地への住民の帰還を後押しする事業をした、という政府の言い分だけ。そんなやり方で幕引きをされ、後は自力で生きろ、と言われているようなものだ」(つづく)


寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
(2018年1月22日フォーサイトより転載)

関連記事