Huffpost Japan
ブログ

ハフポストの言論空間を作るブロガーより、新しい視点とリアルタイムの分析をお届けします

吉岡秀人 Headshot

ドクターカーに込めた想い-人生をいい加減に扱わないために

投稿日: 更新:
印刷

病院に行って、いい加減な対応や診察をされたら誰だって腹が立つ。
自分の大切な人生を汚されたような気になる。健康問題が絡んでいるとなおさらだ。

しかし他人の健康や応対となると、人は大らかにそしていい加減に扱ってしまいがちだ。
せいぜい大病を患った直後は、人に優しくなれる程度かもしれない。
ましてや、遠く空間を隔てられた人々の健康問題など、国内であろうと海外であろうと同じように余り興味ない。

アジアの途上国では、どの国でも大きな都市部以外は昔ながらの悪路が続く。
雨季には、ジャパンハートの四輪駆動の車でも泥につかまり前に進めなくなる。
その時には、村のあちこちから人々がやってきて、タイヤの下に草と小石を詰め込んでいく。
そして、村人たちと泥に足を突っ込みながら、車をぬかるみから這い出させるのだ。

彼らが病気になった時は、しっかりお返ししなければならない。

しかし考えてみると、
そんな道を患者たちは、自転車やオートバイ、果ては牛車や徒歩で何時間もかけて私たちの所へやって来てくれているのだ。
あふれかえる患者たちの一人ひとりには、そんな隠れた風景がある。

2016-11-01-1477976604-8962569-JN2_6806.jpg

待てど暮らせど、どうせ自分たちの村には医者は来ない。だから自分からやって来てくれるのだろう。

人は大きなことがらに関わりだすと個人の人生が見えなくなる。
病院であふれかえる患者たちに慣れてしまうと、患者たちの苦労がわからなくなる。
苦労がわからなくなると、患者たちの人生が見えなくなる。
患者の人生を診ない医療は温かさを失う。
その体温は医療者自身を暖める温もりでもあるのに。

アジアには、昔の日本にあったような慣習が今でもたくさん残っている。
私たちがアジアの田舎で救急車を使う時、人の命を救うために使い、そして患者や家族の精神的な救いのために使うことも多い。

昔の日本人たちは大病を患い、死の床に就くと自宅で死にたいといって皆、病院から家に帰って行ったものだ。
今では、多くの人々が病院というおおよそその人の人生には無関係な場所で死を迎える。

これは幸せなことなのだろうか?

2016-11-01-1477982446-6860819-DSCN01761.JPG

私たちが医療を届けているアジアの地域では、病院までの道のりが、かなり遠い。

平均は4~5時間程度かもしれないが、中には48時間以上かけてやってくる患者たちも多い。彼らは病院で死の床に就くと、必ず私たちに村へ帰りたいと懇願する。村の外で死んだ人間は村で遺体を埋めることができない。「不幸を村へ持ち込む」という考え方があるからだ。

その人が遠い病院で死んでしまうと、家族は二度とその人の面影を偲ぶこともできなくなってしまう。だから、何が何でも生きているうちに村にたどり着きたいと願う。

点滴をつるし、酸素を与え、数時間の道のりを、少しでも心臓が動いている間に村に向かって救急車を疾走させる。生きているうちに村にたどり着いた時、今まさに息絶えようとしている患者に聞くことはできないが、家族や身内はみな安心した顔をしている。

その最終目的を達成するために、治療を途中で切り上げることもある。
助かるかどうかわからない段階でも、その決断をしなくてはならない時もある。
神ではない私が、何という宿命を背負ってしまったのだろう。

心筋炎で死にそうな人の治療を中断し、そうやってうちに帰した。
一月後、その人が先日はお世話になりましたと元気にお礼を言いに来たときは、苦笑いするしかなかった。

どこにしまってあったかわからない汚れたお金を握り締めて、治療を待ち続ける患者たちの人生とはどのようなものだろう?

多くは支援に、効率を重視するだろう。その「効率」は多くの場合、お金に換算される。
それも支援する側だけのお金に換算される場合だけが多いのだ。

このプロジェクトにはいくらのお金が必要で、その成果はこれほどなのだという具合に。

そこには患者たち一人ひとりが、自らに費やしている時間やお金は含まれていない。もしも、そのどちらをも加えた総計から効率が導き出されるとしたら、支援の様子も今とは変わるかもしれない。

私たちが逆に彼らの元に赴き、彼らのなけなしのお金が交通費で費やされることがなければ、少しは彼ら自身の健康にお金が使えるかもしれない。

さらに、こちらから彼らの村へ出向き診療活動をしても、多くは聴診器一本の戦いになる。
心電図をとらなければわからないことも多い。薬すら決めることができない。腹痛や腫瘤の診断に触診だけでは限界もある。だから、せめて超音波を大きな町で撮るようにと依頼してしまう。

しかし、結局は彼らがそれらの検査を受けることはない。

交通費、宿泊費、診断費。

それらを支払い、また私たちが近い将来そこへ診察に帰ってくると信じるほど、彼らに金銭的な余裕があるわけではいのだろう。

2016-11-01-1477982277-3441708-JN1_1558.jpg

私たちは少しくらい患者と私たちの持ち出したエネルギーの総和で効率を計る医療活動をしてみたい。それは時に、人の健康を取り戻すという行為からかけ離れた、今まさに絶命しようとする人を生まれ故郷に送り届けることになるかもしれない。

人はきっと効率だけでは生きていない。生きていけない。
人を好きになるのも、人のために生きるのも、生まれ故郷を大切にするのも、どれも効率でははれない。

私たちは、そんな非効率な医療も行うことができるドクターカーをラオスに投入してみようと思う。

あなたの人生のように、私の人生のように、見ず知らずの病気の人々の人生をいい加減には扱わないように。そして、汚さないために。

ラオスの人々をドクターカーで救うクラウドファンディングプロジェクト
◆「10万人が待つラオスの貧しい村へ ドクターカーで医療を届けたい!」

クラウドファンディングにご協力よろしくお願い致します。