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ユダヤ人を救った杉原千畝物語 ~オペラ「人道の桜」が再演決定 迫害されたユダヤ難民にビザを発給

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迫害されたユダヤ難民にビザを発給し、6000名以上の命を救った外交官・杉原千畝。その"命のビザ"発給をめぐるストーリーを、史実そのままに再現したオペラ「人道の桜」が、来年3月東京で再演されることとなりました。

杉原千畝に関しては昨年、戦後70周年を記念して東宝が映画「杉原千畝 スギハラチウネ」を唐沢寿明主演で制作し話題を呼びましたが、オペラも昨年5月、千畝が赴任していたリトアニアの国立劇場で初演。その後、彼の母校である早稲田大学大隈講堂など都内で凱旋公演が行われ好評を博しました。

実は来年の東京公演では、友人のオペラ歌手 大貫史朗さんが千畝役を演じます。バリトン歌手の円熟期は55歳からと言われますが、まさにその言葉通り、声の伸び・艶・安定感・表現力etc.そのすべてにおいて完成度と充実度を一段と増している大貫さんの演技が、世界の人々の心を打つこの歴史的ドラマにより一層の深みを与えてくれることと今から期待しています。

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「東洋のシンドラー」と称され、今では偉人として知られる杉浦千畝ですが、ユダヤ人難民の入国拒否を命じた政府の訓令に反してビザを発給した彼は、帰国後に外務省から事実上罷免され不遇な後半生を余儀なくされました。

日本政府による公式の名誉回復が為されたのは2000年10月のこと。1986年に千畝が亡くなってから14年後のことでした。

第二次世界大戦中、杉原千畝がリトアニアのカウナス領事館に赴任した当時、欧州ではユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激化。ポーランドを始めドイツ占領下の地域からのユダヤ難民にどのように対処するか、国際問題となっていました。

1940年には日独伊三国同盟が締結。その一方で、リトアニアはソ連に併合され、各国の大使館・領事館は続々と閉鎖されていきました。

そのような状況下、ユダヤ難民の逃亡ルートはシベリア鉄道で極東へ進み、日本へ渡って米国などへ脱出するしかなくなっていきます。日本を通過するビザを求め、いまだ閉鎖されていなかった在カウナスの日本領事館へユダヤ難民が殺到したのでした。

既にソ連から領事館閉鎖の勧告を受け、ナチス・ドイツとの同盟関係に対する悪影響を危惧する日本政府からはユダヤ人入国を拒否するよう命じられた千畝は、手記に次のように記しています。

少し長いですが、千畝の決断が一時の個人的感情や単純な正義感から為されたものでなく、世界的・長期的視点から真の国益とはなんぞやと考え抜いた末に、自己保身をかなぐり捨てて行われたことを証明する文章ですので、そのまま引用させていただきます。

「私は考え込んでしまった。

元々彼らは私にとって、何のゆかりもない赤の他人に過ぎない。
いっそのことビザ発給拒否を5人の代表だけに宣言し、領事館オフィスのドアーを封印しホテルにでも引き上げようと思えば、物理的には実行できる。しかも本省に対し、従順であるとして褒められこそすれと考えた。

私は考え込んだ。

仮に、本件当事者が私でなく、他の誰かであったならば、百人が百人<拒否>の無難な道を選んだに違いない。
なぜか。

文官服務規程というような条文があって、その何条かに縛られて<昇進停止>とか<首或(左の首が編で右の或がつくりの漢字)首=解雇>が恐ろしいからである。私はこの回訓を受けた日、一晩中考えた。
家族以外の相談相手は一人も手近にいない。

とにかく、果たして、残慮、無責任、我武者羅の職業軍人集団の、対ナチ協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか、公安上の支障云々を口実に、ビザを拒否してもかまわないとでもいうのか?
それが果たして国益に叶うことだというのか?

苦慮の挙句、私はついに、人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。
そして私は、何も恐れることなく職を賭して、忠実にこれを実行し終えたと、今も確信している。」

杉原千畝という人物が、どのような志の下、いかなる使命を果たさんとして「外交官」という職業を選んだのか、その思いが痛切に胸に迫る名文です。

千畝は、将来は医師にという父の意に反して早稲田大学に進学したため、仕送りもなく苦学したようですが、語学を活かした仕事に就きたいと猛勉強の末、外務省の官費留学生に合格。中華民国のハルビンに派遣されロシア語を学びます。

卓抜した語学力を習得した千畝は外務省書記生として採用された後、若くしてロシア問題のエキスパートとして頭角を現し高い評価を受けます。しかし、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得て間もなく、千畝は満州国外交部を退官してしまいます。同年には、白系ロシア人の妻とも離婚。

この時期ハルビンの日本領事館にいた千畝は、関東軍に後援された白系ロシア人のファシスト組織が背景にいたとされる、ユダヤ人や中国人の富豪に対する誘拐・殺人事件を身近に体験します。その一方で外交能力の高さを買われ、破格の金銭的条件のもと関東軍のスパイになるよう強要されます。千畝はこれを拒否、外交部を辞任します。

千畝の拒否に対し関東軍は、前妻がソ連側のスパイであるという風説を流布。そのことは離婚の決定的要因となりました。

離婚の慰謝料として全ての蓄えを前妻とその一族に渡し無一文となった千畝は、日本に帰国。しかしそこで生涯の伴侶となり、リトアニアでの「命のビザ」発給を後押しする幸子夫人と出会い、結婚することとなります。

千畝はその後、フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任します。本来は、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定でしたが、ソ連側が反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、千畝の赴任を拒絶したのです。
しかし実際には、ソ連側が千畝の外交能力の高さを恐れての措置でした。

第二次大戦下、権謀術数渦巻く外交の最前線で杉原千畝という一人の外交官が、その卓抜した能力と志の高さゆえにいかに人生を翻弄され、戦後に至っても苦難を強いられ続けたか―その事実をひも解く時、千畝が後々「東洋のシンドラー」として世界から賞賛される歴史上の人物となることは"必然"であったことを知らされます。

千畝によって命を救われた6000名を超えるユダヤ人の子孫は、現在数万人にもなり世界中で暮らしています。

今、世界における最大の課題と言えば、それはまちがいなく「難民問題」です。また国内に目をやれば、豊洲市場やオリンピック施設をめぐる官僚や役人の姿勢が連日取沙汰されています。

かつての日本は、杉原千畝という官僚を輩出できるような立派な国であったはずです。