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自己実現などしなくてよい――この世で格闘する元学生へ告ぐ

2014年04月28日 19時17分 JST | 更新 2014年06月28日 18時12分 JST

就職活動も、そろそろ公式・非公式に内定が出はじめていて、大学のキャンパスでは、黒スーツに身を包み朗報を片手にスキップする者の姿がまぶしい。しかし、彼等の先輩たちの姿は対照的だ。何とか就職をして、予想通り「誰も助けてくれない世間」に放り出されて、己の自信と意欲が日に日にそがれ、こんなはずではとか、このままずっとオレはなどと、やはりぼんやりと電車に揺られる者たちの姿も、春霞にふっと立ち現れる。

早速世間の洗礼を受けてヘタっている者たちは、誰が言い出したかも不明な言葉に振り回されているようだ。それは「自己実現」というこなれない言葉である。真面目な者ほど、この言葉に追いつめられる。

ままならない仕事や人生にぶつかり、ふと立ち止まり、その原因を知りたくなるとき、苦しさも手伝ってある病気にかかるものだ。それは「今の自分は本当の自分じゃないんじゃないか」という不安に襲われる、「自己実現しなきゃダメじゃねぇ症候群」である。自己実現できない人生は負けの人生であって、学校を出て何年も経っているのだから、本来ならとっくに自己実現できていなきゃいけないのに、今なおもやりたいことが見つからずにいる、本当の自分になっていない現状に漠然とした不安を持つというものだ。

しかし、自分らしさを発揮し、ありもしない「自分に合った仕事」に恵まれ、活き活きとしている自己実現状態をいくら夢想しても、そもそも「自分らしさ」とは、他者の評価をくぐらせる以外には意味がないものだ。自分らしさとは自分からにじみ出てくるものではなく、自分では必ずしも納得できないような、他者によるイメージを核にしている。

ところが「自分とはこうだ」という自己評価があるはずだと焦る者たちは、他者評価を棚に上げて、自己実現などというジャンプした言葉に乗せられてしまう。自己の評価を「自分でした評価のこと」だと思う、そもそもの最初のボタンのかけ違いである。

でも「他者による評価」などと言われると、「それでは人の言いなりになってしまうではないか」と心配になる人もいるだろう。もちろん人間の評価は、他者からの評価「だけ」で成立しているわけではない。何よりも自己の欲望が明確でなければ意味がない。自分は何者かという問いに意味があるのは、「自分はかくありたい」という展望と願望がセットになっているからだ。

つまり人間の自己理解とは、自分の欲望プラス、他者の評価との「織合わせ」として成立する。自分はこのようでありたいとか、あのようになりたいと願う一方で、他者の目に映る自分は全く異なるものであることを知り、時にはその差異に眩暈のようなものを感じて、葛藤したり悩んだりする。そして、そのことで人間はもう一度自分の持つ願望や欲望のトーンを変えたり、ニュアンスを複雑にしたり、欲望の対象を微妙にずらしたりする。そういうことを繰り返す中で、なんとか自分の人格の輪郭が浮上するのである。

これは、自己理解と他者評価のどちらが正しいのかという話ではない。天賦の才能など持っていない、この世界を他者との関係の中で生きていく以外に道の無いほとんどの人は、甘美なる自分の願望交じりの気持ちと、他者のもたらす意外な評価とを両方取り込みつつ、失敗を繰り返し、最後にトータルで「そこそこオモロい日々だったな」と、かなり老年の域に達した時に振り返ればいいのだと思う。

だから自己実現できたかどうかなどという話は、そういう死ぬ間際の「後々」のお話なのである。そして、おそらく死ぬ間際ですら(あたかも知っているかのように書くのもおこがましいが)、自己が実現したかどうかなどわからず、たった一つの結論「オレは何でもないんだな。それでよかった」に至り、そしてヘラヘラできれば良いのではないかと思う。

それで本当に良いかどうかは元より永遠にワカラナイ。しかし、一つだけ言えるのは「本当の自分なんてどこにもないんだから、自己実現なんてしなくていいんだな」ということだ。肩の力を抜いていこう。

 

(拙著『働く大人の教養課程』、実務教育出版社、「第二章 正しい出発点の設定の仕方」から抜粋、加筆、修正)

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