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8月6日と原爆を体験していないわたし-71年目のはちろくを平和公園で過ごした21歳の大学生のおもうこと-

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71年目の8月6日、わたしはとても苦しかった。

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写真提供:西谷廉

色んな想いが溢れる平和公園。
あの日は命日だから、厳かに祈りを捧げるべきだとも思う。

イベントと化した8月6日というものを、71年という月日が象徴しているような気がする。それが在るべき姿でないということもできるのだが、どこかでイベント化しなければ風化してしまうということもあるのだろう。何より、8月6日の夜、橋の上で叔父が旧友と再開している姿を見ると、「8月6日、平和公園に行けば誰かしらの友人に会える」ということの素敵さを痛感するのだ。

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8時15分の鐘の鳴る音と同時に、わたしは想像する。島病院上空600mで黒い物体が炸裂する。と同時に光で何も見えなくなり空の下で生きている人たちさえ遮られる。(写真は前日の5日に島病院の下から見上げた空)

毎年、わたしの想像はここで止まる。
そのあとは、時間が少し飛び、被爆者の語りや絵で見てきた地獄図を頭の中に描く。
そして失われていった命、いまもなお「あの日」を忘れることができない命のことを考える。

黙祷の1分間、最後は「わたしはどうしたらいいですか、何ができますか」と問う。
答えはもちろん、返ってこない。

熱線も爆風も臭いも、わたしには分からない。

今平和公園がある場所は広島一の繁華街だった。
喫茶店、旅館、映画館、花屋などがひしめき合っていた。ある被爆者は言った。「あそこに連れて行って貰えるときは幼心なりにウキウキしたものよ」と。

ああ、そうか。
わたしは、わたしの街がどんなだったか、知ることができないのか。
あまりにも強い力で吹き飛ばされてしまったが故に。

それがとても寂しい。

あなたの街には、昔の面影というものがあるだろうか。例えば、あの角の和菓子屋さんは戦前から続いている など。今の平和公園の場所には、それがほとんどない。残っている建物は、あの原爆の恐ろしさを象徴するものだ。そこにあった街や人々がどれほど魅力的で賑やかだったか想像してみて、わたしはそこをウキウキしながら歩いてみたいと思った。

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71年目の8月6日、わたしは朝の平和祈念式典から夜の灯籠流しまで平和公園に居た。
1日居ると、色んなことを思い、感じ、気付くのだが、それは毎年変わる。

わたしはこれまで、「被爆者の生の声を聞ける最後の世代」と言われ育ち、何人の被爆者に出会ったか分からないほど話を聞いてきた。
被爆者らは口を揃えて言う。「あなたたちの世代が、語り継いでいくのよ」と。

「平和への誓い」では小学校6年生のこども代表が

「私たちには、被爆者から託された声を伝える責任があるのです。一人一人が、自分の言葉で、丁寧に、戦争を知らない人へ 次の世代へ 世界の人々へ 命の尊さを 平和への願いを 私たちが語り伝えていきます。」

と述べた。

尊さが、苦しかった。

広島の子ども達は、「被爆者から託された声を伝える責任」を当たり前に感じてきた。そう教えられてきたし、託してもらってきたからだ。

幼いなりに考える原爆はあまりに恐ろしく、もう知りたくないと拒否反応を起こし、大人になるにつれ耳を塞ぐ人も少ない。
小学2年生の平和教育がトラウマになっている私は、その気持ちが痛いほど分かる。

8月6日に起こったこと、被爆体験と被爆者らの想い・願い、ヒロシマの願いを伝えていかなければならない。私もそう思う。一方でそれはあまりにも重くのしかかる。

「忘れないでほしい。あなたたちが語り継いでいくのよ」と託される。
「体験した者にしか分からんけんね」と突き放される。

その狭間で、いつも私は叫びたくなる。

「生の声を聞ける最後の世代」と言われ育ったわたし。
たくさんの被爆者に想いを託してもらってきたわたし。
「初めて、被爆体験を話すわ。あなたに」と重い口を開いてもらったわたし。
被爆者の想いや痛みを少しでもわかりたいわたし。
託してもらったものを未来に活かし生かしたいわたし。
でも、そんなわたしは、「あの日」を知らない。

心が壊れそうになる。

今年、松井市長は「被爆者の平均年齢は80歳を超え、自らの体験を生の声で語る時間は少なくなっています。未来に向けて被爆者の思いや言葉を伝え、広めていくには、若い世代の皆さんの力も必要です。」と述べた。

悔しかった。

わかっている。
私が数年前に出会った被爆者の中にも、亡くなられた方が知っているだけで数人いらっしゃる。もう時間がないことも、私たちの世代が担っていくことも、担うためにどうするのか、問われていることも。そしてなにより、わたしは、担いたいと本気で思っている。

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写真提供:西谷廉

わたしは知っている。
担うために、被爆者や戦争体験者の想いを背負おうともがいている同世代を。
戦争を体験していないならこそ、できること、伝えられることがあると信じて向き合う彼らを。そしてわたしはそんな彼らの力を信じている。

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写真提供:西谷廉

71年という月日は確実に過ぎた。
変わりゆく世界情勢の中で、どうヒロシマを語ってゆくのか。
変化を伴いながらもヒロシマはヒロシマであり続ける。
正直、ヒロシマと向き合うことから逃げたいと思うことがある。
向き合う形はきっとこれから変わっていくだろう。でも、完全に逃げることはしない。
いろんなことを感じ、思うことができる私だからこそできることが、伝えられることがあると信じている。なぜなら、広島に生まれ育ち、託してもらってきたからだ。苦しい理由も、踏ん張れる理由も、私にとっては同じだ。
「あの日」から再出発した広島という街で、多くの命が生きている。
大切な人たちと笑い合いながら。私もそのうちの一人だ。
そして理由はなんであれ、8月6日に多くの人が平和公園に足を運ぶ。
そんなポジティブな何かを、私は信じたい。
そんな感情のループを繰り返した、71年目の8月6日だった。