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慰安婦、もう一つの考え「敵は100万、味方は自分ただひとり」

2016年10月21日 16時20分 JST | 更新 2016年11月18日 01時24分 JST

「元慰安婦の方たちとの出会い」から続く)

■NHKの同行取材について

二度目にハルモニに会いに行った時は、NHKソウル支局の記者たちと一緒だった。NHKの記者とは、韓国語版が発刊された時インタビューに応じたのがきっかけとなって知り合った。『帝国の慰安婦』に対する韓国メディアの反応が悪くなかった(盧志炫: 朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』)ことに対して興味を持ったようで、この本が韓国社会にどのように受け入れられるのかを記録しておきたいと言い、私の学生たちにもインタビューを行った。

そして、慰安婦問題をめぐる私の足取りを追いたいので、関係ある日程などあれば教えてほしいと頼まれた。

私は彼に協力した。『帝国の慰安婦』は日本に向けて書いた本でもあり、アジア女性基金解散以降、慰安婦問題にあまり興味を示さなくなっていた日本が慰安婦問題に興味を示してくれているのだから、拒む理由はなかった。

また、その記者は、偶然にも私が留学中に在学していた大学の後輩でもあった。そのため、何回か会ううちに打ち解けた話もできるようになった。慰安婦問題解決にも役立ちたい、と言っていたので私は彼を信頼した。ぺ春姫さんと電話で二度目の訪問の約束をした時、記者にその日程を教えたのはそのためである。

そして前日、ナヌムの家の所長にも明日訪問する旨のメールを送った。返事がなかったので、翌日の朝に再度電話文字を送った。やはり返事はなかったが、いざ訪ねてみると安所長は事務所にいた。事務所を通じてはじめて会えるシステムなので、ぺさんに会う約束をしたと告げたが、所長はNHK記者とともに訪ねてきた私を露骨に警戒した。そして、映像撮影はだめだと言った。

この日の訪問目的は、食堂で初めて会って少ししか話せなかったぺさんに会って時間をかけて話を聞くことにあった。なので所長の拒否は納得もいかず残念だったが、仕方がなかった。私たちは録画をあきらめ、ぺさんの部屋で話を聞いた。

私たちがぺさんの話を聞いている間、ナヌムの家の職員が何度も様子を見に来た。話の内容が気になったのだろうか。ともかくその日わかったのは、ナヌムの家の元慰安婦の方々には自分の意志とおりに外部の人に会える自由がないという事実だった。そうした状況はその後さらに繰り返し確認できた。

私を訴えた直後に、ナヌムの家の所長はこの日の訪問について、記者が 「朴さんがボランティアをやっているところを撮りたかった」と話したと、悪意のある嘘をフェイスブックに書いて私を非難した。また、関係者たちに同じ話をメールで送った。さらに、2015年12月、 起訴に抗議する記者会見を私が開いた直後にも、この話をメールでいろんな人に送っていた。しかも、その後、日本の支援者たちの集会でも同じことを話したと聞く。日本の北原みのりさんらは所長の言葉を信じ、その話を SNSで拡散させた。

これまで私はこの件に関して積極的には釈明しなかった。そうした話は一笑に付されるものと考えたし、時間もなかったからである。

しかし、日韓合意の後、これまで運動を担ってきた人たちによる攻撃はさらに強まり、いまや学者による曲解や非難までも周辺の人が確認せずに信じて拡散させるにいたっている。

私がこの文を書くことにしたのは、そうした内容のものが「証拠資料」という名前で刑事裁判に出されているためである。自分を守るためでもあるが、友人たちの名誉を守るためでもある。

それにしても、こうしたことを書かないといけない状況を心から悲しく思う。あるいは、喜劇というべきだろうか。

以下の下線の引用は、ナヌムの家の所長が関係者たちに送ったメールからの抜粋である。

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パクユハ氏、ナヌムの家の所長に電話し、挺対協反対行動に参加することを強要

2014年2月頃、なんの面識もないパクユハ教授がナヌムの家の所長に電話をかけ、所長もそろそろ挺対協に反対の声をあげる活動に参加せよと強制し、電話を切るときは親切に応答してくださってありがとうと言いました。そしてパクユハ氏が一度会おうというので、所長は毎週月曜と木曜以外は週末もナヌムの家で勤務しているので、そこで会おうと言いました。これに対してパクユハ氏は、外交部で発表をするため時間がないので、セジョン大学で会おうと言いました。しかし、所長の日程上、セジョン大学で会うことはなかった(以上、安信権、2015年12月はじめのメール)

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私の携帯に残っている履歴によると、ナヌムの家の所長に電話したのは2013年11月15日だった。 慰安婦関連の外交部の会議に呼ばれていたが(学者としての意見を述べただけで、「発表」ではなかった)、出席者名簿に所長の名前もあったので、彼がソウルに来る機会を使って会って、慰安婦問題をめぐる謝罪と補償についての考えを聞いてみたかった。そこで彼に電話したのである。そして、会議の前にでもソウルに来ることがあれば、会いたいと言った。私は世宗大学で会おうとも、挺対協に反対しようとも言っていない。もちろん 、「強制」したこともない。

最初の出会いの翌日、私はともかくも不便をかけたことへの謝罪の言葉とともに、「私も解決方法を模索しているので出来れば本を読んでほしい。その後、また会いましょう。必要であれば本を送ります」と電話メールを送った。彼はこのとき私に「忙しい中、ナヌムの家を訪ねてくれたことに感謝します。本は自分で買います」との返事をくれた。

ということは、彼が私を敵対視するようになったのは、必ずしもこの訪問ではなかったかもしれない。既に書いたこともあるが、安所長が私を訴えた背景には、ぺさんと親しく交流したこと、そしてそのぺさんを含む元慰安婦の方々数人の声を、シンポジウムを通じて世に送り出したことがある。

さらに所長は、多くの人に送ったメールで次のようにも書いていた。

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パクユハ氏、ナヌムの家の訪問申請やハルモニたちの許可もなくNHK-TVの撮影を試みる

パクユハ氏がナヌムの家に訪問し所長と初めて会った時、事前に「ナヌムの家」やハルモニたちに知らせたり許可を得ることなく、一方的に日本NHKの記者を連れてきました。そしてNHK-TVの記者は、ハルモニたちとパクユハ氏が交流している姿を撮影したいと言いました。所長が、ハルモニたちに事前に同意をしてもらわなければならないのに何事だ、と問いただすと、パクユハ氏は謝りもせずに「ナヌムの家」は誰もが撮影するところではないかと言いました。 NHK-TVの記者は、所長に、パクユハ氏がボランティア活動をしている姿を撮りたいと言ってきました。そこで所長が「日本軍慰安婦被害者」ハルモニたちのためにパクユハ氏がボランティアをしたことなどないのに一体何を撮るのか、と聞き返しました。そして撮影は不許可となりました。

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すでに書いたように、私はこのとき、ぺさんと前もって約束をしている。元慰安婦の方に会いたがっているNHK記者がいるのでよかったら一緒に行く、と事前に了解をとってもいる。撮影するとすれば対象は私ではなく、ぺさんだったし、日本に向けての撮影なのだから当然のことだ。 「朴裕河さんがボランティア活動をする姿を撮りたい」と記者が言ったというのは、所長の嘘でしかない 。

ともあれ、わたしたちはその日、一時間ほど、ぺさんの話を聞いた。

■「敵は100万、味方は自分ただひとり」

ぺさんは、早くに親を亡くし、祖母の下で育ったということだった。慶尚道出身で、小学校に5年生まで通っていたという。そして友だちと一緒に職業紹介所に行ったのが慰安婦になったきっかけと話した。

女性として小学校教育を受けたということは、学校に通えない人も多かった当時にしては相当な学力といえる。ペさんは慰安所の名前などを紙に漢字で書いて見せたりしたが、驚くほど達筆でもあった。

その後、私とぺさんの話が主に電話を通してのものになったのは、この日のナヌムの家の警戒の結果である。家族のいないぺさんは、私によく電話をかけてこられた。そしてそのように心を開いてくださったことが私はありがたかった。ぺさんはよく日本語を混ぜて話された。おそらく、私が日本語を知っているということが、日本語で教育を受けたはずのぺさんの心を開かせた一因だったのだろう。

私はぺさんの許可を得て二人の対話を録音することにした。

以下は、その録音内容の一部である。最初の録音は12月18日。ペさんからの電話で、その日わたしたちは一時間以上話した。

長くなりすぎないように、話を整理し、文脈がわかるように私の話を入れたところもある。この日ペさんは、強制連行を含む慰安婦問題に対する考え、韓国社会の対応に関する考え、ナヌムの家の元慰安婦の方々との葛藤、ナヌムの家の事務所との関係などについて語った。尊敬語は適宜省略する。

話の端々に、ぺさんがこれまで経験した孤独がにじみ出ていた。言うまでもなく、ぺさんの考えや意見だけが正しいと言いたいわけではない。重要なのは、この日もまた「敵は百万、味方は自分ただ一人」と語ったことである。ぺさんはそのように孤独を訴えたが、私は結局、その孤独な状態を変えてあげることができなかった。

(会話に出てくる個人名は伏字とした。録音状態が良くなく内容が確認できないところも一部ある。括弧部分は私がハルモニに対して語ったことや、この文を書きながら追加した私の考えである。意味が確かでないところのうち、把握・類推可能なところは補完し、語尾など形を整えた部分も多少ある。省略処理した部分は、公開する意味がないと思われるものや、他の元慰安婦の方との葛藤の部分である。)

(録音日2013年12月18日 18:19:24)

■不信

ぺさんは何度も、慰安婦問題をめぐる周辺の状況について批判していた。この日は、慰安婦が軍隊の後を追っていたと記述した教学社の教科書が問題化した日だったようである。ナヌムの家に記者たちが取材に訪れた話をし、記者たちに対するナヌムの家の対応に対して不満を述べた。

ぺさんは、教学社の教科書を否定するためにナヌムの家が出した資料について「テレビでは相変わらずそれだけを十数年...私がここに来てから十八年になるのに、いつもその写真一枚だけ出している」と考えていた。

そして「あの場面は中国ではない。フィリピンか、他の国だろう」と話しながら、「東洋の軍人が服を脱いだ姿で」映されている写真について「そんなことになったら大変だよ。憲兵たちがしょっちゅう見張ってるのだから」とも。そして、

「昔、私たちも見たけど、日本人たちが朝鮮で何の...そんな商売した人は朝鮮にも中国にもいない...。ここだけの話だけど、みんな、朝鮮人だよ...。中国では中国人が経営したし、朝鮮人たちが中国語を習って...全羅道の人?テアン(?)の人たちがやったよ。日本人は、昔キャバレー、キャバレーや飲み屋みたいなのはやったかもしれないけど、そこで、お客相手に体を売るような商売はしてないよ。日本人は。中国にもいない。」

(でもハルモニたちは日本人もたくさんいたと仰ってますよ)

(日本人業者がいなかったという発言について、私はぺさんが間違っていたか、日本人業者がそこに少なかったゆえのことかもしれないと考えていた。最近見たある資料によるとハルビンには各種業者のうち朝鮮人が占める割合が90パーセントだったという。(韓錫正『満州モダン』、2016)

「あれはめちゃくちゃなこと言ってるのよ。ならば住所とか...どこで、そういうことしたというのか(聞きたいものだよ)。そういう人たちに、自分がいた場所を聞いてみないと。そういうの、私が思うには、まあ、また言うけれど、この世では通るかしらないけど、あの世では通らないよ。」

(そういう話、他の人にされたことないのですか?)

(ぺさんの考えがどこまで正しいのか、私にはわからない。いずれにしても、ぺさんは、他の元慰安婦のかたの一部が嘘をついていると考えていた。ぺさんがナヌムの家で孤独だった根本的な理由でもあるだろう)

「たまに、私が、他のことでね、まぁこのこともそうだけど、『あらまあ、この世では通るかもしれないけどあの世では通らないわよ』〜というと、拗ねちゃって...」

(中略)

■ナヌムの家と元慰安婦

「***が『美しい財団』(注:現ソウル市長・朴元淳氏が始めた市民団体)に、日本政府からの秘密の、政府の金じゃなくて民間の金を五千万ウォンもらって、それに自分の五千万ウォンを...『美しい財団』に寄付したのね。(中略)ところが、ほかの人の話では、二千五百万ウォンを事務所にあげた。事務所も、寄付してくれるならありがたいと、受け取ったのよ。だけど、おばあさん同士で争いが起きると...(中略)。」

(ハルモニたちが事務所にお金を寄?