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働く女性が〈子どもを産む自由〉を得られる日は来るのか?――社会学者・水無田気流インタビュー

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▲水無田気流『無頼化した女たち』(亜紀書房、2014年2月刊)

◉インタビュー:宇野常寛
◉構成:中野 慧

水無田気流(本名:田中理恵子)は二つの顔を持つ。気鋭の現代詩人としてのそれと、女性問題や少子化、世代間格差などについて精力的に発言する社会学者としてのそれだ。そして僕がこれまで付き合ってきたのはおもに詩人としての彼女だ。僕らは東京工業大学と朝日カルチャーセンターのコラボレーション企画としての連続講義「Jポップと現代社会」を一緒に担当し、SMAPについて、ドリカムについて、ミスチルについて、あるいは浜崎あゆみについてひたすら語り合った。

僕にとっての彼女、つまり詩人・水無田気流は乾いた言葉を好んで用いる、少し感傷的な詩人だった。そして言葉に対して驚くほど敏感な批評者だった。そんな彼女のもうひとつの側面、つまり社会学者・田中理恵子と付き合うようになったのは、そのしばらくあとの話だ。トークイベントやテレビの討論番組で顔を合わせる彼女は、「〜しなければならない」という義務感に全身を震わせながら発言しているように見えた。僕はその怒れる彼女の姿と、そして彼女の書く詩の言葉の裏側には同じものが渦巻いているのだと思った。それは何かを決定的に失ってしまったということへの「怒り」なのだと思う。それが静かな喪失感として表現されているのが詩人・水無田気流の仕事であり、少しでも間口を広げようという粘り強い局地戦への意志になって表われているのが社会学者・田中理恵子の仕事なのだ、と思った。

彼女にはひとり男の子がいる。好奇心が旺盛で、甘えん坊な子だ。仕事の打ち合わせや対談収録に水無田さんはよく彼を連れてきていて、そしてよく退屈しては駄々をこねて彼女を困らせていた。そんなとき、僕は仮面ライダーやアンパンマンの似顔絵を手元のメモ用紙に描いて彼に見せたりしたものだった。水無田さんはそのたびに「ごめんなさい」と本当に申し訳なさそうに言った。僕は謝る必要なんてまったくないじゃないですかと毎回口にしながらいつか社会学者・田中理恵子とがっつり仕事をしたいな、と思っていた。

僕と彼女が共有しているものは確実にある。でもそれがなくしたものの数を数えることではなくて、一緒に何かを積み上げていくものにつながればいい。そんなことを考えながら、僕は話していた。(宇野常寛)

■〈上野千鶴子的なもの〉の射程

―水無田さんは、2009年に出した『無頼化する女たち』(以下『無頼化』)を上野千鶴子さんに献本して感想をもらったんですよね。

水無田 そうですね。お手紙でお褒めの言葉をいただいた一方で、上野さんの『おひとりさまの老後』について私が書いた部分に関して、「高齢者って格差も大きいし、とくに低年金・無年金高齢者は大変なのよ。あなたたちの世代にはわからないでしょうけど」というニュアンスのことを暗におっしゃっていました。上野さんたち団塊世代は、戦後の日本社会で家族が負担にならなくなった最初の世代です。それまでは、都市部に働きに出た子どもは、「実家への仕送り」義務を負っている人も珍しくなかった。それが、年金制度の確立などにより、必ずしも家族の相互扶助だけでやっていかなくても済むようになりました。もちろん、背景には高度成長により日本社会全体が豊かになったことがあげられます。

ところが、私たち世代はちょうど社会に出るときに日本社会が低成長時代に突入し、先頭を切って就職氷河期を経験しただけではなく、「家族が負債化する」という問題に最初にぶち当たっている世代です。特に子育て世帯は扶養控除が廃止されたりと、すでに実質的に重税化していて負担が大きいですよね。もちろん、世代会計の問題も大きく、社会保障費の負担は重い。そのうえ、老親の介護の声も聞こえてきている。今後は非正規雇用者や未婚で、企業福祉や家族のケアの恩恵に与れないまま、親世代の介護をせねばならなくなる人も増加するでしょう。なので、「そんなこと私たちは(恐れながら)わかってらぁ!」というお返事を出してしまいました。

―そのエピソードを聞いて思ったのが、水無田さんは『無頼化』で〈後ろ向きの男女平等〉(編註:1986年の男女雇用機会均等法の施行後も現実として女性の地位向上があまり進まなかった一方で、バブル崩壊以降の景気悪化で男性の社会・経済的な地位が相対的に低下したことにより、男女雇用機会均等法の当初の意図とは違ったかたちで男女平等に近づいていること)が中途半端に実現されてしまったという社会認識を示しましたよね。それは実は、上野さん的な言説がかつて背景にしていた前提条件が大きく変わったことを意味する。

僕の考えでは、いま上野さんの仕事を読み返すときのポイントは二つある。一つは実は文芸評論的な価値で、上野さんの当時の仕事とそれが引き起こしたムーブメントは江藤淳から村上春樹まで続く日本の文学的想像力が、実は戦後の「専業主婦モデル」という女性差別的な回路に支えられたものにすぎなかったことを告発する力があると思う。

もう一つは「女だってスケベ」というテーゼが、まず恋愛市場で男性と対等以上になることで文化的な突破口をひらくという当時の女性「進出」を背景にしていた点ですね。雇均法以降、「仕事」の場では建前としての男女平等と現実としての差別が温存され、上野さんは以降この状況を批判し続けることになるわけですが、この前提もいま〈後ろ向きの男女平等〉よって崩れ始めている。

前者は僕なりに自分の著作で引き受けているつもりなんですが、後者について〈後ろ向きの男女平等〉という言葉をつくった水無田さんに一度訊いてみたかったんです。

水無田 上野千鶴子の思想的分裂の一番根本にあるのは、「近代的主体」の取り扱い方の矛盾なんですよね。近代市民社会で想定されていた〈主体化される個人〉は、やはり「生産労働可能な身体的条件を持つ成人男性」なんです。再生産労働(編註:子どもを産み育て教育する、そのための家事をするといった賃金化されない家内労働のこと)は、たとえばマルクスが言ったように「自然の再生産力に任せておけばいい」として、全部〈その他〉にしてしまった。でもその再生産労働に従事させられる人間がまさに女性だった。

だからこそ上野千鶴子はその状況をして「女性は〈人間以外〉だ」と過激に告発した。〈人間以外〉のものである女性が、〈人間になる以前〉の子どもと、〈人間以降〉の老人の世話をし、それによって社会が保たれてきたということなのですが、その「主体化される個人」という命題を、日本のフェミニズムは、女性が村落共同体的な日本型家父長制によるくびき―いわば農家の嫁モデル―から開放されていくためのモデルとして、西洋の主体概念を取り入れてなおかつ理論化しようとしたんです。

しかしこれは現実の面で多くの足枷があった。西欧のフェミニズムは、すでに「近代的主体=男性モデル」であり、その矛盾を脱却することが命題でもあったのですが、日本ではそもそも主体をめぐる矛盾が混在したままだった。上野さんは、あえてそれを不問に付したまま、「使えるものは使え」と闘ってきた部分もあるのでしょう。

ただ、女性個々人の人生を考えるならば、「男性モデル前提の女性解放」という手法を採ろうとすると、女性コミュニティのなかでも孤立してしまうし、ましてや男性社会のなかで伍していくこともできないという大きな矛盾が残されてしまうわけです。

―上野さんの立場を整理するとそうなりますね。

水無田 それからもう一つ、〈制度〉と〈実質〉って日本社会では常に二枚舌なんですよね。たとえば雇均法が施行された1986年に第三号被保険者制度によって専業主婦の年金権が確立したり、1999年の派遣法改正と同時に雇均法も改正されて実質的に女性は非正規雇用になっていき、女性のあいだの格差、アイデンティティの撹乱が起こっていく。そういったなかで、現在20代の女性は保守化していっています。要因はいくつかあるんですが、結局のところ〈制度〉や理念が〈実質〉に追いついてない点が大きい。特に1980年代の雇均法世代以降は子どもを産んで家庭に入る女性と、それ以外の個性的な生き方を選択する女性とに分かれました。

1970年代までは女性たちはほぼ専業主婦一択だったのが、1980年代以降はライフコースが大きく分かれてきて、子どもを産むことを選択するのは保守的な価値観の女性が多数派になっていった。つまり女性は個性的な生き方を個人としては選択できても、母としては無理だったのです。「良き母」でなければ、子どもは産めないし、産んだ以上は個性を放棄しなければならなかった。したがって1980年代以降の子どもたちは保守的な「ちゃんとしたご家庭」育ちが多いと推測できます。つまり上野千鶴子は個人として戦ったんだけど、大衆の気分や感覚に関しては、次世代を再生産できなかった。

―上野さんが何に勝ったかというと「産まない自由」を獲得したこと。何に負けたかというと「産む自由」を獲得できなかったということでしょうか。

水無田 そうです、1980年代以降に女性が「産まない自由」を確保できたことは上野さんの大きな功績の一つです。ただ、上野さんが「産む自由」について触れられないのは、再生産の問題はどうしても家父長制の問題に回収されて、再び女性が再生産役割だけに押し込められる危険性が高く、時計の針が反対回りになることを危惧しているからです。

実際出産育児言説って、今なお驚くほど保守的で専業主婦中心なんですよね。どれだけ他人からバッシングされても自分の道を行くことができた女性でも、「子どものため」という錦の御旗にはとても弱い。

―よくある批判としては〈上野千鶴子的なもの〉を突き詰めると家族破壊・家族否定につながってその結果少子化が加速されるというものがありますが、それは間違いだと思う。
 問題は保守的な家庭に隷属しなくても子どもを産み育てられる環境を社会が用意できなかったことでしょう。

水無田 そうですね。文学的な問題でいうと「美学と政治の分裂」ということが殊更に言い立てられすぎたような気もします。「正しさ」と「望ましさ」の分裂と言ってもいいんですけども。どうもその「正しさ」をひけらかす人間は、人間の「望ましさ」、欲望や愛情といったものに背を向けているのではないか。一方現実的には、日本社会は結局理念では動かず、なし崩しの〈現実の実効支配〉に覆われている。特に家族問題がそうですね。

近代化により、日本では生活領域に関して全般的に合理化が行われていったのですが、合理化できない領域が家族にすべて押し込められていった。そして、家庭を管理する役割であった女性は、負荷を大きく受けてきた。しかし負荷があまりにも大きすぎるので、それならば「階層や所得が高いセレブ妻になりたい」というかたちで、女性は実利を取る方に行ってしまったわけです。

■保守化する結婚への欲望とどう向き合うか

―要するに、今は男も女もかつての戦後男性社会の基準でいえば〈人間未満〉なのだから、「〈人間未満〉のままで幸せになるには専業主婦が一番楽じゃん」という方向に行っているんですね。僕はもちろんこういう人間観自体が嫌ですけど。

水無田 1970年代には30歳を過ぎた人間の婚姻率は9割を超えていて、生涯未婚率が一番低いときで男性が2%を切っていた。98%の男性、97%の女性が結婚していたという異常事態なのですが、先ほど述べたように当時は女性のライフコースが専業主婦一択だった時代だからこそでしょう。今は共働きが多数派ですから、夫婦は山ほどコミュニケーションをとってライフスタイルやライフコースの擦り合わせをしなければならないのですが、当時はその必要がなかったし、そもそも女性は結婚しないと生存できなかった。つまり社会のサステイナビリティと個人のサバイバビリティが完璧に一致していたのです。でもそこには女性の閉塞感や、産み育てる以外の選択がないという前提があった。今それに戻ろうとしても無理ですよね。

産業構成比を考えても、男性向きの農林漁業や製造業が縮退して、医療・福祉・サービスといった女性が働ける職が増えてきている。よく「女性の社会進出が男性の若年労働を奪っている」と言われますが、それは嘘です。現実問題として働いている女性は既婚者が多数派で、しかも女性の被雇用者全体でもパート就労が過半数です。たとえ年間を通じて給与所得があっても、7割の女性は年収300万円以下と賃金水準も低い。要するにサービス業やケアワークなどを中心とした「パートのおばちゃん市場」が圧倒的に大きい。若年男性は、そもそもそれらの雇用市場に積極的に参入したくはないでしょう。だからそういった女性バッシングも間違っているし、ある意味お互いにとって不幸なことです。ともかく、〈後ろ向きの男女平等〉が達成された結果、相対的剥奪感(編註:本来だったら得られたはずのものが得られないことから来る「剥奪された」感覚のこと)というかたちで男性のフラストレーションも上がってしまっている。一方女性の方では「男らしい男の人がいない」「養ってくれる気概のある男性がいない」といった愚痴につながってしまう。

―うーん......。そういう人はそういう趣味の人ということでいいんじゃないですか。僕は個人的には嫌だけど。それも生き方でしょう。

水無田 まぁ、高度成長期的価値観の奴隷ですよね。宇野さんとの対談で以前も指摘しましたが、都内では結婚相手に600万円以上の年収を求める20代〜30代未婚女性がだいたい40%近くいる一方、条件に合致する同世代の未婚男性は3.5%しかいない。そういった志向は自らのサバイバビリティを下げると一生懸命啓発しているんですが、最近無理だと悟りました。女子の結婚への夢と希望と野望を変えるのは、反政府勢力を武装解除させるよりも困難です(笑)。

結局そういうセレブ妻志向女子の方を、非モテ化するしかない。男性に選ばれないリスクが高まるというトレンドができてはじめて、女子は人生戦略を改めるので。男性に向けて「人生戦略として考えた場合、専業主婦でマイホーム志向の女子をお嫁に貰うことはリスクである」ということを客観的に突きつけたほうがいいのかな、と思います。

―その作業は必要だと思いますが、それが自分とはちょっと違う選択をしている人たちへの攻撃にならないような注意は必要だと思います。この種の言説って、「私たちって大変なのよ」という同族語り、自意識語りに終始しがちじゃないですか。

水無田 それはありますね。そこに終始すると、話が進みません。話は逸れますが、以前私は「読売ウィークリー」に「無宿渡世母がゆく」という、非常勤講師夫婦世帯でしかも私は実母を亡くしているなど、育児支援が非常に乏しいなかでやっている自分の状況を笑い飛ばすような連載を書いていたんですが、ジャーナリストや編集者といった正社員エリート女性たちの、この大変さへの想像力の欠落にいつも打ちのめされている部分があります。面白がって「書籍化しましょう」と言ってくれる方は結構いるのですが、たいてい少し上の女性編集者に「私は子ども二人産んでるわよ」「一人ぐらいで何よ」と批判されたり......。家族や子育ては、個人的経験があまりにも自明であると思われがちなので、その結果条件や環境の異なる人たちへの理解が進まない恐れもありますね。

ともかく、大事なのは個人のサバイバビリティと社会のサステイナビリティの新たな両立形態を築くことなんですが、当事者たちが傷を舐め合っていると思考停止してしまうのが非常に問題だと思います。

―とりあえず「敵」を探して叩くんじゃなくて自分たちにきついゲームを強いる社会のルールを変えないと意味がない。そうやって「産む自由」を獲得していくのが、上野千鶴子的なものをポジティブに継承する道なのかなという気がします。

水無田 専業主婦指向の女性は結婚すると1年ぐらいで子どもを産むんですね。つまりご夫婦としてのコミュニケーションが確立する以前に子どもを産んでしまい、マイホームだマイカーだといったかたちで「子ども中心」の家庭になってしまいます。ですが近年は結婚するまでに付き合う期間が全般的に長くなってきているんですね。ご承知の通り初婚年齢は上がっていますが、女性は23〜24歳、男性は25〜26歳で出会った人と4年以上付き合って結婚しています。このため、子どもを産む時期やそもそも産むかどうかについてなど、ライフスタイルの擦り合わせや夫婦単位の生き残り戦略構想を、コミュニケーション力を蓄積して上手くやっていくことができる。そういったご夫婦のほうが、生活満足度は高くなるはずだと踏んでいます。

■次世代フェミニズムがなすべき〈ポジ出し〉

―震災後、猫も杓子も「絆」が大事とか言いますよね。でも本当に大事なのは具体的な絆のビジョンでしょう。肝心な「絆」のかたちが自信のないお父さんのヒーリング的に家父長制や大家族主義に回帰するんじゃ、せっかく獲得してきた「産まない自由」すら奪われるだけだと思う。だから僕たちは違うかたちの「絆」を提示しないといけない。

具体的にはやはり非正規、シングルマザー、シングルファーザーでも子どもが育てられるというかたちに制度設計をし直すこと。あるいはこれまでなかった社会的な回路で子どもを産み育てられるというモデルケースの提出なんじゃないでしょうか。そしてそのための支援装置、たとえばNPOや友だちどうしのコミュニティといった「手段」の提示と開示が重要だと思います。同じ非典型所属者の場合でも、女性は産める年齢にどうしても限りがあるのだから社会がより厚くフォローするしかない。

そのための支援装置が何なのかを具体的に明らかにしていく作業や、実際に社会に建設可能なモデルを具体的に〈ポジ出し〉(荻上チキ)していくフェーズに、今は入ってきている。

水無田 私も地域で子育て支援NPOをやっていますが、参加者には住んでいる地域に元からの地縁関係・血縁関係がない女性が多いんです。近年は外国人も増えていますし。厚労省や内閣府の統計でみても、子育てで頼りにする相手って7割が実母で、若年層ほど子ども二人以上産む動機に大きなプラス要因になるのは、「実家が近い」なんですよ。一人で育てるのはすごく難しいし、地域の人間関係も希薄化しているので、要は家族というか実質的には実母という育児資源がないかぎり、子どもが産めない。

―「ダメな親に当たっても不幸にならない社会を作ろう」というのが近代以降の基本的な精神なはずだから、「大家族主義や家父長制に回帰せずにどう『産み育てる自由』を獲得するか」を考えなければいけないでしょう。

水無田 もっと言うと、日本は幸か不幸か近代的な市民社会が前提としていた「カップル文化」が成立していないんですよね。パブリックな場で社交ダンスを踊る西欧社会と、集団で盆踊りを踊り、その祭祀に先祖/土地崇拝がくっついている日本では、全然違う。日本は戦前まで農業国としての要素が濃厚ですから、どこかで農民的な生活者の感覚が残っていて、観念だけで動かそうとしてもどうしても負けてしまう。だから過去・伝統・規範といったものに対置するとしたら、ベタにここは〈未来〉と〈創造〉、それに〈希望〉、つまり「子どもたち世代の言葉」ではないかと思っています。

今、子ども対象の詩のワークショップをやっているんですが、とにかく子どもが見ている世界や言葉の発想はすごい。また、ボランティアで来てもらっている大学生さんたちのなかにも、「子どもを持つ」ということに対する実感のようなものが生まれている感触があります。子どもって本当に実際に触れてみると、肌合いや発話など、写真で見ているだけじゃわからないことがたくさんあるんですよね。

たとえば、都市部の公共交通機関で「ベビーカーが邪魔だ」と論争になったり、コミュニティセンターや図書館にも高齢者が一日中いて「邪魔だから」と子どもを追い出そうなんて話もあります。まあ、これは抽象化された子どもという対象に対する、感情的な反発ですね。「社会で子育て」という理念と、邪魔という感情の矛盾が今噴出しています。これに対しては、理屈じゃダメな国なので、子どもたちの存在感をもっと増やすため尽力し、実物を見せて触れ合わせていくのが効くのではないかと思っています。

―「効率よく勝つ」ことだけを考えたら、日本ってこれだけ高齢社会なんだから「古い世界」に媚びるのが最適解なんですよ。だから雑誌も放送も文化は放っておくとどんどんおじさん向けになっていく。でもそれじゃあ未来がない。だから僕らは古い世界の人間に、〈子どもの想像力〉のような新しい世界だからこそ切り拓けるワクワク感を見せていくことが必要ですよね。

たとえば大家族主義に回帰しないかたちで、みんなで子どもを育てていくコミュニティができて楽しそうに子育てしている――そこに古い世代の人たちが未来を感じて、お金を回してくれるというビジョンも考えるべきだと思う。

水無田 「子どもを連れて、もっといろんな場に出ていく」ということが何よりの革命になると、私は思っているんです。子育て支援団体が集まる子育て応援とうきょう会議では、高齢者が「昔の遊びを子どもたちに伝承しよう」と一緒に竹とんぼをやったりベイゴマの回し方を教えたりして、子どもたちと触れ合っていますが、お互いにずいぶん意識が変わるんですよね。

しかしこれだと、学術としてやるのは難しい。子育て支援NPO団体に参加しているお母さんたちの聞き取り調査をして、ナラティブに起こして現状から分析しても、「先行研究がない」という理由だけで論文が落とされたりしてしまいます。

―そこでアカデミズムにはこれ以上期待しても仕方がない。それよりも、いま水無田さんがおっしゃったことは実際に社会から緊急に必要とされていると思うんですよ。僕も最近、戦後的な大企業文化や既得権益から排除されているような人たち、新しいホワイトカラーの組合のようなものが機能しないかということを考えているんです。そのときに中核になるのは実は「子育てニーズ」なんじゃないか。

水無田 私も非典型労働者ならぬ〈非典型所属者〉という言い方をしているんですが、家族や企業に所属していない人たちのあり方を考えなきゃいけないですね。日本ではまだまだ旧来の家族観が強固なので、ましてや「シェアハウスやコミューンで子どもを産み育てる」というと、多くの人にはまだまだ絵に描いた餅のようになってしまうんですが、海外ではコ・ハウジングやコレクティブ・ハウジングと言って、共有の子どもが遊べるスペースや台所のある住宅設計があります。デンマークがよく例に上がりますし、アメリカだとカリフォルニアですね。

あるいは環境に配慮している北欧のコレクティヴ・ハウジングでは、バイオマスや太陽光発電装置を住宅の中心に設置して、電力をある程度自分たちでまかなうといったことが、可能になっています。個人では無理でも、同じ価値観を共有する人たちが集合すれば、比較的容易になる。暮らし方に関しては、料理や子育ての当番が回ってくるところもあれば、単純に集まりたいときだけ集まるという形態までさまざまです。アメリカでは、シングルマザーと独居高齢者で組み合わさっているコ・ハウジングがありますね。昼間にシングルマザーが働きに出ていたら高齢者が子どもを見てくれて、その代わり一緒に住んでいるので高齢者も安心、といった「ニーズとニーズの組合せ」です。

日本ではまだ難しいですが、「プライベートな空間を確保しつつ共有の場所も利用する」という住居ないしコミュニティのデザインは、一つの可能性としてあると思います。

■「産める自由」への「第2のゲーム」

―たぶん子どもにかぎらず、あらゆるライフスタイルがもう変わっているはず。たとえば僕なんて東急沿線や小田急沿線のいわゆる東京の「いい街」には興味がない。趣味的な問題も大きいけれど、ああいった「いい街」って、都心に通う大企業サラリーマンの専業主婦の奥さんのための街なんですね。お店の配置から何からぜんぶそう。うちのようなフリーランスの夫婦二人だったら山手線の内側に住んでいたほうがいいということになってしまう。

水無田 ライフステージに合わせて引っ越して行ってもいいはずですよね。

―もちろん僕はそのつもりなので不動産を買う気はないんですよ。ライフステージが変わっていくたびに必要な家は違ってくる。「いい街」はどうしても持ち家を前提としているんですね。

水無田 今後のデフレや少子化の影響で、郊外住宅地の不動産価格も目減りするでしょうし、そもそも今の日本では20年で建物の評価額はゼロになります。ですが先ほども申しました通り、まずそういうことを奥様と話し合うことができるのがこの世代の素晴らしいところです。私たちより上のバブル世代になると、マイホーム取得の決定権は女性にあって、子育て環境、教育環境が充実していて、何より「郊外の素敵な奥様の私」を表現できる家を買います。男性からすると通勤時間が長く職住分離が進み、退職後行く場所もなくなる可能性も高いですけどね。

―メーカーや金融を中心とした戦後的大企業文化から切れた、IT系や外資系などの新しいホワイトカラーのライフスタイルはかなり見えてきていて、衣食住のレベルで変わってしまっている。だから僕は「子育てニーズが新しい共同体の中核になる」と思ってはいるけど、新しいライフスタイルが共通しているから子どものいない人たちとも連帯できると思っているんですよ。

水無田 共働き世帯が1997年以降専業主婦がいる世帯を上回っていまどんどん多くなっているので、近いうちに子育て資源としての家族が枯渇したあと、つまり「専業主婦で孫の面倒を全面的に引き受けられる余裕あるおばあちゃん」が少数派になった後が勝負です。
 だから、いまからそれを見越して、地域やコミュニティ、まちづくりといったことにコミットしていく必要があります。子どもに関しては「自分はまだ子ども産んでないから」「まだ結婚してないから」という人がすごく多いんですけど、そうではなく、子どもを持ってない人も含めて共闘していけたら、と思っています。

―日本は団塊ジュニアの女性が出産適齢期になる前にやるべきだった少子化対策を怠って、もう手遅れになっている。つまり「産める自由」を獲得するための最初のゲームには負けてしまっている。でも水無田さんがおっしゃったように、戦後社会の資源が枯渇する前に新しいつながりのあり方、「共に生きる」モデルを作ることによって「産める自由」「育てられる自由」を獲得していくという第2のゲームはもう始まっているはずなんです。これには負けるわけにはいかないですよね、絶対に。

水無田 そうですね。いま団塊世代が退職して問題になっていますけど、それよりも恐ろしいのは後期高齢者になることです。認知症などの比率も上がり、子育ての手伝いや子守りどころではなくなってくる。さらに団塊世代よりも下の世代では専業主婦比率が下がって、やがては子育て祖父母世代も全般的に共働きじゃないと厳しいという状況になるでしょう。そういった波があと12、3年くらいで来るので、ここ10年が勝負だと思っているんです。

私の場合、おかげさまでいろいろと書く場や発言の場が増えてきているので、なんでも提言していきたいと思っています。私自身思いっきり非正規雇用で、しかも専業主婦の良き母像からほど遠いですが、それでも「楽しそうに子育てしているところを見せる」のも仕事だと思って、これからもやっていきたいと思っています。

(了)

(プロフィール)

水無田気流〈みなした・きりう〉

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1970年生。神奈川県出身。詩人、社会学

者。早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程満期退学。現在、東京工業大学世界文明センター・フェロー。詩人として、『音速平和』で第11回中原中也賞、『Z境』で第49回晩翠賞を受賞。おもな評論に『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』(光文社新書)、『無頼化する女たち』(洋泉社新書y)、『平成幸福論ノート:変容する社会と「安定志向の罠」』(本名の田中理恵子名義、光文社新書)がある。

2009年の著書『無頼化する女たち』に、西森路代との対談「女子の国の歩き方」と書き下ろしを120ページにわたって新規収録した『無頼化した女たち』(亜紀書房)が2014年2月に刊行。

(2014年3月28日「PLANETSチャンネル」ブロマガより転載)