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テレビが面白くなくなった理由/コンテンツの質と量について

2014年04月18日 21時59分 JST | 更新 2014年04月18日 22時00分 JST

 「俺の部屋にはテレビがないんだ」

 20代後半の友人は言った。いつも通り、私たちは河原町三条で夕食を取っていた。

 「だって、テレビって面白くないでしょ? 社会人になって以来、もう何年もテレビの無い生活をしているよ」

 若者のテレビ離れが叫ばれて久しい。もはや彼のような人は珍しくないだろう。テレビが面白くないとは、つまりテレビが消費者の求めるコンテンツを提供できなくなったことを意味している。

 では、なぜそうなってしまったのだろう。消費者がテレビの提供するコンテンツに満足できなくなったのはどうしてだろう。

 今回は、コンテンツの「質」と「量」という観点から考察してみよう。

1.質と量のトレードオフ

 映像に限らず、あらゆるコンテンツは質と量がトレード・オフになりがちだ。

 品質の高いコンテンツを提供しようとすれば数を揃えるのが難しくなるし、大量に作ろうとすればどうしても品質が落ちる。音楽、イラスト、文章……。クリエイティブなコンテンツすべてに、この法則が当てはまる。

 1つのコンテンツを作成するには、それなりのリソースが必要だ。製作に要する人数・時間・カネのすべてを含めて、ここでは「リソース」と呼んでいる。もしも無限にリソースを準備できるなら、高品質なコンテンツを大量供給することが可能だろう。しかし実際には1つのプロジェクトが準備できるリソースには限りがあるため、品質と生産量がトレード・オフになってしまう。

 これをグラフで表現すると以下のようになる。

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 コンテンツの品質を高くしようとすれば、生産量を増やすことができない。逆に、コンテンツの量を増やそうとすれば、どうしても品質を犠牲にせざるをえない。そして、いきすぎた大量生産はコンテンツの粗造・濫造を招く。

 現実世界のあらゆるコンテンツが、この緑色のグラフ上にプロットできると仮定できる。

 たとえばマンガの例で考えてみよう。週刊雑誌は短期間に大量のコンテンツを提供するため、紙質・印刷などの品質を犠牲にしている。緑色のグラフの左上にプロットできるはずだ。一方、単行本は生産量では週刊誌に及ばない代わりに、表紙・製本などの品質向上にリソースを割いている。したがってグラフの右下にプロットできる。

 このグラフは、消費者の分布とも一致している。

 現実世界のあらゆる消費者が、この緑色のグラフ上のどこかにプロットできる。なぜなら無限のリソースを準備できる生産者はいないため、このグラフから外れた位置にプロットされるコンテンツは存在しないからだ。消費者は、存在しないコンテンツは消費できない。低品質でもいいから大量のコンテンツを求める消費者はグラフの左上にプロットできるし、少量でもいいから高品質のコンテンツを求める消費者はグラフの右下にプロットできる。

 以上の議論を踏まえて、テレビを含む「映像コンテンツ」の業界に何が起きたのかを考えてみよう。

2.映像コンテンツ業界の生態系の遷移

 時計の針をインターネットの登場前夜に戻してみよう。

 当時、消費者が目にする映像コンテンツは大きく2種類、すなわち「映画」と「テレビ」しか存在しなかった。映画は1本あたりに大量のリソースが割かれる。したがって先述のグラフでは右下にプロットできるコンテンツだ。一方、テレビは毎日膨大な量の映像を供給しなければならない。そのため、どうしても映像1本あたりに割けるリソースは映画に劣る。グラフの左上にプロットできるコンテンツだ。

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 先述のとおり、緑色のグラフはこの世界に存在するすべてのコンテンツを意味すると同時に、その消費者も意味している。高品質・少量のコンテンツを選好する消費者は映画を見て、低品質・大量のコンテンツを選好する消費者はテレビを見ていた。つまり、映画とテレビの棲み分けが行われていた。

 ここで一点、注釈が必要だろう。

 映画しか見ない消費者は非常にまれだし、テレビしか見ない消費者も珍しいと考えられる。同じ1人の個人でも、テレビを見たい気分の時もあれば、映画を見たい気分の時もあるはずだ。

 しかし、テレビと映画を同時に見たいと考える消費者はあまりいない。たとえば映画館にポータブルTVを持ち込めば、2種類のコンテンツを同時に消費することができる。が、これは極めてまれなケースだと考えていいはずだ。

 つまり、このグラフで表現される「消費者」とは、時間的な変化を想定していない。任意の時点において何を消費するか──たとえばある日の昼休みに、「いいとも」を見るか、それとも映画館にいくか──という消費性向を表現しているのが、このグラフだ。

 かつて映画とテレビは棲み分けに成功し、安定した生態系を構築していた。

 ところがインターネットが登場したことで、この生態系が崩れてしまう。90年代のFlash動画を皮切りに、ネット上の映像コンテンツは増大の一途をたどった。

 YouTubeやニコニコ動画を見れば分かる通り、供給される映像コンテンツのほとんどはきわめて低品質だ。それら動画サービスの投稿者が、テレビ局や映画制作会社ほどのリソースを準備できないからだ。なかには例外もあるが、ネット上の映像コンテンツは総じて品質が低いと言っていい。しかし、代わりにコンテンツの量は膨大だ。2012年1月には、YouTubeには毎分60時間ぶんの映像がアップロードされていたらしい。テレビよりもさらに大量・低品質のコンテンツが供給されるようになったのだ。

 その結果、映像コンテンツの生態系は大規模な遷移を経験した。

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 それまで「テレビを見るか映画を見るか」だった映像コンテンツの消費行動に、「YouTubeやニコニコ動画等を見る」という新しい選択肢が加わった。テレビの消費者の一部は、インターネットを見るようになった。

 ここで1つ反論があるかもしれない。YouTube等には映画の違法アップロードも珍しくない。したがって、ネット上の映像コンテンツを「低品質」と見なすことはできない──という反論だ。

 しかし、テレビの凋落は最近始まったことではなく、90年代末~ゼロ年代初頭にはすでに兆候が現れていた。少なくとも10年単位で考えるべきメガトレンドだ。一方、映画1本分の映像をかんたんにアップロード&ダウンロードできるようになったのは最近数年のできごとだ。YouTubeがサービスを開始した2006年、私たちは解像度の低い劣悪な映像をよろこんで消費していた。

 したがってネット上の映像コンテンツを、テレビよりもさらに大量・低品質のものと見なして問題ないだろう。

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 先述のとおり、緑色のグラフは消費者の分布と一致する。したがって上図の赤線で示した部位が「テレビのシェア」になる。

 なお、このグラフが表現しているのは消費者の選好・性質であって、人数ではない。一般的なマーケティング用語としての「シェア」を把握するためには、人数を示すZ軸を導入して、三次元のグラフにする必要がある。

 いずれにせよ、テレビのシェアはインターネットによって奪われた。たとえ低品質でも大量のコンテンツを消費したい消費者を、丸ごと奪われることになった。

 なぜ、テレビは面白くなくなったのか。

 それはテレビの提供するコンテンツの品質が劣化したのではなく、コンテンツの「刺さる」ユーザーが減ったのだ。かつての消費者は、多少好みに合わない番組でも見ていた。他に選択肢がなかったからだ。しかし現在では、好みの合わない番組を見せられるくらいなら、もっと自分にとって「面白い」と感じられる映像をネットで探すことができる。

 「面白い/つまらない」は主観的な指標だ。客観的な議論をするなら「テレビが面白くなくなった」ではなく「消費者の好みとテレビのコンテンツが一致しなくなった」と言うべきだ。そして、なぜ一致しなくなったかと言えば、消費者がもっと好みに一致する動画をネットで探せるようになったからだ。

 つまり「テレビが面白くなくなった」というよりも、「消費者がテレビは面白くないことに気づいた」と言ったほうが適切かもしれない。

 では、どうすればテレビの凋落を止められるだろう。

 消費者に「テレビは面白い」と感じさせるにはどうすればいいだろう。

 テキスト・コンテンツの業界に目を向ければ、ヒントを見つけられる。

3.テキスト・コンテンツの生態系遷移

 新聞や雑誌など、文章を主な売り物にしているコンテンツをまとめて、ここでは「テキスト・コンテンツ」と呼びたい。当然、文章だけでは商品として完成しない。ここでは紙面の写真や図表、レイアウトまで含めて1つのコンテンツと見なそう。なおテレビとの比較のため、新聞・雑誌などの即時性の高いコンテンツだけを取り上げ、小説は除外する。

 (※「小説家になろう」の影響を見れば分かるとおり小説業界もネットの影響から無関係ではない。が、これについては日を改めて論じたい)

 インターネットの登場前夜、新聞と雑誌は下図のように棲み分けに成功していた。

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 新聞は毎朝膨大な文章コンテンツを提供する代わりに、紙質や印刷、製本の質を犠牲にしている。写真や図表も雑誌ほど贅沢なものは使えず、また文章も定型的になりがちだ。(ニュースを間違いなく伝えるという性質上、定型的なほうが望ましいといえる)一方、雑誌ではよりライターの個性・技能を活かした文章が商品化される。ちょうどテレビと映画のように、生産量と品質の面でうまく棲み分けができていた。

 ところがインターネットの登場により、テキスト・コンテンツの業界は映像以上に激しい生態系の遷移を経験する。

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 細かい説明に移る前に、「雑誌」がどういうコンテンツを掲載していたかを確認しておきたい。雑誌の記事は、大きく2つのタイプに分けられる。

 1つはニュースを掘り下げるもの。ゴシップ記事もここに含まれる。またコラムもこちらに含めていいだろう。題材に時事ネタが選ばれる場合が多いからだ。

 もう1つは商品やサービスを紹介するもの。記事広告だけでなく、いつ・どこで・どんなイベントが行われた──等の情報はすべてこちらに含まれる。

 前者のコンテンツはネット上のニュースサイトにシェアを奪われ、後者のコンテンツは企業等の公式HPにシェアを奪われた。雑誌の凋落はテレビ以上だとしばしば耳にする。それはテキスト・コンテンツの生態系遷移が映像のそれよりも激しかったからだろう。

 たとえば2011年7月には、『ぴあ』の休刊が話題になった。かつて『ぴあ』は、どんな小さな公演情報も依頼さえあれば載せていたという。ネット前夜の時代、小さな劇団の公演情報は『ぴあ』のような雑誌がいちばんの情報源になっていた。しかし現在の消費者は、気になる劇団があれば公式HPで公演情報を確認する。

(※なお2011年10月には後続の雑誌『ウレぴあ』が創刊された)

 演劇に限らない。娯楽、食品、衣料品──。以前は雑誌が重要な情報源となっていたあらゆる商材が、現在では公式HPで情報を提供している。そういうホームページは定期刊行の必要がなく、むしろ長期間の運用が前提になるため、雑誌よりも多量のリソースを割いて製作される。必然的に、雑誌の記事よりも質的に充実したページになりやすい。この分野はインバウンド・マーケティングと呼ばれ、今後さらに発展していくだろう。雑誌の役割の半分は、商品やサービスの公式HPによって奪われた。

 では残りの半分、つまり「新聞にはできないニュースの掘り下げ」はどうなったか。こちらはインターネット上のニュースサイトにシェアを奪われることになった。記者と媒体があれば、ニュースの掘り下げはできる。紙媒体の雑誌である必要がない。

 雑誌の役割の半分は公式HPに、もう半分はニュースサイトに奪われた。

 結果、紙媒体の雑誌のシェアは極端に低くなってしまった。現在では「有力誌」と呼ばれる雑誌でも10万部に届かない場合が珍しくない。ネット上のアクセス数に置き換えれば、月間10万PVは個人ブログでも比較的かんたんに達成できる数字だ。

 雑誌の凋落の原因は分かった。それでは新聞はどうだろう。

 新興のニュースサイトは、情報ソースとして既存の新聞社を利用している場合が多い。既存の新聞社が持っている取材力は一朝一夕で追いつけるものではなかったようだ。インターネットの売りは速報性であり、新聞は他のどんな媒体よりもシェアを奪われそうに思われた。が、結果としてニュースサイトとの共生により生き残った。

 ちなみに映像コンテンツにおけるYouTubeのように、テキスト・コンテンツにも「極端に大量供給、ただし低品質」なものがある。それがブログやSNSだ。ただしSNSの場合は、消費者はコンテンツではなく