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前田将多 Headshot

不寛容という見えない敵に

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しんどい一ヶ月であった。

先月書いたコラム『広告業界という無法地帯へ』への反響として、メディア各社から取材が押し寄せた。新聞社二社、テレビ局四社、雑誌社二社、インターネット系二社など。ラジオ番組でも僕の知らないところで紹介されていたようだ。

一部、取材をお断りしたり、収録したけど放送されなかったものもあるのだが、なるべく受けようと努めた。

僕にとってはほとんど得にもならない。それどころか、この忙しい時期に時間をかなり消費することになる。謝礼をくれたのはわずかに一社だけだ。金額は知らない。勝手に口座に振り込んでおいてくれればいい。

しかし出会った人たちは皆、礼儀のある気持ちのよい人たちであったことは言い添えておきたい。

時間を割いた理由は、電通の社長なり上層部が出てきて堂々と話さない上、現役の社員たちには箝口令を敷いて、「フェイスブックに、楽しげにバーベキューしてる姿とかポストするな」とまで指示をするからである。これでは、「鬼十則が悪い」だの「富士登山研修のような体育会系体質」だの、あることないこと報道に言われっぱなしで、この業界の過重労働問題の本質を見誤るからだ。

特にテレビというのは、まだまだ影響力が強いのにもかかわらず、短い時間で一点突破する特集を組みがちなので、誘導的なものになりやすい。

僕は、あるテレビ番組のディレクターに、「いかに電通の業務がしんどかったか」ばかりを訊かれ、訝しんだ。

そこで、彼の目を見て問うてみた。

「僕は、電通の仕事の大変さだけを強調したくてあのコラムを書いたわけではありません。しかし、おたくは、広告主のことをテレビで言えるんですか?」

彼は驚くほど率直に答えた。

「言えません」

テレビというもののビジネスの構造上そうなのである。だって、雑誌や新聞と違い、本業の収益の一〇〇パーセントを広告に依存しているのだから。

「それを作ったのが電通だろう」という批判がすぐに飛んでくるだろう。

そうだ。だからみんな、どんな優れたドラマでも、スポーツ中継でも無料で観られるのだ。吉田秀雄はつくづく偉大であった。

あ、でも、NHKには視聴料を払いましょう。

他によく訊かれたのは、「どうしてあなたは電通を辞めたのですか?」。

理由はいくつかあるが、僕は会社が嫌で嫌で辞めたわけではない。不満のひとつやふたつはあったけど、恨みは何もない。

ただ、「やりたいことがあって、会社員をしながらできる術がなかった」としか言いようがない。

僕は会社を辞めてから二週間後にカナダに飛び、ひと夏の間カウボーイとして牧場で働いていた。会社には一時休職制度があったから、可能ならそうしたい気持ちはないでもなかったが、そこには「社が認めた理由により云々」という一文があった。つまりそれはMBAを取得するために留学するとか、何か今後社業に貢献できる理由が求められたのだ。

「カウボーイ? それが今後の仕事にどう活きるのですか?」

と総務のおっさんとか役員に問われたなら、いくら屁理屈をこねて難局を切り抜けてきたコピーライターとしても、

「えーと、あのー、そのー、なんて言うか......」

まったく何も思い浮かばない自信があった。

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しかし、三五才くらいで気付いていたのだ(本日、私は四一才になった)。

「オレもいつか死ぬ。もう人生の半分以上が終わってしまった」という否定し難い事実に。

会社で能力を十全に発揮してきたかと言われれば、まったくそんなことはないのだが、電通での生活も十数年もやれば、一旦いいだろうと思えた。一度ありついた食い扶持に一生頼らなくてもいいではないか。

今はあれやこれや思うままにやりながら、およそ思い通りには事は運ばず、たまに途方に暮れたりしている。仕方ない。ダメなら僕の責任でしかない。

現代のビジネス社会というのは「失敗が許されない」仕組みになっている。成功するよりも、「失敗しない」ことが重要視されていて、組織で仕事をしていればそれなりの結果がそれなりに得られるようになっているように思う。二重三重に失敗しない防御線が張られていて、冒険は難しい。

その中でも本当に能力のある人は飛び抜けた成功例を作っていくのだけど、僕のような凡庸な人間は、失敗しない程度の仕事しか成し得なかった。

もちろんそれが組織に守られているということだ。

僕は会社員時代に、「言った言わないのよくあるトラブル」に巻き込まれて、新入社員一人の年収分くらいの損失を会社に負わせてしまったことがある。僕はハラを切る覚悟をして、上司を呼び止めた。

「すみません。こういうわけで、これだけの損失を出してしまいました」

と報告する僕に、彼は即座に反応した。

「わざとか?」

僕は、普段温和な上司からの叱責の言葉と受け止め、一瞬当惑した。

「はい?」
「わざとか?」

彼は繰り返した。

「いいえ。わざとではありません」
「うん、ほな、ええわ」

彼はこれだけ言い残すと、どこか次の用事へと去っていった。

守られていたのだ。前回書いた花岡先輩(仮名)や、この上司のような人たちに。

少なくとも、僕が知っているかつての電通は、寛容な会社であった。

今、日本のあちこちで問題になっていて、電通の今回の件にも根っこで繋がっている問題に「不寛容さ」がある。


■カネを払うことへの不寛容

誰も彼もが、個人でも企業でも、「可能な限り極限まで、出すカネを少なくしたい」と思っている。しかし、それは自分が支払われるカネも極限まで少ないということも意味するだろう。

相手に正当な金額を払うことが、できるだけ払わないことよりも重要なことなのではないだろうか。そうすれば、払われた彼は欲しかったものを買うだろう。必要なもののひとつグレードの高いものを買うかもしれない。

そういう人が増えていけばやがて、自社の製品も高いものを誰かが買ってくれるかもしれない。それが、経済が「回る」ということなのではないのか。

その正当な額をどのように評価・決定するのか。それは自分に基準があるか、ということでもある。たとえば、デザインや文章などの無形なもの。こういったものは安く考えれば「ただの絵やないか」「文字やないか」と無価値にも思えるかもしれない。

日本人は無形なものへの敬意が足りないまま、工業製品(実体物)に重きを置いて、経済活動を推し進めてきたから。そして、原材料費を積み上げてモノの値段を決めてきたから。

僕は個人的には、物を買う時でも、物にカネを払うのではなく、人に払うような気でいる。「これを作った人」「売るための労力を割いた人」に対する対価として払う。

服なら服で「これ、誰がデザインしたんだろう。この機能、誰が考えたんだろう。このステッチ、手間かかってるなぁ」。こう考えると、自分なりの正当な価格を差し出すことへの心理的負担が軽減しやしないだろうか......。


■不便なことへの不寛容

どこもかしこも二十四時間営業でなくてもいいのではないか。世界の国々の夜はもっと暗いぞ。正月は静かでいいのではないか。すぐに届けられなくてもいいではないか。それ、今すぐ必要なのか。時間通り配達されなくても、そりゃ渋滞もあれば荷物が多い日もあるかもしれないではないか。

確かに、日本の製品は便利にできていて、サービスは痒いところに手が届いている。素晴らしい国、国民だと思う。

ちょっとしたアイデアや工夫を生み出す努力は長所として残っていけばいいのだけど、「人数と気合さえあれば実現できるサービス」に驀進しすぎてはいまいか。

人口が減少していく中、もうその人数も、気合のある若い働き手もいないということに気付かなくてはいけない。

人数と気合でやっているうちに、日本企業はアップル、アマゾン、スターバックス、イケアなど、独自の哲学と方法に知恵を絞ってきた外国企業に世界市場で主役の座を奪われてきた。彼らの価値の大きな部分は、無形なものにあるということも忘れてはいけないと思う。

前述の「自分の基準」はここでも適合できて、「他社がやっているから」とかはどうでもいい。「うちの会社はこうなんです」という独自性が評価されるといい。

「他社様のことは知りませんが、我が社の規模や方針、能力、そして従業員の幸福に照らし合わせると、そのサービスは現時点では不要と結論します」

株主って誰なのか。株主総会でしょーもない質問をしてくる人には、このように言ってくれよ、全国の立派な会社の社長。ちゃんとコミュニケーションすれば、捨てる神あれば拾う神もあるだろうに。


■他者のミスへの不寛容

僕にも、レストランで食べ物に髪の毛が入っていた経験はある。そんな時どうするかと言うと、「髪の毛を取り除いて食べる」。

いや、ラーメンにロレックスが入っていたら問題だよ。その時は店の人に言うかもしれない。あと、指とか。しかし、髪の毛はありえないことではないし、そないに汚いものでもない(個人差があります)。

電鉄会社のミスですらないのかもしれないが、電車が遅れる時など、常に遅刻をするワタシは、「やった! 遅刻の理由ができた」くらいに思っている。最近は電車に乗っていると、「電車が二分遅れております。お詫び申し上げます」と、やたら「二分」を強調した口調でアナウンスが入る。異常だよね。


■他人の成功や僥倖への不寛容

ここまで来ると、アタマの正常度合と心の健康具合を疑った方がいい。

嫉妬は、英語で言うと「shit」です。

何者でもない私が、エラソーに述べてしまったが、キレイゴトに基づいた夢想をしてみたまでだ。問題は根深く、複雑で、もはや空想するしか気分が晴れなくなってしまったのだ。

僕自身は決して寛容な人間ではない。松竹梅があれば、大概「竹」を選んでしまう小さい男でもある。我が身はかわいい。ヒゲとか生えてるけど、めちゃくちゃかわいい。

常にニコニコしているタイプの人間ではない。あのコラムの通り、体重差三倍の営業を、刺し殺したろかと本気で考えた酷い人間だ。いつも何かに怒っているようなしょーもないおっさんだ。うれしい時には素直にそれを表現できないくせに、クソ野郎にはクソ野郎なりの応対を直截にする。

ただ、僕も世の中を腐らせてきた責任の一端を担うのであろう人間として、あなたご自身はどうであったか、いっぺん問うてみてほしいと思った次第だ。

寛恕願う。