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シャルリ・エブド紙襲撃事件と言論の自由 第1回

2015年05月10日 15時03分 JST | 更新 2016年05月09日 18時12分 JST

また今年も5月3日がめぐってきた。この日になると、私は1987年5月3日の夜に兵庫県西宮市で発生した、朝日新聞社・阪神支局襲撃事件を思い出す。

 

今年1月にはパリで風刺新聞シャルリ・エブドの風刺画家の虐殺事件が起きたが、阪神支局の事件も、言論を銃弾で封殺しようとするものであり、根は同じだ。

* 記者たちは泣きながら取材をしていた

朝日新聞社・阪神支局に対する襲撃事件では、支局に侵入した男が散弾銃を撃ち、当直だった小尻知博記者(当時29才)を射殺したほか、もう1人の記者に重傷を負わせた。「赤報隊」を名乗る団体が犯行声明を出したが、警察は犯人を逮捕できず、事件は2002年に時効となった。

当時私は、NHK神戸放送局の警察・司法担当記者だった。自宅で本を読んでいたところ、デスクから電話がかかり「朝日新聞社の支局に強盗が入ったらしい。すぐに現場に行ってくれ」という一報。私は西宮市に住んでいたため、ただちに現場に急行した。私は当時兵庫県警察本部の記者クラブに属していたが、一時阪神間地域の警察記者クラブにも属していたため、小尻記者とは面識があった。

彼は優しい表情で、おとなしそうな性格の人だった。あの柔和な小尻記者が、テロリストの凶弾に倒れた。神戸放送局での5年間に様々な殺人事件を取材したが、これはもっとも精神的につらい事件だった。

私は午前1時頃、西宮警察署の公衆電話から、事件の第一報を支局へ送っていた。その時、薄暗い西宮警察署の一階のホールに、「ウォーッ」という悲痛な叫び声が響き渡った。朝日新聞社の記者たちが、「危篤状態だった小尻記者が病院で息を引き取った」という報せを受け取ったのだ。その夜、彼らは頬に流れる涙を拭おうともせずに、現場周辺で聞きこみを続けていた。

記者たちが、泣きながら取材しているのを見たのは、この時が初めてだった。28年前のこの光景は、今も昨日のことのように脳裏に焼き付いている。当時2歳の娘さんを残して他界した小尻記者の悔しさは、いかばかりだっただろうか。

私はこの事件の後、3ヶ月にわたって1日の休みもなく、夜討ち朝駆け取材を続けた。兵庫県警の刑事部の捜査員たちは、公安部が右翼団体に関する情報を共有しないことについて、不満を表わしていた。私は、日本の警察が、民主主義体制への挑戦であるテロ事件を解明できなかったことに、強い憤りを感じる。

一方、今年1月にパリで起きた事件は、言論機関を標的としたテロとしては、欧州の歴史で最悪の事件だ。2015年1月7日、パリにある風刺週刊新聞「シャルリ・エブド」の本社で、編集会議が行われていた部屋にテロリスト2人が侵入し、編集長や風刺画家、ライター、会議にたまたま出席していた来客、警護していた警官ら12人をカラシニコフ自動小銃で射殺したのだ。

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シャルリ・エブド紙の編集部があった、パリ市内の建物。今でも武装した警察官が警戒している。(筆者撮影)

犯人たちは、毎週水曜日の午前中に編集会議が行われ、スタッフが一つの部屋に集まることを知っていた。2人は、犯行時に自分たちがテロ組織「アラビア半島のアルカイダ」に属することを明かし、「アラーは偉大だ。おれたちはシャルリ・エブドを殺し、預言者ムハンマドの仇をとった」と叫んで逃走した。

*「欧州の9・11」

犯人たちは2日後にパリ郊外の印刷工場に人質を取って立てこもった後、警察の特殊部隊に射殺された。またこの犯行と連動して、別のテロリストも同じ日にパリ南部の路上で警察官を殺したほか、2日後にパリ東部のユダヤ系スーパーマーケットに人質を取って立てこもり、ユダヤ人の買い物客ら4人を殺害。

この男も突入した警官隊に射殺された。一連の事件の犠牲者は17人にのぼった。1月14日には、「アラビア半島のアルカイダ」が、「預言者ムハンマドに対する侮辱に報復した」という犯行声明を発表した。

フランスでは1月11日に、全国で370万人が犠牲者を追悼するデモに参加した。パリでは、「Je suis Charlie(私はシャルリ)」というプラカードを持った市民ら160万人が大通りを埋めた。デモには、オランド大統領、ドイツのメルケル首相、英国のキャメロン首相のほか、スペイン、イタリア、ウクライナ、イスラエル、パレスチナなどの首脳も参加。フランスでは普段からデモが多いが、370万人もの市民が参加するデモは、第二次世界大戦後、一度もなかった。44ヶ国の首脳が駆けつけたのも極めて異例である。

なぜ彼らは、シャルリ・エブド紙襲撃事件に強い反応を示したのだろうか。それは、欧州の政治家や言論人たちが、この事件について、2001年に米国で発生した同時多発テロ並みの危機感を抱いているからだ。その危機感の原因は、テロリストたちが言論機関の意見を封じるために凶行に及んだことだ。銃弾の雨を浴びたのは、「言論と表現の自由」だった。これは、欧州人たちが最も重視する価値の一つである。

1992年に創刊されたシャルリ・エブド紙は、政治家をはじめとするあらゆる権威を批判する週刊新聞で、挑発的な風刺画と鋭いジョークを売り物としていた。フランスには19世紀のオノレ・ドーミエ以来の風刺画の伝統があり、国民も政治を風刺するイラストを好む。フランス人のメンタリティーを理解する上で「révolte(反抗)」という言葉は最も重要だ。そこにはフランス革命以来の、不服従の精神が息づいている。

シャルリ・エブドはフランス人の反骨精神と個人主義を象徴するメディアだ。同紙は特にフランスの国是である政教分離と世俗主義を重視し、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの宗教にしばしば集中砲火を浴びせていた。

*イスラム過激派にジョークで挑戦

特にイスラム過激派にとってシャルリ・エブド紙は、怨嗟の的だった。2005年にデンマークの日刊紙「ユランズ・ポステン」がムハンマドの風刺画を掲載して、パキスタンなどのイスラム教徒から批判されたが、シャルリ・エブド紙は、2006年にこのイラストをあえて転載。

イスラム教は、神や預言者の図像化を禁じており、フランスに住む多くのイスラム教徒はシャルリ・エブド紙の決定を挑発行為とみなした。フランス・イスラム教評議会(CFCM)は、ムハンマドの風刺画が載った号の発行差し止めを求めて提訴したが、裁判所はイスラム教徒の訴えを却下した。

シャルリ・エブド紙は2006年に、イスラム過激主義を糾弾する「12人の宣言」を掲載した。この宣言には、小説「悪魔の詩」を書いたためにイスラム原理主義者から命を狙われている作家サルマン・ラシュディーや、イスラム世界での女性抑圧を批判する人権活動家アヤーン・ヒルシ・アリらが署名している。

2011年にチュニジア議会選挙で穏健派イスラム主義政党であるアンナハダが第一党になると、シャルリ・エブド紙は「預言者ムハンマドが編集したシャリーア・エブド」と銘打った号を発売。シャリーアとはムハンマドの言行に基づくイスラム法である。表紙には、ターバンをかぶったムハンマドが描かれ、吹き出しの中には「笑い死にしなかったら、100回の鞭打ちの刑だ」と書かれている。

この号の発売直後に、シャルリ・エブド紙の編集部の入った建物が放火され、同紙は左派系新聞「リベラシオン」の社屋の一角を借りて、編集作業を続けた。

シャルリ・エブドの編集長で、風刺画家でもあるステファン・シャルボニエは、放火事件の数ヶ月前から脅迫メールを送りつけられるようになった。それにもかかわらず、同紙は2012年9月に再びムハンマドの風刺画を掲載。

シャルボニエは、眼鏡をかけ痩せぎすの外見に似合わず、戦闘精神のかたまりだった。彼は、ルモンド紙とのインタビューの中でこう語った。「私には、子どもや妻はいない。車も借金もない。こんなことを言うのは大げさかも知れないが、膝を屈して生きるよりは、立ったまま死ぬことを選ぶ」。(『膝を屈して生きるよりは、立ったまま死ぬことを選ぶ』という言葉は、シャルボニエが考えたものではなく、メキシコの革命家エミリアーノ・サパタの言葉)

シャルボニエは、事件が起きた1月7日発売号に、自分の運命を予言するかのようなイラストを載せていた。これが彼の遺作となった。タイトルは「フランスではいつになってもテロが起こらない」。カラシニコフを持ったイスラム過激派のテロリストが、こう言う。「待っていろ!1月末までに、新年の挨拶を出す」。彼はこのイラストを描いた時、掲載紙が発売される日に、自分や同僚がテロリストの凶弾に倒れるとは思っていなかっただろう。 

テロ事件の直前、シャルリ・エブド紙は販売部数の低迷に苦しんでいた。どの出版グループにも属さず、広告も掲載しない同紙は、編集部員や読者から寄付を募ることによって、かろうじて低空飛行を続けていた。

同紙はこのテロによって、シャルボニエだけでなく、ジャン・サビュ、ジョルジュ・ヴォランスキー、フィリップ・オノレ、ベルナール・ヴェリアという4人の有名な風刺画家、経済ジャーナリストのベルナール・マリスを一挙に失った。これは、大きな痛手である。同紙が休刊、破綻に追い込まれる危険すらあった。

このため、テロ事件後フランスのメディアは、こぞってシャルリ・エブド紙を支援した。リベラシオン紙が再び社屋の一角を提供したほか、ル・モンド紙やフランス・テレビ、AFP通信などが寄付や定期購読の開始などによって、同紙を援助。ある投資銀行は、50部の定期購読を始めた。

 

生き残ったシャルリ・エブド紙のスタッフは、テロの翌日に「次号は通常通り発行する」と宣言。事件から1週間後に発売された1月14日号の表紙には、再び預言者ムハンマドの風刺画を載せた。

ムハンマドが涙を流しながら「全ては許される」と言っているイラストだ。テロ事件の直前の同紙の発行部数は公称6万部(実売数は3万部)だったが、同紙は1月14日号の発行部数を700万部に引き上げた。この日の朝、フランスの多くの新聞販売店では、開店してから数分間で、シャルリ・エブド紙が売り切れた。

生き残った編集部員たちがムハンマドの風刺画を、事件後の最初の号にあえて載せたことは、「テロに屈しない」というシャルボニエの遺志を継ぐものであり、同紙の反骨精神を象徴する。シャルボニエは天国でも、テロリストに対して中指を立てる挑発的なポーズをとっているに違いない。

私は、以前からシャルリ・エブドという新聞の存在は知っていたが、一度も買ったことがなかった。私は自分でもイラストを描くが、挑発的で下ネタが多いシャルリ・エブドの風刺画はあまり好きになれなかった。

それでも、どのような内容の新聞であれ、編集長や風刺画家を銃弾によって抹殺するという行為は、絶対に許してはならない。

(続く)

朝日新聞社『ジャーナリズム』掲載の記事を加筆・転載