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熊代亨 Headshot

アニメやゲームがポピュラーになった社会に、イエスと言う

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アニメやゲームが"市民権"を獲得して数年か十数年が経った。

"市民権"と言うとお怒りになる人もいるかもしれない。年配の人からはまだまだ嫌悪されているし、"市民権"などと言う割には政治的な問題意識が遅れている、と批判する人もいるだろう。しかし、そういった指摘ができる程度にはアニメやゲームは世間に広まった。特に三十代より下の世代において、アニメやゲームが90年代のような嫌悪の視線を向けられることは少なくなっている。

なにより、アニメ的表現、ゲーム的表現が驚くほど世の中に溢れるようになった。

地方自治体のキャラクターがアニメ風になったのは、いったい何年も前だったろうか。陳腐を地で行くキャラクターが地方自治体の玄関口を飾っている程度には、アニメ風のキャラクターは生息域を拡げた。ゲーム的な表現もそうで、Eテレの『天才テレビくん』はもとより、クイズ番組やバラエティ番組にもロールプレイングゲーム的・シミュレーションゲーム的な表現が頻繁に出てくる。そうやって急速に生息域を広めて"社会の表舞台に現れてきた"からこそ、アニメ表現やゲーム表現の適切さが今まで以上に議論されるようにもなった。

「いい年してアニメを観ていればオタク」「いい年してゲームをやっていればオタク」という時代はとっくに終わった。今では、スクールカーストの高そうな高校生も、白髪だらけのサラリーマンも、電車のなかでゲームを遊んでいる。パチンコの演出も、スマホのキャラクターも、アニメ!アニメ!ゲーム!ゲーム!

「アニメやゲームは、キモいオタクのもの」というステレオタイプも成立しなくなった。なにせ日常生活や人間関係が充実している人達までもが、楽しそうな顔をして『ポケモンGO』や『君の名は。』に飛び付いているのである。ちょっと昔まで、ジブリのアニメなどの一部の『作品』だけが免罪符を獲得していたのがウソのようだ。

子どもの娯楽からオタクの娯楽へ、そしてみんなの娯楽になった


つまり、アニメやゲームは「みんなのもの」になった。

誰もがアニメを見て、誰もがゲームを遊ぶ。ライトノベルやweb小説も裾野が広がった。そうやってみんなの娯楽になっていく過程のなかで、そこで描かれる表現やキャラクターは微妙に変化していった。

本来、アニメやゲームは第一に子どもの娯楽だった。たぶん漫画もそうだったし、ライトノベルもティーン向きだったっぽいが、ここではアニメとゲームに話を絞ろう。アニメやゲームが製作者側の意思と視聴者側の着眼との相互作用によって、もう少し年上の視聴者にも愛好されるようになっていったのが70-80年代。

その後、【新人類vsおたく】というサブカルチャーの文化主導権争いに敗れたオタクが「キモい存在」と烙印を押されたことによって、しばらくの間、アニメやゲームはまさに子どもとオタクのものになった。例外的アニメもあったし、"国民的ヒット"を記録したゲームの幾つかは免罪符を獲得したもけれども、「いい歳してアニメやゲームにはまっているのがバレたら面倒なことになる」雰囲気は存在し続けた。たとえば「女児向きアニメが大好き」とクラスメートにカミングアウトするのは、社会的自殺とまではいかないにせよ、ダメージを避けられない行為だった。

90年代後半には『新世紀エヴァンゲリオン』が大ヒットした。「『エヴァンゲリオン』でアニメはポピュラーになった」という声は当時から耳にしていた、私は半信半疑でそれを聴いていた。「オタクの解放」を叫んでいたオタク達の裏返った声はいかにも短絡的だったし、民放のテレビ番組が『エヴァ』を紹介する際、"不可解なものが流行しています"と言いたげな雰囲気が宿っていたからだ。私は、そのような報道を眺めて眉をしかめる人や小馬鹿にする人を何人も見知っていたから、『エヴァ』でアニメがポピュラーになったとはあまり感じなかった。

しかし、私の体験はさておいて「90年代末に、エヴァンゲリオンでアニメがポピュラーになった」のは、きっとそうなのだろう。アニメというジャンルを、たぶん『エヴァ』はポップカルチャーに近づけた。だからといって、あの段階では綾波レイや惣流アスカラングレーが好きだとカミングアウトするのは危険だったが。

アニメやゲームが本当の意味で「みんなのもの」になったのは、私は00年代後半、あるいは10年代に入ってからだと思っている。

『涼宮ハルヒの憂鬱』『けいおん!』『魔法少女まどか☆マギカ』などが若い世代に与えた影響は、少しずつ、だが確実に蓄積していった。『Fate』『東方』『ひぐらしのなく頃に』などもそうだろう。パチンコ屋でもアニメ的・ゲーム的意匠は増えていった。でも、そういったコンテンツの果たした役割と同等以上に、たぶんスマホの影響も大きいのだと思う。

スマホによって「隙間時間」にアニメやゲーム、特にゲームアプリが捻じ込まれるようになった。いつでもどこでも楽しめるアニメやゲームが日本サブカルチャー界を席巻していった、あの鬱陶しい広告も含めて。

で、どうなったか?

アニメやゲームは裾野の広い娯楽となった。およそゲームに縁のなさそうな面構えをしたサラリーマンが、手触りのツルツルしたパズルゲームをぼんやりと遊び、快活な若者がスマホを熱心にいじっている――そんな世の中が到来した。

アニメ的表現やゲーム的表現が浸透するにつれて、いくつかの表現は「政治的な正しさ」の問題として議論されるようになってしまった。これは厄介な事態ではあるけれども、マイナーだった頃の表現とセンスをろくに改めず、もはやメジャーとなってしまった現状でも同じような表現やセンスを公衆の面前に晒し続けていれば避けられない事態だったし、これからも問われ続けていくだろう。

他方、アニメはともかく、ゲームに関しては、据え置き型ゲーム機の衰退と「スマホでゲームをやればそれで良い」という雰囲気が広まっていった。これは古参のゲーム愛好家にとってちょっと寂しいことだが、新たにゲームに触れるようになった人達はアニメオタクでもゲームオタクでもないのだから、据え置き型ゲーム機をわざわざ買ってゲームを"やりこむ"なんてことは無くて当然ではある。

公共の場でのゲームマナーにしても、裾野が広がれば話が変わってくる。少数精鋭のゲームマニアだけが位置情報ゲームを遊んでいる時と、ずっとたくさんの老若男女が位置情報ゲームを遊ぶのでは、質・量どちらの面でもゲームを取り巻く状況は大きく変わらざるを得ないし、ゲームの内容もポップなものでなければならない。

この数十年間、アニメやゲームがポピュラーになっていくにつれて、プレイヤーも、ゲームを取り巻く状況も、ゲーム内容もどんどん変わっていった。それによって、得たものは何だったのか。それによって、失ったものは何だったのか。

それでも私は、こんなにアニメやゲームが世の中に溢れている現状を嬉しく思う。私は、アニメやゲームがポピュラーになった社会にイエスと言いたい。本当にたくさんの人々がアニメやゲームを受け入れている未来がやって来るなんて、三十年前には想像もできなかった。長く生きていて良かった、と思う。

(2016年10月23日「シロクマの屑籠」より転載)