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シンガポール初の女性大統領、初代大統領以来のマレー系

なぜ初の女性大統領が反発されたのか

2017年10月12日 16時52分 JST | 更新 2017年10月12日 16時52分 JST

シンガポールの第八代大統領に、ハリマ・ヤコブ氏が9月14日に就任しました。シンガポールで女性が大統領に選出されたのは史上初めてです。

ハリマ・ヤコブ氏: 略歴

ハリマ・ヤコブ氏。1954年生まれの63歳。

警備員をしていた父は、ヤコブ氏が8歳の時に亡くなります。食事を出す屋台で、朝早くから夜遅くまで働く母に、育てられました。「十歳で母の仕事を手伝い、貧困を経験した」と本人は綴っています。

シンガポール国立大学の前身であるシンガポール大学にて法学の学士、その後、シンガポール国立大学で法学の修士を取得。

シンガポール全国労働組合会議 (NTUC) にて、仕事をはじめます。弁護士です。2001年の総選挙で政界入り。地方自治開発・青少年・スポーツ省 (MCYS)、社会家族開発省 (MSF) にて大臣。与党PAPの最高機関である中央執行委員会に加わる。2013年には女性初の国会議長に就任。

国際的には、国連の国際法委員会 (ILC) の標準委員会にて議長代理を務めています。

シンガポールの民族環境

シンガポールには主要三大民族として、中華系・マレー系・インド系があります。国民と永住者における民族比率は、中華系74.3%、マレー系13.4%、インド系9.0%、その他3.2%です。国の方針として民族平等ですが、数としては3/4を中華系が占める中華系国家です。

1965年~70年に務めた初代大統領ユソフ・ビン・イサーク氏以来の、2人目のマレー系大統領となります。現在のシンガポールでの$10札にイラストとして使われているのが、初代大統領です。

シンガポール大統領の特徴

シンガポールの大統領は、憲法で「国の代表 (Head of State)」と定義されています。

儀礼的な活動を中心に行います。外交・文化振興・慈善活動・賞や奨学金などです。諸外国で、国政とは別に儀礼的な存在を持つのは、血統や宗教を背景にしていることが多いのですが、そうではなく民選なのがシンガポール大統領の特徴です。

数少ない権限は、経済危機時などに緊急時に利用される政府準備金への拒否権などに限定されます。それ以外の活動については、政府か大臣の助言に従って行います。例えば、大臣の任命や恩赦は形式上は大統領が実施していますが、首相や政府の助言に従います。つまり、これらには、大統領が独自の判断はできません。日本での、天皇の国事行為にたとえることができます。

また、大統領が拒否権を発動しても、議会で2/3以上の投票を得れば、拒否権を覆すことができます。

なぜ初の女性大統領が反発されたのか

「選挙が行われなかったこと」が国民が反発した最大の理由です。「女性初」というのは目を引きますが、性別は議論の対象になっていません。

2つの大きなタイミングがありました。

まず一つ目は、マレー系のみが立候補できる内容へと、憲法と法律が変更された時。このタイミングで、野党支持者の一部から反発が起きます。ですがここでは、民族を制限することへの議論はおきましたが、国民全体として反発とまで言えるほどではありません。

決定的になった二つ目が、ヤコブ氏以外に届け出た4人全員が立候補資格を満たさないとして失格となり、ヤコブ氏の無投票当選での選出が決まったときです。これで、国民が「国の代表」への意思表示をできなかったことを理由に、反発が広範囲に広がりました。
メルトウォーター社のネットでの感情調べによると、

9月10日まで肯定51%、否定49%
9月11日(無投票当選確定日)と12日肯定17%、否定83%

と、それまで拮抗していた感情が、無投票当選を境に、圧倒的に否定的になっています。

大統領選挙の改訂: 民族限定での立候補

今回の大統領選挙の前に、選挙制度の変更が行わました。制度変更の骨格は2つです。

  1. 民族: ある民族から5期連続で大統領が選ばれなかった場合、次の選挙ではその民族からのみ立候補が"予約"される (該当民族から選出されない際には、他民族も含めた立候補を再度受け付ける。更にその次の大統領選挙で該当民族の優先が再度予約される)
  2. 立候補資格: 民間経験の場合、株主資本がS$5億以上の企業で、3年以上の経営トップの経験 (従来は払込資本S$1億の企業でCEOか会長。公職では従来通り、大臣・裁判長などの重要職を3年以上経験)

"民族カード"と歴史的背景

シンガポールでは、『「特定民族の国会議員はその民族の利益を代表する」という考えはよくない』という価値観があります。国会議員は各民族ではなく国民の代表であり、国民全員の利益を代表しなければならない、ということです。

この価値観は、シンガポール独立時までさかのぼることができます。イギリスからの独立時に、一時はマレーシアの州の一つとして統合・独立したシンガポールは、わずか2年でマレーシアから追放される実態で、1965年に国として独立します。

理由は、民族への考え方の違いです。マレー系の優遇を当時のマレーシア(マラヤ)首相は持っていました。シンガポールの考えである「マレーシア人のためのマレーシア」「特定の民族を優遇しない。マレーシアはマレー系や中華系やインド系のものでない」とは合わないものでした。

シンガポールには"シンガポール国民の誓い"という、小学校や国家行事で斉唱される、国民なら誰でも暗唱できるものがあります。私の訳を付けます。

我々、シンガポールの国民は、幸福・繁栄・我々の国家の発展のために、民族・言語・宗教にかかわらず、正義と公平に基づく民主社会をつくることを誓います。

「民族・言語・宗教にかかわらず」という文言がこの短い文章の中に含まれているのは、建国の経緯であり、マレーシアへの強烈なアンチテーゼです。また、シンガポールがメリトクラシー(能力主義社会)を標榜して、こだわるのも、建国直後の混乱時に民族や家柄のなりふりを構ってられるほど人材プールが豊かでなかったこともありますが、民族主義をとるマレーシアからの独立を背景としています。

建国直前の1964年に合計36人が死亡する大規模な民族紛争を経験し、シンガポールで民族の扱いは極めて繊細です。公団(HDB)では民族が孤立しないように民族比率が割り当てられ多民族での共生が必須であり、義務教育では共通語の英語に加えて生徒の母語の両方が必修です。民族のアイデンティティが重んじられながらも、国民としての民族融合が進められています。

このシンガポールで、「民族を根拠に扱いを変える」というのは要注意の事項ですが、政治では重大な局面でこれがとられています。例えば、国会議員選出のグループ選挙区 (GRC) です。1つの選挙区で勝った政党が、4人~6人の議員を総取りできる制度ですが、GRCでは1人以上はマイノリティ民族、つまり中華系以外を立候補者に含めることが必須になっています。「民族にこだわらずに、国民の代表にふさわしい人を選ぶべき」というのがポリティカル・コレクトネスだという理解は、国民には浸透していますが、現実には同一民族への共感が少なからず発生します。その現実解だ、ということです。

中華系有力候補者外し!?

しかしながら、グループ選挙区は、マイノリティ民族の確実な選出を可能にしただけでなく、小選挙区以上に与党の一人勝ちを促進する効果もあります。前回総選挙は与党の得票率が約70%になったことが示すように、国民からの支持もあるのですが、議席占有率では93%と更に強固です。グループ選挙区は現在のシンガポールの一党支配体制を支えている仕掛けの一つです。

民族限定となった大統領選挙も、民族是正以外の狙いがあるという疑いを、反政府支持者は持っています。それが、前回の大統領選挙に、次点で落選した中華系のタン・チェンボク氏外しではないのか、ということです。

タン・チェンボク氏は医師出身で、以前は与党PAPから国会議員としても活動していましたが、前回大統領選挙では与党PAPが推薦したトニー・タン氏に敗れています。与党出身でありながらも、大統領選挙直前にあった国会議員総選挙では野党候補にアドバイスするなど、与党PAPとは一線を画しています。大統領選での得票の差はわずかに7千票であり、一党支配体制が続いていた与党PAPを震撼させました。

今回の大統領選挙には立候補を1年以上前から表明していおり、出馬すれば有力候補とみなされていましたが、マレー系のみが立候補できる選挙となり、立候補すら不可能に終わりました。タン・チェンボク氏は、大統領選挙の憲法改正に反対し、裁判もおこしましたが、敗訴となっています。タン・チェンボク氏は現在78歳であり、次回の大統領選挙が行われる6年後の出馬は難しいとみられています。

なお、タン・チェンボク氏の裁判での主張は「ウィー・キムウィー第四代大統領を、大統領選挙で民族指定が計算される5期連続のうちの最初の期としたのは憲法違反。なぜならウィー・キムウィー大統領は直接選挙でなく議会選出だから」というテクニカルなものでした。憲法自体が改正されているため違憲を主張できないからですが、「民族指定自体の妥当性」を争点としなかった法廷戦術は興味深いものがあります。

この「直接選挙からカウントすべき」という論点は、野党が国会で追求し、政府が裁判を促したのに応じたものです。野党は大統領選挙公示日に、「どちらの大統領から数えるかは、政治決定か法への疑問か」として議会の休会動議を出し、国会で論戦を再開しています。

シンガポール大統領の厳しい被選挙資格

歴史的経緯や文化背景の違いはあるのですが、ここでは日本とシンガポールの制度を比較します。
シンガポールの大統領は、血縁や宗教は選出の背景にありません。そのために、国民からの支持が重要です。支持を証明するための選挙が行われず、(日本の選挙もそうですが)信任投票の制度もないために、意思表示ができなかった国民は反発しました。

シンガポールの大統領選挙は、「年齢など最低限の資格をクリアすれば、誰でも立候補でき、国民が選出する」という選挙ではありません。日本国憲法に以下の条文があります。

第四十四条 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。

シンガポールで立候補資格である、公職の最重要職経験や、民間大企業の代表経験は、日本国憲法であれば「社会的身分」に抵触すると考えられます。今回の大統領選挙では、申請者のうちの民間出身の2人が資本金要件を満たさず立候補を認められなかったのが、無投票当選になった理由です。残り2人の失格理由は、マレー系の証明書類の未提出です。

選挙権も被選挙権も、資格で足切りをするのではなく、年齢や刑法犯など最低限を満たせば、候補者自身の適正を全てひっくるめて国民が判断するのが、日本での民主主義です。

なお、シンガポールでも国政に権限がある国会議員では、被選挙権は厳しくないです。被選挙権がないのは、破産者、1年以上の禁固刑かS$2千以上の罰金を受けた人、重国籍者など、限定的です。

    明るい北朝鮮を超えて

    シンガポールを揶揄する"明るい北朝鮮"という表現があります。今回の大統領選挙を知ると「シンガポールは"明るい北朝鮮"だから」とレッテルを貼って、ドヤって終わる人がいます。

    そもそも、「明るい北朝鮮"だから"」もなにも、シンガポールを"明るい北朝鮮"と呼ぶのは、日本でしか通じないガラパゴス表現です。「ブライト ノースコリア」とわざわざ英語での話の時にも持ち出す日本人が時々いますが、シンガポール人も知らない表現なので、理解されません。シンガポールは独立後一貫して自由主義陣営なので、シンガポールでも日本以外の他国でも、通じなくて当然です。

    自国民も認識し、国際的にも知られている、シンガポールへの揶揄は"リトル・レッドドット"です。インドネシアのバハルディン大統領(当時)が、「(インドネシアと比べて)赤い点にすぎない小国」の意味合いで使い、それを受けてシンガポールのゴーチョクトン首相(当時)がアジア通貨危機を受けて苦しむインドネシアに「地図ではリトル・レッドドットの小国だが、できるかぎりインドネシアを助けよう」と発言したことで、「俺たちはリトル・レッドドットの小国なのにうまくやってるじゃねぇか」とポジティブな意味に変わってしまいました。

    日本だと、「世界で最も成功した社会主義国」です。どんな国にでも揶揄する表現があります。

    シンガポールは独立から一党支配が続き、国境なき記者団の世界報道自由ランキングで154位になるなど言論の自由への制限があるのは確かです。ですが、それは多民族国家でヘイトスピーチが引き起こす民族対立を抑止し、なにより選挙で国民が信任した結果でもあります。
    完全な国、天国はこの世にありません。シンガポールも、経済成長は著しく治安は良好ですが、言論の自由に制約があります。米国も、自由と民主主義の擁護者ですが、銃社会と重い医療費負担に苦しんでいます。日本は深い歴史がおりなす豊かな文化・食事がありますが、過重労働と経済停滞から抜け出せません。お互いの国の違いを知って、認めあうことが大事です。

    他国・他文化・他民族を理解する際に、レッテルから入るのは、最初期の段階ではとっかかりとしてやむを得ないかもしれません。ですが、レッテルに頼らずに、ご自身の言葉で表現できるようになることが、他国理解の第一歩です。レッテルを超えて、ご自身の感想・意見・理解を持たれる人が増えることを、シンガポール在住者として願っております。

    本記事は下記の要約です。今後、修正・加筆が発生した際には、下記で行います。