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「男女の戦い」と「忘れられた人々」

2017年06月05日 19時32分 JST | 更新 2017年06月05日 19時32分 JST

先に告知記事で書いた通り、勤務先の駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部の2017年度「実践メディアビジネス講座I」において、シリーズ講義「メディア・コンテンツとジェンダー」を行うことになった。

以下は初回のイントロダクションで私が話したことの一部について、ややこしくなる等の理由で省いた部分を補足したものだ。特に目新しい主張でもないと思うし、今後ゲスト講師の方々のお話を聞くうちに変わるかもしれないが、今考えていることをできるだけ手短に(といっても割と長い)。

メディアやコンテンツの領域に限らず、ジェンダー問題は議論が難しい。うかつに何か言えばあっという間にわらわらと人が集まってきて、寄ってたかって吊し上げられ、あらん限りの罵声を浴びせられる。アカデミックな人々からの「お前はこんなことも知らないのか」的なマウンティングから一般の人たちによる「何この人」的な人格攻撃まで何でもありだ。

一部の「喧嘩上等」な人々を除けばぜひとも避けたい状況だろう。ある意味「アンタッチャブル」な話題であるという認識は比較的広く共有されているのではないか、と想像している。

みる限り、この「戦い」は主に、女性対男性(ここで既に「男性対女性」と書くと怒る人がいるのだな)という図式で行われる。このこと自体は歴史的にみれば不思議ではない。

理不尽にも社会の枢要を占め我が物顔で権力を振るってきた男たちに対し、勇敢な女「闘士」たちが戦いを挑み、長い時間をかけて少しずつ小さな「勝利」を積み重ねて現在の状況まで到達したという見方は、少なくとも20世紀の間は、そう大きくははずれていなかったように思う。輝かしい成果だ。もちろんまだ多くの分野で差別や格差はあって、この「男女の戦い」は今も続いている。

とはいえ、どうも最近は、やや状況が混沌としてきているようにも思われる。1990年代以降みられるようになった、いわゆるバックラッシュ的な動きもその一要因ではあるのだろう。

多くの場合、バックラッシュ派の主張はナイーブな懐古主義や「モラル崩壊」へのやっかみ半分の不安、あるいは単純な嫌悪のようにも思われるが、わかりやすいということもあってか、バカにできない影響力を持っている。女性の政治家などでバックラッシュ的な主張をする人は少なくない。信条というよりマーケティング的なものかもしれないが、政権中枢部まで勢力は及んでいて実際に政策が動いたりする。

しかし、そうしたわかりやすい反対派だけが問題なのではない。賛成派、つまりフェミニズム内部もいくつかの派に分かれていて意見の相違があるが、問題は反対派と賛成派の中間、つまり明確な意思表示や行動を行わない一般の人々だ。

国立社会保障・人口問題研究所による第5回全国家庭動向調査(2013年調査)では、妻たちに家族に関する意識を聞いている。「結婚後は、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」に対して、「まったく賛成」が5.4%、「どちらかといえば賛成」が39.5%と、合わせて44.9%の妻が賛成している。

世代別にみると、60代以上が高くそれより若い世代では低いが、29歳以下では41.6%が賛成しており、30代の38.9%、40代の38.2%、50代の36.0%より高い。「家庭では重要なことがあったときは、父親が最終的に決定すべきだ」では71.6%、「男の子は男らしく、女の子は女らしく育てるべきだ」では67.2%の妻が賛成している。変わりつつあるとはいえ、総じていえば女性も、「社会的に求められる性的役割分担」に対してあまり抵抗感がないようだ。

国立社会保障・人口問題研究所「第5回全国家庭動向調査」(2013年調査)

http://www.ipss.go.jp/ps-katei/j/NSFJ5/NSFJ5_gaiyo.pdf

「ハウスワイフ2.0」という考え方も主張されている。いったんはエリート職に就きながらもそのキャリアを捨てて専業主婦となる女性たちを指す。「会社を選択的に離脱、企業社会で燃え尽きた母親世代が反面教師、田舎生活を楽しみジャムを作り編み物をする、ストレスのある高報酬よりほっとできる暮らしを優先、Web・SNSでワークシェアを利用、ブログで発信・起業、家事を夫と分担・余裕ある子育てをする」のだそうだ。米国での話だが、日本でも似たようなケースはまま聞くことがある。

子育て世代の専業主婦志向~日本でもハウスワイフ2.0が増加?

ハフィントンポスト日本版2014年09月19日

http://www.huffingtonpost.jp/nissei-kisokenkyujyo/housewife_b_5839768.html

もちろんこれらは、社会の中に根強く残っているさまざまな差別や、高収入の配偶者を得て自らのキャリアを放棄してもさしつかえない状況を手にした幸運などを前提としたある種の処世術であろうから、だからジェンダー問題はもうないのだといった方向に行く話ではない。とはいえ、これまでの議論とは異なる方向が出てきていることは否定できまい。さかんにもてはやされてきた女性のキャリア指向や「男女平等の理想的な社会像」が、少なからぬ数の一般的な女性たちから乖離してしまっているようにもみえる。

どうしてこんなことになるのか、専門外なのでよくわからなかったのだが、最近、一見違った領域で、よく似ていると思った状況に遭遇してはたと気づかされた。

いわゆる「トランプ現象」だ。

2016年の米国大統領選挙でドナルド・トランプ氏を支持した人々はよく、「忘れられた人々」と呼ばれる。アメリカの産業を支えてきたにもかかわらずグローバル化が進む中で職を失い、移民流入で人種構成も変わっていく社会で、その周縁に追いやられながら、不満をもらすことも「政治的に正しくない」として抑えつけられる。そうした、社会からその存在を「忘れられた人々」がトランプ氏の過激な排外的主張に票を投じたとされる。

Reporting on Trump's 'forgotten men and women'

CNN April 16, 2017

http://edition.cnn.com/2017/04/16/us/arnade-trump-divide-rs-cnntv/

トランプを支持する"忘れられた人たち"

NHK2016年7月25日

http://www3.nhk.or.jp/news/special/2016-presidential-election/republic5.html

発足当初からトラブル続きのトランプ政権とともに、こうした人々も、しばしば批判や揶揄の対象となっているが、ここではこのような人々の考えや行動が適切なものであるかどうかは問題ではない。重要なのは、彼らがなぜこのような考えを持つに至ったかであり、またそれが問題であるならばなぜ防ぐことができなかったかであろう。「忘れられた人々」はまぎれもなく「弱者」であり、ただ彼らに自己責任を問うのみではマッチョ思考のそしりを免れない。

同じようなことが、ジェンダー問題にもいえないだろうか。根強いジェンダーバイアスを批判し、「ガラスの天井」を打ち破り自由な選択を勝ち取ろうと奮闘する「政治的に正しい」行動や意見の陰で「忘れられた人々」がいるのではないだろうか。

たとえば鈴木(2006)はバックラッシュの背景に、苦しむ男性たちがいると指摘する。

「・・・手当を必要としているのは、自由で多様な生き方を選択できないがゆえにサポートを求めている人びとだけではない。自由で多様な生き方を選択させられているがゆえに非寛容になっている人びとにこそ、サポートが必要とされているのである。ジェンダーの問題に関していう限り、前者が継続的な労働市場から排除されている女性だとすれば、後者はいずれ家庭を支えることを期待され、市場原理にもとづく自己責任を求められ、見とおしも立たないのに必死で働かなければならない男性のことになるだろう。」

鈴木謙介「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」上野他『バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』(双風舎、2006年)p.121-136.

米国ラストベルトの製造業労働者と同様、日本でも、充分とはいえない報酬で厳しい仕事に追われる男性たち、特に若年層の男性たちは、「強者」である裕福で社会的地位も高い男性たちがジェンダー問題で槍玉に挙げられたり、あるいはバックラッシュの当事者が自分の弱さを女性にぶつける卑怯者として糾弾されたりする構図ばかりが注目される社会において、「忘れられた人々」になってしまっているのではないか。

それでも相対的には多くの女性より恵まれているとして彼らの直面する問題を自己責任と片づけることが仮に(女性からみた)ジェンダー的には正しいとしても、もう一方で男性として期待される社会的役割を果たせずに苦しんでいる彼らにとっては、マッチョ的な態度にしか映らないだろう。

考えてみれば、ジェンダー問題でもある米国のいわゆるゲーマーゲート事件において、女性ゲーム制作者たちを苦しめている男性たちの中には、トランプ氏支持者ともつながりの深いとされる「オルタナ右翼」が少なからず混じっているという。私が気づかなかっただけで、もともと近接領域の話だったのかもしれない。

オルタナ右翼とゲーマーゲートと呼ばれる事件の関係

Newsweek日本版2016年9月21日

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/09/post-5865.php

もちろん、厳しい条件で働くのは男性だけではない。非正規雇用が多く、正規雇用でも男性より平均給与の低い女性たちは、男性と同じように働いていこうとすれば、より厳しい状況に置かれることになる。父子家庭(22.3万世帯)より母子家庭(123.8万世帯)が圧倒的に多い現状(2011年調査)もこれに輪をかける。

苦しく薄給の仕事に就くことしか選べない「自由」とそれによって得る、というより否応なく迫られる「自立」を誰が素直に喜べるだろう。専業主婦志向もこうした状況と密接に結びついている。

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ひとり親家庭等の現状について

厚生労働省 2015年4月20日

http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000083324.pdf

上掲「第5回全国家庭動向調査」では、夫の家事に対して「満足」と回答した妻は51.8%、「不満」は48.2%だった。若いほど「満足」と評価する傾向があり、29歳以下では69.2%、30~39歳では57.9%だ。夫の家事に「期待しない」妻は68.6%で「期待する」妻の31.4%を大きく上回るので、これも文字通りに受け取るのは不適切ではあろうが、本音で答えても何のペナルティもない調査ですらこのように答えているので、実際に満足している人も少なくないのだろう。

夫の働きぶりや社会の現況を見たうえでのある種のあきらめなのかもしれない。それを「意識が低い」と批判しても始まらない。誰もが「戦い」に参加できるほど強いわけではないのだ。

非正規雇用における男女の待遇格差はもちろんジェンダー問題だが、それが解決して男性の非正規雇用者と同等の賃金を得たとしても、所得が低いという問題が解決するわけではない。大学進学率の男女差(約10%ポイントの差がある)もジェンダー問題だが、大卒の非正規雇用者はいくらでもいるから、男女差が解消しても問題は残る。

こうした女性たちもまた、「ガラスの天井」に苦しむ高キャリア女性たちに注目が集まりがちなジェンダー問題においては、「忘れられた人々」に含まれるだろう。女性たちの間に生じている格差を「自己責任」と切り捨てれば、それはやはりマッチョ的な態度といえるのではないか。

こうしてみると、ジェンダー問題として取り上げられている問題の中には、男女の違いとは切り離せる、あるいは男女が共同して取り組んだ方が効果的と思われるものが少なからずある。女性学に刺激されて男性学が生まれ、女性の労働環境を改善するためには男性の労働環境も同時に改善していかなければならないと主張される今となっては、当たり前すぎることかもしれないが、「男女の戦い」に明け暮れる人がまだ多い現状では、改めて主張すべきことなのかもしれない。

男女で区切るのではなく、経済的、社会的に恵まれない者同士が男女に関わりなく結束して社会の中でのよりよい立場や居場所を求めていくことが、これまでより重要になってきているのではないか。「自分は正しいのだから相手が自分に合わせるべきだ」とばかりに、考えが少しでも違う相手を斬って捨てる態度では、世の中の多くの賛同を得ることはできない。

現状は「アンタッチャブル」な問題になってしまっているために、一般の人々は遠巻きに見守ることしかできない。「喧嘩上等」の態度自体が嫌われているという面もあるだろう。日本のマスメディアがこの問題について通り一遍の腰の引けた姿勢になってしまうのも、自分たちが槍玉に挙げられるのがこわいからだと想像している。

男女で分かれてしまえば勢力は最大でも約50%(一般女性から乖離している現状ではもっと少ないだろう)だが、社会を本当に変えたいのであれば、数年前にウォール街を占拠したいわゆる「オキュパイ運動」の人々がスローガンとして掲げた「99%」をめざす方がよいのではなかろうか(当該運動自体の評価はさておき)。

記事タイトルの「男女の戦い」(battle of sexes)はゲーム理論の有名なモデルの1つからとった。好みはちがうが一緒に行動したい2人のプレーヤー(たとえば夫婦)がどちらに合わせればよいかを分析するものだ。ナッシュ均衡、つまり相手が行動を変えない限り自分からは行動を変える動機のない状況は複数あり(どちらか一方に合わせる純粋戦略の場合)、したがって、そのいずれかにいったん決まると、どちらかに不満は残るがその状況が続くことになる。

もちろん問題設定は異なるが、こうやって抽象的に書いてみると、実に示唆的であるように思える。状況を動かすためには、男女双方の協力が必要なのだ。そして男女は、協調すること自体は受け入れている。混合戦略、すなわちどちらの好みを優先するかをときにより適宜分け合うやり方もある。私たちの社会も、そのようにできないものだろうか。

そのためにも、罵倒ではなく、冷静な議論を心がけたい。頭ごなしに否定するのではなく、考え方のちがう人々に耳を傾け、対話を通して接点を探りたい。議論に勝つことが目的ではないのだから、社会が(男女双方にとって)よりよく変わっていくための合意をどうやって形成するかを考えるべきだ。

理想にはまだほど遠いとしても、男女平等が一定程度進展し、男女ともにかつてよりはるかに多様な生き方が選べるようになってきた私たちの社会は、そろそろ「次」のやり方に移るべきタイミングに来ているのではないかと思う。