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慰安婦問題で朝日新聞は何を検証すべきだったのか

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The Huffington Post
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「これはまた見事な失敗作だなぁ」。2014年8月5日、最初に朝日新聞朝刊に大きく掲載された「特集:慰安婦問題を考える」を読んだ時の率直な感想である。

実は、この記事が出るまでの過程で意見を聞かれた関係から、筆者は、朝日新聞が近いうちに自らが行ってきた慰安婦報道に対する「検証」を行い、何らかの特集記事を出すであろうことは、知っていた。しかしながら、実際に目にすることになった検証記事は、筆者の予想、いや期待とは大きく異なるものだった。

筆者は何故この検証を「失敗作」だと考えたのか。最初に断っておかなければならないのは、それは筆者がこの検証記事に書かれている内容が間違いだ、と思ったからではない、ということだ。この「特集」に書かれていた内容は、それ自身、慰安婦問題やこれに関する朝日新聞の報道について、恐らくありのままを述べており、事実そのものの過誤は存在しないように見える。にもかかわらず、それが「失敗作」であると考えたのは、そもそもこの「特集」が、本来目指していたはずの目的を達成しているようには思えなかったからだ。

それにはそもそも朝日新聞がどうしてこのようなタイミングで、自らの慰安婦問題に関わる報道を検証する「特集」を出すことになったのか、から考えなければならない。この「特集」の冒頭に掲げられた文章からも明らかなように、元来、この検証作業は朝日新聞が慰安婦問題を巡る自らの過去の報道の「過ち」を訂正することを目的にしたものではなかった。むしろ、そこで念頭に置かれていたのは、慰安婦問題を巡る朝日新聞の議論を「立て直す」ことのはずだった。

周知のように、朝日新聞はこの何年か、90年代初頭のものをはじめとする一連の慰安婦問題を巡る報道内容について強い批判を浴びており、そのことは同紙の現役の記者たちが、慰安婦問題をはじめとする、歴史認識問題について著しく発言しにくい環境を作り上げることになっていた。事実、この数年間、日韓関係の悪化が続く中での朝日新聞のこれらの問題に対する報道は、日本国内の他紙と比べて明らかに低調であり、その事は朝日新聞が代表する日本国内のリベラル系メディア全体の影響力を大きく低下させる結果ともなっていた。

だからこそ、日本国内における左右の言論のバランスを回復するためにも、また何よりも朝日新聞自身が自らの報道の方向性を確認するためにも、慰安婦問題に対する見解を再構築することは彼らにとって重要なはずだった。しかしながら、実際に出てきた「特集」の内容は、同紙が過去に行った報道内容について、個別のいくつかの記事を取り上げて「当時の状況においてはやむを得なかった」と弱々しく繰り返すだけの弁解じみたものであり、案の定、この「特集」を出したことにより、逆に朝日新聞はさらに大きな世論からの非難を浴びることになった。

そして、ある意味では、それは当然のことだった。この「特集」は慰安婦問題に関する自らの問題点をさらけ出し、弁明しただけであり、同紙の一連の慰安婦問題に関わる報道がどのような「意味」を持ち、どのような「役割」を果たしてきたかについては、何も説明されていなかったからである。そこに自らが拙いと思った所に、とりあえずのもっともらしい言い訳を付けてみたあげく、逆に身動きが取れなくなった「優等生の不器用な言い訳」に似たものを見たのは、恐らく筆者だけではなかったに違いない。

ともあれ明らかだったのは、問題となった朝日新聞の「特集」には、自らの報道がどのような意味を持ち、また社会にどのような影響を与えてきたのか、そしてそれを現在の朝日新聞がどのように評価するのか、についての言及がほぼ全くと言ってよいほど欠如していたことだった。全体の評価なしに、自らの過去の間違いだけを指摘したのだから、そこから良い結果が得られるはずは最初からなかった。

さて、それでは朝日新聞の慰安婦問題に関わる報道は、実際にはどのような影響を与えてきたのであろうか。そこでここからこの問題について、筆者なりに見ていくことにしよう。

■吉田清治氏の証言

まず今回注目を浴びることとなった、吉田清治氏の証言(以下、吉田証言)についてである。同「特集」も述べているように、朝日新聞に初めて同氏が登場するのは、1982年9月2日、しかし、その証言が同紙面にて大きく取り上げられるようになったのは、1983年10月19日、「韓国の丘に謝罪の碑」という表題で同氏が韓国の「望郷の丘」に自らの行為を謝罪する記念碑を建てることを報じた後のことである。この時の吉田の行動について日本国内の他紙はほとんど報じていないから、この時の朝日新聞の報道が突出していることは明らかである。

しかしながら、そのことは逆に言えば、少なくともこの時点では朝日新聞が吉田証言を大きく取り上げたことが、他紙の報道に大きな影響をもたらしていないことをも意味している。毎日新聞や読売新聞など、他紙に吉田が頻繁に登場するようになるのは、90年代に入り慰安婦問題が、実際の日韓間の重要問題として浮上する時期以降のことであり、その意味で吉田証言の扱いについての朝日新聞と他紙とのギャップは極めて大きいものがある。もっとも、影響力ある朝日新聞に大きく取り上げられたことにより、吉田の知名度が飛躍的に向上したことは恐らく確かであり、その意味で80年代の朝日新聞による報道が、吉田証言が後に脚光を浴びる基盤となったであろうことは否定できない。

他方、吉田証言が韓国においてはじめて報道されたのも、やはり83年に「謝罪の碑」を建てた時のことである。しかしながら、興味深いことに、この時点での韓国メディアの報道内容は、朝日新聞のそれとは大きく異なっていた。即ち、朝日新聞が83年段階で既に吉田証言を慰安婦に関わるものとして注目して取り上げたのに対し、韓国メディアはこれをより広い問題、即ち、「慰安婦をも含む強制連行問題」に関するものとして取り上げたからである。

背景にあったのは、80年代初頭の韓国では慰安婦問題が未だほとんど脚光を浴びておらず、むしろ、タブーに近い問題として扱われていたことであろう。言い換えるなら、当時の韓国メディアの報道は、あくまでこのような韓国国内の文脈で書かれており、その内容の一致度を考えても、朝日新聞の報道が韓国のメディアや社会に与えた影響を、過大評価するのは禁物である。

■植村記者の記事

朝日新聞の報道がもたらした影響が、巷間指摘されるよりも遥かに限定的であったのは、もう一つの焦点である、1991年8月11日付朝刊(大阪本社版)の植村隆記者による「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦を韓国の団体聞き取り」と題する記事についても言うことが出来る。そもそもこの記事は3日後に行われることになっていた、金学順の元慰安婦としてのカミングアウトに関わる証言を朝日新聞が先取りして報じたものであり、その証言に関する報道内容は後に公表された金学順の発言によって書かれた他紙の報道と大きな違いはなかった。

だからこそ、この記事の内容部分について問題となり得るのは、金学順の証言を扱った部分よりも、この記事で植村が従軍慰安婦を「『女子挺身隊(ていしんたい)』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」ものとして紹介した点にある。

明らかなことは、このような植村の記述が、この時彼が取材にて入手した金学順の証言による産物ではないことである。植村も記事で書いているように、金学順はこの時の証言において「だまされて慰安婦にされた」と明確に述べており、例えば日本の官憲などにより物理的強制力をもって慰安婦にされたのではないことを、明確にしている。にもかかわらず、金学順の証言を離れて、植村が挺身隊と慰安婦を混同し、「戦場に連行」されたと記したのは、証言の以前に既に混同が存在したことを意味している。

それではこのような植村の混同をもたらしたのは何か。指摘すべきは、この時点においては既に、吉田証言を始めとする「慰安婦は挺身隊として強制連行された」という言説が(その真否は別として)無数に存在していたことである。

この点を考える上では当時、先の植村の文章と同一の主張を行っていたのが誰だったかを考えればよい。それは即ち第一に吉田清治その人であり、第二に、韓国における最大の元慰安婦支援団体である挺身隊問題対策協議会(通称「挺対協」)に他ならなかった。そしてこの両者に影響を与えたのは、1973年に出版された千田夏光の『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』という書籍だった。千田はこの著作で、ソウル新聞等に依拠する形で、朝鮮半島においては「慰安婦は挺身隊という名目で強制的に連行された」と結論付けており、このような千田の理解が、吉田証言や挺対協を創設した尹貞玉の従軍慰安婦問題に対する理解に大きな影響を与えていた。

事実、挺対協はその名称の一部に「挺身隊」を冠していることからも明らかなように、発足の当初から「慰安婦は挺身隊として強制連行された」という大前提に立っており、植村報道の3日後に行われた金学順との記者会見でも、団体側はこの見解を繰り返し示している。そのことは植村報道があろうとなかろうと、韓国の運動団体の主張に変化は全くなかったであろうことを意味している。

また朝日新聞においては「慰安婦は挺身隊として強制連行された」という理解は、80年代前半から繰り返し示されていている。その意味で、植村報道もまた同紙が用いて来た慰安婦に関する「枕詞」を繰り返したに過ぎなかった。その意味でこの植村報道の内容に、同紙の一連の報道の中で特殊な意味を見出すのには無理がある。

■日韓首脳会談5日前の報道

数ある朝日新聞の報道の中で、従軍慰安婦問題の展開過程に大きな影響を与えたことが明らかなものがあるとすれば、それは1992年1月11日になされた「慰安所への軍関与示す資料 防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌」という表題の報道である。

よく知られているように、この報道は単にそれまでの「慰安所に対する日本政府の関与はなかった」という政府の公式見解を覆すものであったのみならず、それが予定されていた日韓首脳会談のわずか5日前に行われたことにより、当時の日本政府を政治的に窮地に追い詰めることとなった。結果、十分な準備なしにこの首脳会談に臨んだ日本政府は、この首脳会談を前後する時期、実に13回にわたって当時の宮沢首相が「お詫び」表明を繰り返すことを余儀なくされることになっている。勢いを得た韓国政府は、その直後から、それまでの従軍慰安婦問題を含み、日韓間の全ての過去に関わる賠償問題は「日韓基本条約にて解決済み」という姿勢をかなぐり捨て、日本政府に元慰安婦に対する「何らかの形での補償」を要求するようになる。その意味でこの記事は、それまでの日韓両国間における慰安婦問題の状況を一変させ、この問題が政治問題化する分岐点的存在だった、といっても過言ではない。

とはいえ同時に、この記事について言えることは、他方でこの記事の本文が「過誤」を含んでいない、ということである。この時、朝日新聞が報じた史料が、日本政府の慰安所に対する「関与」を示すものであることは明らかであり、その指摘自身には間違いは存在しない。また、朝日新聞の「検証」記事や、政府自身の「河野談話検証報告書」が述べているように、同様の史料があることは既に日本政府にも知られていたから、その意味で本来なら、このことが何時公になってもよいように、日本政府があらかじめ入念な準備を積んでおくべきだったことは明らかである。当時の混乱した事態の一義的な責任が、この点を怠った当時の日本政府にあり、朝日新聞側にないことは疑いがない。

しかしながら、朝日新聞の側もまた、このタイミングで報道を行うことにより、首脳会談に混乱が生じるであろうことは十分に予測できたはずだ、ということもまた、見落としてはならない。

例えば、同紙は翌12日にはこの問題について「歴史から目をそむけまい」という社説を書いて日本政府を非難している。この時点において朝日新聞が、日本政府は勿論、韓国政府と比べても、より元慰安婦支援団体側に近い立場から、慰安婦問題に関する主張を展開していることは明白だった。また、わずか首脳会談まで5日しかない段階で、日本政府が新たな方策を構築することは不可能に近かったから、この段階で突如報道を行っても、首脳会談で慰安婦問題に対する具体的な解決策を見いだすことが困難であることは、誰の目にも明らかだったに違いない。

だからこそ、この報道を行うに際して、当時の朝日新聞の記者達がその影響についてどのように考えていたかは、慰安婦問題の展開において重要であり、それ故に「特集」においても積極的に明らかにされるべきだったろう。「重要な新しい事実が見つかったので、日韓関係や首脳会談に与える影響など考えずに報道しました」というのであれば、実際の朝日新聞の姿勢と乖離しているように見えるし、責任あるメディアとしても欠く所が大きい、と言われても仕方ない。

■「フロントランナー」の立場を自らどう意味づけるのか

さて、ここまで朝日新聞がその「特集」において取り上げた主要なポイントのいくつかについて述べてきた。明らかなのは、最後に取り上げた92年1月11日の記事を除けば、巷間指摘されている朝日新聞の個々の記事が日韓両国の世論や、慰安婦問題の展開に与えた影響は、考えられているほどには大きなものではない、ということである。つまり、朝日新聞のこれらの記事の内容は、韓国のメディアは勿論、日本の他のメディアにもさほど大きく顧みられることはなかったし、各々の時点でこれらの記事により両国の世論が大きく動かされた、とも言い難かった。

とはいえ、しかしながら、そのことは朝日新聞が日韓両国の間に横たわる慰安婦問題において大きな役割を果たさなかったことを意味するのか、と言えば勿論そうではない。何故なら、日韓両国のマスメディアの中で、朝日新聞こそが慰安婦問題を70年代の極めて早い段階から取り上げ、持続的かつ積極的に報じてきた存在だからである。

例えば、朝日新聞の記事データベースによれば、同紙がはじめてこの問題を大きく取り上げたのは、1979年9月7日の「従軍慰安婦の涙 朝鮮女性の悲惨さ追う」という投稿記事においてである。1970年代といえば、従軍慰安婦に対する話は日韓両国の間で一種のタブーとなっており、これに先行した千田夏光らの指摘も「際物」扱いされていた時代である。そのような時代において、この問題を発掘し、それを一般の人々に知らしめていったメディア、それが朝日新聞だったのである。
そして朝日新聞はこの問題における「フロントランナー」であったからこそ、極めて早い時期の慰安婦問題に関する議論の誤謬をもそのまま引き受けることになった。

「慰安婦とは挺身隊という名目で強制的に連行された人々である」という言説は、慰安婦問題の最初期の摘発者である千田夏光が1969年のソウル新聞の記事等を土台に作り上げたものであり、後に問題になった吉田清治の「証言」もまた、この千田の著作の記述を土台に、彼なりの脚色を大いに付け加えて創作されたものだと考えることが出来る。問題があったとすれば、朝日新聞の多くの記者たちが、この最初期の慰安婦問題における言説を検証せず報道したのみならず、彼ら自身の一部もまた、自らこの言説を信じ込んでしまっていたことにあったろう。その意味において、吉田証言の盲信も、挺身隊と慰安婦の混同も、従軍慰安婦問題の初期の誤謬をそのまま受け入れたことの結果だったと言うことができる。

朝日新聞の慰安婦報道を考える上で重要なのは、彼らが「従軍慰安婦問題に関わる議論をリードし、その発掘を積極的に行ってきたこと」について「どう考えるか」、である。自らが犯した誤謬については率直に向き合う必要がある。しかし、そのことはだからといって彼らが一旦誤謬を犯した問題を避けて通るべきだ、ということを意味しない。重要なのは誤謬を真摯に反省しつつ、「未来」に対して責任を果たしていくことである。

そして、そのことは「過去」においてではなく、「今」朝日新聞が自らの慰安婦問題に関わる報道を「どう取り組むか」とも密接に関わっている。

同紙の過去の報道は、単に誤謬を広めた「害」しかなかったのか、それとも従軍慰安婦問題という日韓両国のみならず国際社会においても重要な女性の人権に関わる積極的な問題提起を行うことで、日韓関係や女性の人権問題に関わる何らかの貢献を行ってきたのか。そもそも一連の記事の背後には当時の朝日新聞の記者たちのどのような考え - それがどの程度明確に意識されていたのかも含めて - があり、今後は同じ問題についてどのように取り組んでいくべきなのか。朝日新聞が「検証」し、また、答えなければならないのは、本来なら、これらの点についてであったはずである。そして、この点に対する「検証」なくしては、同紙の現場の記者たちも取材の方向性を見失い、同紙は漂流することを余儀なくされることになるだろう。

日本を代表するリベラルメディアとしての朝日新聞が、「今」の段階で、自らの「過去」の報道を如何にして理解し、また「未来」へ向けての自らの報道を立て直していくのか。それは単に同紙にとって重要のみならず、日本における健全な言論空間を維持するためにも重要である、と信じている。「優等生の不器用な言い訳」の殻を破り、朝日新聞は今後、どのような記事を書き、日韓関係、ひいてはこの社会で如何なる役割を果たしていくのか。その点を注視しつつ、本稿の筆を置くことにしよう。

(敬称略)

【追記 2014/8/28 11:10】
著者より修正がありました。

他方でそれ自身が如何なる「過誤」をも含んでいない
→他方でこの記事の本文が「過誤」を含んでいない

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2014/08/15 ソウル日本大使館前
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