孤立へ向かう子どもたち。本当の自立は、誰かとともに生きていくこと

誰かとともに生きていくことは、決して身近な家族や友人だけではありません。

11月、子どもの貧困や奨学金について話し合う行事で、生活保護やひとり親家庭で生活する3人の高校生と出会うことができました。

「おばあちゃんと一緒に暮らしていて学校のお金など迷惑をかけてしまっているのでは」

「借金を抱えてでも高校に進学できて、進学の夢を考えることができて、私は幸せです」

「困ってることや『助けて』が言いづらいのは、言っても何も解決されないと思うから」

彼らは、参加者へ率直な想いの声を伝えてくれました。一人の高校生が、不思議なぐらい現実を受け入れている様子で淡々と話す一方、育ってきた過去を話し出すと言葉に詰まり涙する姿に胸が痛みました。

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前回は、ひとり親家庭で育った内山田のぞみさんのインタビュー「いつもがんばっているあなたへ。困っている気持ちを受け止めて」を寄稿しました。「困っていれば困っている、辛かったら辛いって思っていい」。彼女は学生時代に、ちょっと貧乏でも、すごく貧乏でも、子どもが困っていることを先ずは受け止めて寄り添ってほしいと社会に伝えてくれました。

みんながひとりぼっちで生きていく社会

しかし、講演会などで子どもの貧困についてお話させていただくと、必ずと言っていいほど「それは贅沢じゃないのか」というご意見もいただきます。先日も、支援者の人から食料支援につなげようとしたら甘えになるからと地域の人に反対されたお話をうかがいました。

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私たちは、今までにない自由な時代を生きることができています。ライフスタイルも多様化し、自分の人生を自分で決められる社会です。

一方で、私たちは自由である代わりに、自助努力や個人へ向けられる責任は重たくのしかかっています。だからこそ、大きな災害が起こらない限り、公助や共助などを必要とすることは贅沢や甘えとして受け取られがちです。

厚生労働省の国民基礎調査によると、児童のいる世帯の平均所得は約700万円で、6割を超える世帯が生活に「苦しい」と感じています。そのように、例えば正規の仕事で且つ両親共働きでも何とか暮らしていくことのできる家庭が少なくない社会情勢で、ひとり親家庭で非正規の仕事をいくつもかけもちしながら無理を重ねて身体を壊すまで働き続けている人がいます。

その道は、自分で選んだのか、そうせざるを得なかったのか。どちらかに関係なく、自分の命と生活は自分で守ることが「自由のルール」として根深く存在しています。

そのような中で子どもたちは、本来、全員にひとしくあるべき経験までも我慢や諦めを強いられ、困っていることや助けてと言えない。自立に向かっているというより、孤立に向かっているようにしか私は感じ取ることができません。

しかも、それは、きっと経済的に苦しい環境の子どもや子どもだけではありません。みんながひとりぼっちで生きていく社会。私たちは、今までにない「自由」な時代を生きていかなければいけないのかもしれません。

「助けられてあたりまえの存在」から「自立を強いられる存在」に

1998年に厚生労働省が発行した児童養護施設などで暮らす子どもを支えるための「児童自立支援ハンドブック」では、支援のあり方について以下のような記述があります。

「一人ひとりの児童が個性豊かでたくましく、思いやりのある人間として成長し、健全な社会人として自立した社会生活を営んでいけるよう、自主性や生活技術、就労習慣と社会規範を身につけ、総合的な生活力を主体的に営んでいくことであって孤立ではないから、必要な場合に他者や社会に助言、援助を求めることを排除することではない。

むしろ、そうした適切な依存は社会的自立の前提となるものである。そのためにも、発達期における十分な依存体験によって人間への基本的信頼感を育むことが、児童の自立を支援する上で基本的に重要であることを忘れてはいけない。」

しかし、実際にはそのような考えまでいたらずに子どもたちへ自立を押しつける現状があります。

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私の弟が児童養護施設で育ったことから、社会的養護を経験して家庭復帰できなかった人たちの語りを聴かせていただくことが学生時代にありました。そのときに感じたことは、施設で育った子どもたちは措置を通して「助けられてあたりまえの存在」から「自立を強いられる存在」になってしまうことです。

これは、施設で暮らす子どもだけではなく経済的に苦しい環境で育つ子どもたちにも同じことが言えるかもしれません。子どもの貧困に関する記事で「頑張らない、頑張れないではなく、頑張るしかないんだ」というコメントがありました。本来は十分な甘えや依存関係を経験しながら成長する子どもが、貧困によって「自立」を強いられる。

方針で厳しく育てる家庭もありますが、気をつけなければいけないのは、その道しか選択肢や可能性がなくなっているということです。

本当の自立は、誰かとともに生きていくこと

今を生きる多くの人は、家族や学校、地域など色んな「しがらみ」から自由になりました。一方で、必要な「つながり」までも失いつつあります。果たして、本当に私たちは自由になれているのでしょうか。

子どもに限らず、人間は常に依存関係(つながり)を持ちながら日々の生活を送っています。そういった意味で、本当の自由は誰かと一緒になし得るもので、本当の自立は、誰かとともに生きていくことではないのでしょうか。そこには互酬性(お互いさまの関係)も必要ですが、「情けは人のためならず」ということわざがあるように、人への想いは巡り巡って自分に返ってくる互酬性もあります。

私も母親を亡くしてから独りで生きていかなければいけないと、ずっと思ってきました。大学を卒業する直前、ある人から「まぁくんが助けてと言えないことを、私は知っている」と言われ、孤立しそうな中で弱みを見せて頼ることができました。その弱みを見せて人を頼る経験が、孤立から自立への道を開いてくれた気がしています。

「綺麗事」ですが、人間は人と人との間で成り立つ存在です。そして、誰かとともに生きていくことは、決して身近な家族や友人だけではありません。改めて「私の知らない誰かも一緒に生きている」という原点に立ち返り、私たちの社会にそびえ立つ「ひとりぼっち」がなくなることを切に願っています。

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