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「難民受け入れ」に第三の道

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9月19日・20日にニューヨークで開催される予定の難民・移民関連のハイレベル会議を前に、9月17日(土)には世界各地で「難民受け入れを訴えるデモ」が開催される予定です。「難民受け入れを訴える」とは具体的にどういうことなのでしょう?

前回のブログでは「移民」と「難民」の定義の違いについて解説しました。今回は「難民の受け入れ方」について、伝統的な二つの方法と、最近特に欧米諸国での導入が増えている「第三の道」について紹介したいと思います。

難民の受け入れ方法、その1「待ち受け方法」


難民の代表的な受け入れ方法の一つが「待ち受け方法」です。母国で「迫害のおそれ」がある人が何とか自力で母国を脱出し、別の国(例えば日本)に辿り着いた後、その国の政府に対して「難民認定して下さい」と申請するルートです。国際法上は自国を出た瞬間に「難民」ですが、便宜上、政府や国際機関に難民認定される前の人のことを「庇護申請者」、正式に難民認定された後の人のことを「難民」と呼んでいます。

前回のブログにも書いた通り、この難民認定は通常「1951年の難民の地位に関する条約」に書いてある定義に従って行われます。世界中のどの国(当然日本)も、自力で辿り着いた「難民」を迫害のおそれがある国に追い返してはいけない、という国際法上の義務があります。

テレビや新聞報道などでよく見る地中海等の「ボートピープル」は、基本的にこのルートで自力で母国を脱出して他国で庇護申請しようとしている人たち、と理解してほぼ間違いないでしょう。本来はあのような危ない航海をしないで他国に入国できれば良いのですが、難民がやってきそうな国出身の人達に対してほとんどの国がビザの事前取得を義務付けているので、密航しないと庇護申請できないというジレンマがあります。

先日、リオ五輪マラソンで銀メダルをとったエチオピアのオロモ族出身の選手が、エチオピアに帰らずブラジルで庇護申請したというニュースがありました。特定の民族に対する迫害と、そのことを世界的に訴えたという政治的な意見に基づく迫害のおそれが主訴であると言えます。五輪参加のあたかも「ついで」かのように庇護申請したのは、そういう時でないとなかなかビザを取得できないからです。

ちなみに「亡命」という言葉を日本語の報道でよく見かけますが、国際的には最近はほとんど使われなくなっています。「亡命」という言葉は、母国における迫害のおそれ以外の事情で他の国に移住する特異なケースで使う方が、今日的な国際的用語使いとより平仄がとれるでしょう。

世界的に見ると、このルートで難民認定されるのを待っている「庇護申請者」の数は2015年末時点で320万人。そのうち200万人が2015年に新たに庇護申請し、うち44万人はドイツにおける新規庇護申請者の数です。

日本における庇護申請者の数は、2014年は5000人、昨年2015年は7586人。そのうち日本政府によって正式に「難民認定」された人の数は、2014年が11人、2015年が27人。ここでよく議論されるのが、ある年に難民認定された人の数をその年の庇護申請者の数で割った「難民認定率」で、日本の場合その比率が低すぎるという指摘があります。

ただ、そもそも難民認定に1年以上かかるケースも珍しくないので、単純な割り算では分母と分子の対象者にズレが生じてしまい正確ではありません。

もっと言うとこの難民認定率、実は0%でも100%でも少なくとも理論上は問題ありません。なぜならこの「待ち受け方法」では、どんな庇護申請者がどの国からいつ何人くるのか、そのうち何人くらいが本当に母国において「迫害のおそれ」がある人なのか、待ち受ける国(例えば日本政府)はコントロールできないからです。

なので、「庇護申請者の数」や「難民認定率」を単純に他国と比較しても、「でも来ている人が違いますから・・・」と言われればそこで議論が終わってしまいます。

本格的に「おかしいでしょ」と指摘するのであれば、例えば母国において姉妹で同じような女子教育推進活動をしていてそれが理由で暴行を受けそうになり、警察に保護を求めても全く助けてくれないから外国に逃れて庇護申請したのに、姉がA国で難民認定されて、妹がB国で難民認定されないようなことがあった時、初めて「それは変じゃないですか?」と指摘できるわけです。

難民の受け入れ方法、その2「迎えに行って連れて来る方法」


二つ目は、既に他国で難民状態になっている人をわざわざ迎えに行って自国に連れて来る方法で、公式には「難民の第三国定住」と呼ばれています。母国が第1国で、既に庇護を求めて(または一時的に与えられて)いる国が第2国で、その難民を連れて来ようとしている国が第3国にあたります。

この方法が上の「待ち受け方法」と大きく違う点は主に二つあります。一つ目の違いは、第3国の政府がどこの国にいるどの難民を何人いつ受け入れるか、ほぼ完全に計画・管理できるところです。例えば、日本政府も綿密な予算措置と計画の下、2010年にこの方法でタイやマレーシアにいるミャンマー難民の受け入れを始め、過去6年間で105人のミャンマー難民を日本に連れてきました。

もう一つ目の違いは、第一の「待ち受け方法」の場合、いったん自国に辿り着いた難民は追い返していけないという法的義務がありますが、この第二の「連れて来るルート」で難民を受け入れる法的な義務はどの国にもない、ということです。

現時点で日本を含め33カ国がこの「連れて来るルート」で難民の受け入れを行っています。毎年の世界全体の受入数は10万人前後で、その7・8割はアメリカに「第三国定住」しています。このルートでの受け入れが必要な難民は、UNHCRによれば世界で100万人強いると言われ、実際の受け入れ規模がニーズに全く追いついていないので、第一のルートで危険な航海を試みる難民が絶えないという指摘があります。

そこで、9月20日にニューヨークで開催される「オバマ・サミット」では、この「連れて来るルート」での保護が必要とされている難民について、どの第2国から何人を受け入れるのか、各国政府が表明する場として注目されています。ちなみに、会議のホスト国であるアメリカはつい先日、過去1年間で既に1万人のシリア難民の「連れて来るルート」での受け入れを達成したそうです。

難民の受け入れ方法、その3「民間スポンサーになる方法」


一般的には、上で書いた「待ち受けルート」と「連れて来るルート」が今までの難民の主流な受け入れ方で、両方とも政府主導で様々な決定や支援策が実施されています。その一方、特にここ数年注目され始めより広く導入され始めているのが、「民間スポンサー(Private Sponsorship Scheme)」方式です。

一言で「民間スポンサー」といっても色々な形態があり、就職先や慈善団体がスポンサーになる場合や、親戚や友人・知人など何らかの「リンク」がある人が受け入れ先・連絡先・身元保証人になる場合など様々です。今までも「核家族(両親と、未婚で未成年の子)」については、第二の「連れて来るルート」で来た難民の家族として受け入れを許可していた国は多いのですが、それとは違って、遠い親戚や必ずしも血縁関係が無い人もスポンサーになれるのが、最近の新たな特徴と言えます。

この制度で受け入れられる難民に対する生活支援も、国・地方自治体・民間スポンサーの間で誰がどこまで負担するのか、千差万別です。国は法的な滞在許可だけを与え、生活支援の殆ど全てを民間スポンサーが面倒を見る方式から、民間スポンサーは「保証人」になればよく、生活支援の大半は実質的には公的援助によって賄われているものまで、かなりの濃淡があります。

規模については、例えばカナダでは、この民間スポンサー制度は既に1976年から始まっていて、今までに約25万人の難民がこの方式でカナダに移住しています。更に言うと、カナダでは政府と民間の「ハイブリッド受け入れ方式」も2014年から導入されました。

ドイツではシリア難民を対象に、16州のうち(バイエルンを除く)15の州において民間スポンサー制度が新たに設けられ、基本的に家族や親戚がスポンサーになれることになっています。各自治体主導ということで最新のデータ入手が難しいですが、2013年から数えて少なくとも1万人以上のシリア難民がこの民間スポンサー制度でドイツに受け入れられたと考えられます。

更に今年7月には、イギリスもこの民間スポンサー制度での難民受け入れを始めることを決定しました。

伝統的に難民保護は政府のお仕事と思われていましたが、政府や公的機関に訴えるばかりでなく、民間スポンサー制度は「草の根の人道主義」を地で行くものと言えるでしょう。「公的支援の民営化」については批判が無い訳ではありませんが、欧米の潮流では「民間スポンサー」は増加傾向にあるようです。

「日本も難民の受け入れをもっと増やさなくてはいけない」という意見を目にします。第一の方法で「難民の受け入れ」を増やすには、どういう庇護申請者が何人やってくるのかは受け入れ国のコントロール外にあるので、日本政府の難民認定基準を抜本的に改訂する必要があるでしょう。一方で、第二の「連れて来る方法」か第三の民間スポンサーについて議論する際には、より能動的かつ民主的な検討ができるようになります。

特に民間スポンサー制度で最終的な決定打になるのは、政府の施策でないのはもちろんのこと、既に日本にいる難民は非常に少ないので家族や親戚関係でもなく、難民と特段「リンク」の無い日本国民がどれだけ自腹を切って難民を隣人あるいは同居人として迎え入れる覚悟があるのか、ということになるでしょう。