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人権としての抗議の権利:対照的なアメリカと日本

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colin kaepernick

アメフトのシーズンが始まったアメリカですが、ある選手の行動が波紋を広げています。

近年は、日本も真似するようになっていますが、アメリカでは各試合の前に国歌斉唱が行われ、選手や観客は起立して帽子を取って厳かに静聴するという儀式が行われます。選手の中には一緒に歌詞を歌ったりと、愛国心を競う場面とさえなっている感があります。

その中で、サンフランシスコフォーティーナイナーズのクオータバックのキャパニック選手が起立を拒んでいます。父親が黒人のキャパニックは全国各地で頻発する、白人警官による罪のない黒人の射殺事件を指して、黒人が抑圧されている国家に誇りが持てない、人権が蹂躙される限り自分は起立しない、と抗議の意思を明確にしています。

キャパニックの抗議には非難も多く、「アメリカが気に入らないなら出ていけばいい」という論調も見られ、フォーティナイナーズの球場を管轄にしている警察署の組合がキャパニックの警護を拒否する姿勢を見せるほどの騒ぎとなっています。

しかしキャパニックの姿勢に同調する選手(黒人でも白人でも)も決して少なくなく、プロのみならず全国各地の高校などでも、抗議に参加する者が続出しています。

何よりも注目に値するのは、チームやアメフトのリーグ、そしてアメリカの政治的指導者の姿勢です。

チームやリーグの会長は、キャパニックには抗議する権利があり、国家斉唱の起立を強制することはできない、と明言しています。そしてこの件で質問を受けたオバマ大統領もやはり同じようにキャパニックの「抗議する権利」を擁護している。当然の事ですが、それらは必ずしもキャパニックの見解に同意しているのではありません。

その抗議の内容がいかなるものであっても、キャパニックの抗議する権利はアメリカ憲法によって保障されたものであり、それを阻むことは許されないのです。

「抗議する権利」とは日本語で耳慣れない言葉ですが、国際法では「表現の自由」の権利の一部と認識されています。表現の自由の保障は民主主義にとって極めて重要で、人権および民主主義の一つの根幹であると言われる所以です。そして、表現の自由が保障されるということは、同時に表現が強制されることがあってはならない、ということです。

国歌斉唱で起立し国家に忠誠を示すのは、れっきとした政治的表現です。それを拒むのは個人の権利であり、強制されるようなことがあってはなりません。上記のオバマ大統領の姿勢などから、一国の政治的指導者として、表現の自由、抗議の権利の大切さに関する深い理解がうかがわれます。

それに対して、日本の政治的指導者はどうか。

森元首相がリオオリンピックに出場する選手に対して、君が代を歌わない選手は日本を代表する資格がないと言わんばかりの発言をしたことは、記憶に新しい。その時選手が歌わなかったのは単に進行上のことだったようですが、問題はそれではありません。日本の元首相とあろうものの、人権に関する理解のなさが露呈されていると言わざるをえません。

また、市民の生活により近いところでも、キャパニックと同じように国歌斉唱での起立を拒んだ公立学校の教員が処分される例が後を絶ちません。起立の強制はおろか、本当に国歌を歌っていることを確認しようとし、口パクの教員を処分する自治体もあるようです。

思想警察が闊歩する全体主義同然と言われても仕方がありません。

他には、2013年に石破幹事長(当時)が平和的な抗議行動を「テロ」呼ばわりし、2014年に自民党のプロジェクトチームが国会周辺のデモをヘイトスピーチと同様に扱おうとするなど、抗議の権利に関する日本の政治的指導者の意識を疑う例は枚挙にいとまがないほどです。

今年の4月に日本を訪問した、国連人権理事会の表現の自由に関する特別報告者も、特に沖縄において、平和的な抗議行動が不当に規制されている数々の報告に懸念を表しました。

特別報告者とは人権理事会が任命する専門家で、その言葉には非常に重みがあります。

国歌斉唱で起立を拒否するのも表現の自由と擁護されるアメリカ。それに対して、抗議が認められず、起立をしない教員が処分される日本。表現の自由の重要性の認識が、改めて日本に求められています。