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土倉庄三郎没後100年/「林業は国の本」と唱えた山林王の事績

2017年07月08日 14時21分 JST | 更新 2017年07月10日 14時27分 JST

森林文化協会の発行する森と人の文化誌『グリーン・パワー』(月刊)は、森林を軸としながら自然や環境、生活、文化などの話題を幅広くお届けしています。

7月号の「NEWS」で取り上げたのは、吉野林業中興の祖とされ、9000町歩の山を所有した山林王であり、明治政府も無視できなかった伝説の林業家が土倉庄三郎(どぐら・しょうざぶろう)です。今年7月19日はその庄三郎の没後100年に当たります。

現代ではほとんど知る人もいなくなった山林王を追い続ける森林ジャーナリストの田中淳夫さんに、庄三郎の事績をたどってもらいました。

(写真はすべて田中淳夫さん提供)

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●洋装をした土倉庄三郎(左)と妻の寿子

吉野林業の中心地・奈良県の川上村。その中の大滝集落の裏山を調査する一団がいた。急な斜面の上になだらかな台地がある。ここに昔あった牧場の痕跡を探すためだ。

林業地に牧場とは奇異な気もするが、開設したのは土倉庄三郎。この林業家が酪農を行い、牛乳を飲む洋風生活を送っていたことは、あまり知られていない。

財産を国、教育、林業に

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●林業地の吉野にあった牧場跡の調査風景。土倉庄三郎が開設したもので、家の建っていた痕跡などが発見された

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●牧場跡の調査で見つかった井戸の跡。ここには牛乳を飲む洋風の生活があった

昨年は川上村で庄三郎の百回忌法要とシンポジウムが開かれたが、今年は土倉家ゆかりの事物を発掘しつつ、村民向け勉強会やツアーが行われる予定だ。牧場跡調査も、その一環である。

土倉家の菩提寺だった龍泉寺の古瀬順啓住職は、牛乳に関してこんな逸話を伝える。

「父が庄三郎を訪ねると、イチゴミルクが出されたそうです。当時としては大変な贅沢ですが、『一雨降れば、山の木々が育って何千円も財産が増えるんだから、これぐらいの贅沢は許してくれ』と弁解したと聞きました」

庄三郎は1840(天保11)年、大滝に生まれた。父の代から大山主だったが、若い時は山仕事に明け暮れたという。

しかし明治維新を迎え、外の世界に目を向けるようになる。それが庄三郎を覚醒させた。しかも同時期に木材需要が増加して材価も急騰したため、土倉家の財産は膨れ上がった。

庄三郎は有り余る財産を投じて、世の中を変えようとした。財産を三分割して、国家のため、教育のため、そして林業のために使いたいと語っている。彼の事績を振り返ってみよう。

自由民権運動のパトロン

庄三郎の足跡を追うと、当時の林業はどれほど巨富を生み出せたのかと感嘆する。例えば「吉野山のサクラを全部買い取った」話もある。

明治初期、吉野山にも廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、花見遊山の客も来なくなった。困窮した吉野山の住民は、サクラの木を伐って薪として売り、スギやヒノキに植え替える計画を立てた。

苗の調達の相談を受けた庄三郎は、自分がサクラを買い取るから大阪の商人から受け取った薪代を返すよう迫ったという。

やがて自由民権運動が興ると、日本立憲政党新聞の創刊資金の多くを負担する他、莫大な活動費を提供したことから「自由民権運動の台所は大和にあり」と言われるほどだった。また板垣退助の洋行費2万円も提供した。これは現在の4億円相当だと言われる。朝鮮独立の志士で日本に亡命した金玉均を匿ったこともある。

庄三郎の支援を乞うて、板垣の他、山県有朋、井上馨、伊藤博文、後藤象二郎......と明治の元勲と呼ばれる人々や政府の要人が、彼に会うため山を越えて大滝に通ったのである。

教育にも熱心だった。大滝に小学校を設立する際に多額の寄付をするとともに、生徒全員に横浜に発注した洋装の制服をプレゼントした。洋服は新しい社会の象徴だったのだろう。

地元に私塾を開き、多くの学校に寄付をした。とくに懇意だったのは同志社の新島襄である。息子や娘を預けるだけでなく、大学設立計画を応援して5000円を寄付した。また成瀬仁蔵の女子大学設立計画にも尽力した。NHKの連続テレビ小説「あさが来た」では広岡浅子をクローズアップしたが、浅子を成瀬に紹介したのは庄三郎であり、浅子とともに莫大な寄付をして政財界に広範な運動を展開したからこそ、日本女子大学校は開校できたのだ。

一方で次女・政子を、すべて自費でアメリカに7年間留学させた。また次男・龍次郎は、台湾で1万町歩の山を租借して林業と樟脳事業を展開した。発電事業にも手をつけている。庄三郎の還暦記念には、台湾先住民たちを日本に招き、大いにもてなしたそうである。

戦争よりも山に木を植えよ

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●川上村大滝にある土倉庄三郎を顕彰する磨崖碑。高さ30mを超える

国の林野政策に対しても多くの意見を発した。1899年には中邨彌六代議士(林学博士)と共著で『林政意見』を出版した。

そこで訴えたのは、当時頻発していた水害を防ぐため大規模な植林を進めることだった。全国の山が荒廃しているのに国の緑化事業は遅々として進まないことを批判したのだ。

その中では、山林と河川の施策を統一した山川省を置き縦割り行政を正せ、林業の専門知識を持つ官吏を養成しろ、さらに木材の輸入を抑え、輸出を目指せ......など現在に通じる施策を多く提案している。文章は激烈で、林政に危機感を抱いていたことが読み取れる。

主張するだけではない。全国を講演して回り、山に木を植えるように訴えた。そこで唱えたのが「年々戦勝論」である。

日清戦争では多くの国費を費やし、両国の兵士が多く死んだ。得たのはわずかな賠償金と領土だけだ。しかし山に木を植えることで得られる利益は、そんな戦勝より多い。しかも毎年得られる。弾丸も兵隊もいらない、行政官も武官も必要ない。山に木を植えることは日本の国を二つ取ったほどの価値がある......。

経済人らしい合理的な発想をもとに、林業による国づくりを唱えたのである。

一方で林業だけでは生活が不安定な山里の民に養蚕を勧めた。土倉家独力で村にクワを植え村民にカイコの飼育をさせたのだ。やがて奈良県が養蚕王国となる礎となるのである。

土倉家は、明治末に長男の事業が失敗して逼塞してしまう。持ち山のほとんどが売り払われたが、牧場は残ったようだ。太平洋戦争後、ここを開墾して復員兵や引揚者を受け入れることになった。この事業に関わったのは、庄三郎の五男・五郎である。

今回の調査には、当時ここに住んでいた藤田(鈴木)祥子さんも同行したが、家の跡や井戸などが確認できた。牛を7、8頭飼って牛乳や子牛を出荷していたという。

今は静かな山里に、「林業は国の本」と唱えた人物がいたことを改めて思い出したい。現代に通じる思想も甦るだろう。