1週間、実家で看護リモートワークをしてみた体験記 ~働き方改革に本当に必要なもの~

どんな立派な制度よりも大切なことではないだろうか。

父が突然入院、そして看護しながらリモートワーク

「おい、入院するぞ」

非常に個人的なことなのだけど、先日実家の父から電話があった。

実家の父は一人住まいで、いわゆる独居老人。少し離れた場所に実の妹はいるものの、同じく高齢。

「え? なんで? どうした?」と聞いてみても、状況がよくつかめず、何せ今すぐ入院するという。

仕事の予定はびっしりだったけど、メンバーにお願いをして、週末に有休をくっつけて急きょ帰省をした。

お正月以外で実家に帰省するのは久しぶりだったけど、当然、観光するわけでもなく病院に直行。担当医の先生ともお話をすることができ、今後の治療について大枠合意ができた。

そして、そこから予定表とのにらめっこがはじまった。翌週月曜に手術だから、その準備や説明で今週は水曜日から帰省をしておく必要がある。でも、この予定とこの予定ははずせない・・・。父親が病気だというのに、そんなことを考えてしまう自分のことをどうかと思いながらも、とにかく調整を急いだ。

水曜日から翌週の火曜日までが5営業日。しかし、そんなに休みをとると仕事がまわりそうにない。私の実家がある場所は、市街地からは離れていて、新幹線の駅からは車で30分、病院からは車で40分くらいの距離にある。毎日東京まで新幹線通勤をするのも簡単ではない。

「そうか、こういうときのためのリモートだったのか!」

社内システムやファイルサーバーがクラウド化されていて、オフィスの外からもアクセスできる。

フレックスタイム制なので、早めに仕事を始め、早めに切り上げるなど時間の融通がきく。

実家のインターネット環境が悪くても、ポケットWifiが支給されている。

個人に貸与されているのは当然ノートPCだ。

この制度のおかげで、看護をしながら実家でリモートワークをすることができた。

朝起きて、メール等をチェックしてから、病院に向かう。

昼過ぎに病院から戻る途中に買い物をして家に戻る。

そこから本格的に仕事を開始する。

社内会議にはスカイプで参加。

お客様とのやり取りも、メールと電話で乗り越えることができた。

余裕があるときは、社内会議をスターバックスのテラスからやってみたりもした。

約1週間の看護リモートだったけど、地方暮らしの楽しさも不便さも知ることができ、どこでも仕事ができることも実感した。

14年前に出産をして、育児をしながら働き続けてきた。そうこうしているうちに、あっという間に看護をしながら働くという年齢がやってきた。自分がそういう年代になったことを実感するとともに、あらためて恵まれた職場環境にあることに感謝の気持ちが湧いてきた。

もし私が他の会社に勤めていたらどうだったんだろう。

看護のために、1週間休まざるを得なかったのだろうか。

私は、1週間と週末で乗り越えられたけど、もっと長期戦の時は、どうするんだろう。

そんなことを、考えさせられた。

働き方改革のために、制度よりも必要なもの

社会が直面している超高齢化社会というものを、頭では理解はしているつもりだった。しかし、本当の意味では分かっていなかったのだと思うし、おそらく今も部分的な理解だ。親の看護という現実に直面して、あらためて仕事と看護・介護の問題について考え、気付いたのは「結局は当事者になってみないとわからない」ということだ。いつか自分が直面するということをわかっていながらも、どこか他人事だった。

「働き方改革」という言葉が、バズワードとなって、飛び交っている。残業せずに定時で帰ろう、有休を取ろう、そのために仕事を効率化しよう、という風潮。それに、テレワークだ! イクメンだ! さらに、効率化の手法論や、近似しているけどちょっと違うジャンルの言葉がひっついている。働き方を変える必要に迫られていない人が集まって会議室で議論しても、頭でっかちな「べき論」になったり、他人事になったりするのも、仕方がないのだろう。

一方、社会においては「子育ては、母親がすべてやらなければいけない」、「介護は娘が、嫁が、やらねばならない」という風潮がいまだにゼロではない。子育てをしながら働きはじめた頃の私は、今でいうワンオペ育児という状態だったが、周囲を見渡しても当時は同じような状況の人が多かったし、それに疑問を持つこともなかった。しかし、今回の状況は、過去のそれとは違っていた。私のように一人っ子で、高齢の親が離れたところに一人で住んでいて、となると、頼る相手もなく、「自分で仕事の都合をつけて対応する」という選択をとらざるを得ない。

父親が入院したとき、親戚からは「がんばらなくていいからね」という温かいメッセージをたくさんもらったが、そこには「一人娘が全部やって当然」という語られない前提が見え隠れするような気がした。親の面倒を見たくないというわけではないが、「自分がやらなければならない」という前提を感じ取ると、つい一人で背負い込んでしまう。ワンオペ育児の背景にも同じようなものがあるのではないだろうか。

私は子供がいない時期も働いていたし、看護・介護に対する実感もなかった。育児や介護のことを具体的に想像できない周囲の人たちの現実も、働き方に制約のあるメンバーを支える人たちの感情もわかる。だからこそ、働き方に制約がある人が訴えたいことにも、そうでない人が訴えたいことにも、それぞれの主張に対して度々ネットで沸き起こる炎上にも、違和感を持っている。当事者にならなければ、本当の大変さは理解できない。あるべき論を振りかざして「いつかあなたにも訪れるのだから、今のうちから協力しあおう」なんて言われてもピンとこないのだ。

でも私たちは一人ではなくチームや組織で働いている。もし目の前に大変な思いをしている仲間がいるのなら、どういう状況なのか聞いてみればいい。本当に理解はできなくても、相手を知ることはできるはずだ。相手を知れば、明日の行動が変わるかもしれない。

チームで仕事をするとき、最大の力を発揮しようと思えば、それぞれのメンバーの担当している仕事、それぞれの強みや弱み、価値観やその背景などを知ろうとするだろう。子育てや介護も、たまたまメンバーが、今そういう状況なだけであり、その人の根本が変わるわけでも、チームの根本が変わるわけでもないのだ。

実家でリモートワークをしてみて「環境に恵まれている」と感じたのは、ざっくばらんにお互いのことを話し合える仲間の存在が大きかった。それほど混乱なく周囲のメンバーと連携して仕事を進めることができた背景には、職場で日頃からお互いの仕事の状況や、家族の状況を話していたということがある。

そして、ソフィアでリモートワークができる機器や制度が整えられたのは、メンバーがお互いの価値観や家庭の状況について相互に話し合い、それぞれが働きやすい環境作りを自分たちなりに模索してきた結果だ。さらに「離れていてもちゃんとやっている」というメンバーどうしの信頼関係がベースにある。

たとえ設備や制度が整っていても、それらを安心して使える関係性ができていなければ活用されないだろう。一緒に働く仲間のことを知ろうとすること。これが、働き方改革を実現する上で、どんな立派な制度よりも大切なことではないだろうか。(S)

(2017年8月31日「Sofia ブログ」より転載)

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