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社会契約と商取引を突き詰めた「自立」では、幸福になれない

2016年12月05日 15時27分 JST | 更新 2016年12月05日 15時27分 JST

「他人への依存」を否定すると、自立できない | サイボウズ式

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001204.html

自立は万人に必要? 昔ながらの「腐れ縁」や「しがらみ」も大事では? | サイボウズ式

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001212.html

先月と今月、サイボウズ式さんに「自立」をテーマにした2つの記事を載せていただいた。

 

前半は「望ましい自立」について書いたけれども、後半を書いているうちに、その「自立」という枠組み、自立を当然とみなしている私達って一体なんなんだという気持ちが膨らんできて、“しがらみ”や“腐れ縁”もあったほうがいいんじゃないか、という気持ちをそのまま書くことにした。

 

この期間に改めて気づいたのは、“私は「自立」ってやつをあんまり信じていない”ということだった。

 

いや、ある程度は「自立」を信じている頼りにもしているのだ。世間からみて「自立した個人」とうつるような振る舞いを身に付けてもいる。現代社会、とりわけホワイトカラーな世界では「自立した個人」とみなされる振る舞いをしたが得をする場面が多い、ということも重々承知している。

 

でも、たとえば、東京でそれなりの収入を稼いで生きている人達の大半に比べると、私の「自立」に対する“忠誠心”は足りていないと思う。

都会のコミュニケーションは契約的・商取引的だと感じた

私は「自立」がまだまだ浸透していない、大都市圏やニュータウンよりも“しがらみ”や“腐れ縁”のずっと強い地域(と時代)に育った。

 

私は「自立」について専ら教育によって教わった。しかし、私が生まれ育った土地の人々には、その「自立」とは相いれない、“しがらみ”や“腐れ縁”によって事が進んでいく部分がたくさんあって、良くも悪くも人々の言動と幸不幸を左右していた。教師が教えるとおりの「自立」をストレートに実行すれば、「出る杭は打たれる」かもしれない、“しがらみ”と“腐れ縁”に満ちた世間。でも、そのような世間を子ども時代の私は悪いものだと思っていなかった。

 

たとえそれが、思春期になって私自身が打ち据えられる一因になったとしても。

 

成人した後、私は生まれ育った地域の人々と比べて「自立」寄りのライフスタイルを実現している人々に出会った。“腐れ縁”や“しがらみ”の密度が薄く、人間関係もキャリアアップも社会契約の秩序にのっとってサクサクと剪定していく人々が、私には「自立」しているようにみえた。

 

絵に描いたような「自立」。

他人に頼り過ぎない「自立」。

「自立」がここまで徹底している人間を、子ども時代は知らなかった。

 

ただし、そういう人々が「自立」しているからといって、幸せとは限らないようにもみえた。ドライで、ギブアンドテイクで、ほどほどの距離感で、目的や用途に忠実な都会の付き合いは、どれほど温情を繕っても利害と損得の方程式に忠実っぽくにみえた。それでも幸福な人間関係は求めているらしい。だとしたら、その幸福のかたち、幸福の方程式とはどういうものなのか?

 

「自立」と、それと表裏一体な利害と損得の人間方程式は、都会の人間関係やコミュニケーションの背景にある一種の枠組みみたいなもので、それ自体が幸不幸を左右わけではない。「自立」を目指してすこぶる幸せそうな人もいるし、「自立」を目指しながら不幸の泥濘をのたうっている人もいる。

 

ただ、この「自立」という枠組みのなかで幸福追求をしなければならないのが現代の――なにより都会の、そしてグローバルの――ルールであり幸福の方程式なのだなと、私は推定することにした。それとて私自身の心象の一部が東京という街に投影されただけなのかもしれないが、だとしても、そのような投影が最も頻繁に起こる街は東京だったことを思えば、やはり地域や時代の違いはあるように思えた。

 

それから長いこと経って、一冊の本に書かれていることが私の体験によく似ていると気付いた。

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫) | テンニエス, 杉之原 寿一

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈下〉 (岩波文庫) | テンニエス, 杉之原 寿一

『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』風に表現すると、私が生まれ育った地域の人々はゲマインシャフト的で、都会、とりわけ東京の人々はゲゼルシャフト的だった。もちろん、私が育った環境でも契約社会的な要素はそれなり含まれていたけれども、度合いとして、東京のそれには及ばない。地元でとれた海産物や農産物の交換、和菓子の贈答、自民党の議員集会、そういった諸々に、“しがらみ”や“腐れ縁”の匂いが立ち込めていて、契約社会や貨幣経済のロジックとは異なる方程式に沿って人々が動いていた。

社会契約的なマインド

で、仕事や人間関係が契約社会的で「自立」を重んじている彼らのマインドもまた、社会契約に則っていると思った。

 

――ギブアンドテイクが成立し、与えることと受け取ることの収支のとれた、(経済的か心理的か文化的かはさておいて)なんらかの商取引が成立したコミュニケーションを志向する。のみならず、そうした収支は短いスパンで決算される。もし一方的に与えたり受け取ったりしているなら、“しがらみ”や“腐れ縁”として正当化することは許さず、関係は解消されなければならない――

 

だから「自立」を重んじる人間が寄り集まった都会では、経済面だけでなく、心理面においても、契約社会的で、もっと言うと商取引的なロジックに忠実なかたちで人間関係を営むことが良しとされているようにみえて、それが都会というフィールド全体を覆っている。だから、こうした社会契約的で商取引的なマインドは単なる個人の精神病理ではなく、フィールド全体に共通した社会病理として立ち上がってきているように、田舎者の私にはみえる*1。そしてそれは、文化人類学や進化生物学の書籍に書かれているような、過去のホモ・サピエンスのマインドの典型とは大きく異なっている。

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

だから私には、都会というフィールドでは当たり前になっている、この「自立」を重んじたマインドが、あまりにも社会契約や商取引のロジックをなぞらえ過ぎている、と思えてしまう。いや、社会契約や商取引が社会の隅々にまで浸透していくうちに、精神までもがそれらの影響下に置かれるようになり、それ以前に支配的だった、たとえば“しがらみ”や“腐れ縁”などと親和的だった精神から置き換わっているようにも思えてしまう。

 

もちろん、社会契約や商取引に則った人間関係やライフスタイルにもメリットはある。非常に人間関係がすっきりするし、用途や目的別に人間関係を切り分けて経済的・心理的・文化的な利益をあげていこうと思う人にとって、ゲゼルシャフト的なマインドは“利に適っている”。

 

だが、こういうマインドを突き詰めて内面化すると、人間とは結局、その内面も含めて、個人という法的単位・経済的単位以上でも以下でもなくなってしまう。社会契約と商取引のロジックを深く内面した人々の幸福観は、「百万長者が幸せで、貧乏人は不幸せ」という価値観に、ほんの少し心理学的なアレンジメントを加えたものとなる――「ギブアンドテイクな経済的・心理的状況のなかで、儲けの多い人間になりましょう!」

 

これは、「カネと承認欲求を集めるのが幸せな人間(=カネも承認欲求も集められない人間は不幸せ)」という、2010年代のインターネットに氾濫しているテンプレートとも矛盾しない。そして、このテンプレートにあまり抵抗感や違和感を持っていない人というのは、今日日はそれなりいるのだろう。少なくとも、契約社会と商取引への信奉の篤い人々においては。

“しがらみ”や“腐れ縁”がアンカーになってくれる

でも、私は田舎者だから、そして「自立」というやつが少し苦手だから、そういう社会契約と商取引を突き詰めたような生き方についていけない。

 

家族をはじめ、どこかに“しがらみ”や“腐れ縁”に相当するような人間関係、つまり、社会契約や商取引の感覚で取り扱えない人間関係がなければ幸せになれそうもないし、自分自身のアイデンティティも維持できないのではないかと思う。

 

ここまで散々書いてきたが、なんやかや言って私は現代社会のこの方程式にある程度は従っているし、そこから恩恵も受けている。でも、それだけでは私はきっと、どこまでも社会を彷徨い続ける一枚の千円札のように、落ち着くところもなく、自分が何者であるかも定まらず、「私とは何か」という問いに悩み続けるだろう。

だがありがたいことに、“しがらみ”や“腐れ縁”は、そんな私の心にアンカーを打ち込んでくれる。“しがらみ”や“腐れ縁”は、私という人間のアイデンティティを形づくり、心が漂流してしまうのも防いでくれる。逃れ難いものだからこそ、選ぶ必要も、取捨しなければならない義務も負わなくて良いし、安定している部分があるからこそ、腰を落ち着けて他の物事に取り組むこともできる。

 

ただし、こういうアンカーは一本では危ないのだろう。二本、いや、できれば三本欲しい。

 

ストイックに「自立」を重んじる家庭でない限り、家族は強力なアンカー足り得る。法的にも生物学的にも、これほどの“しがらみ”や“腐れ縁”は存在しない。

 

けれども、家族以外に対しては「自立」を徹底し、ほどほどのギブアンドテイクな社会契約的な関係をつくっている人は、家族が唯一無二の“しがらみ”や“腐れ縁”になってしまう。こうなると、家族というインナーワールドは相対化されることなく絶対化されてしまい、“しがらみ”や“腐れ縁”のしんどい側面が首をもたげやすくなってしまう。

  

だから、ちょっと捻じれたことを言っているかもしれないが、“しがらみ”や“腐れ縁”は一本だけでなく、二つか三つぐらいあったほうが安定するのだろうと思っている。一本のロープに負荷が集中するより二本か三本のロープに負荷が分散していたほうが安定するのと同じだ。

 

まあ、こうやって“しがらみ”や“腐れ縁”の負荷分散とか相対化を考える思考方法自体は、ほどほどの付き合いを良いものとし、過剰な依存を厭う「自立」した個人のソレに基づいているわけで、私は“しがらみ”や“腐れ縁”も深くは信奉していないのだろう。

 

たぶん私は、社会契約と商取引を突き詰めたような生き方も、“しがらみ”と“腐れ縁”に全てを委ねる生き方もしたくない。だったら両方のイイトコドリをしていくのが良いわけで、新旧のマインドの中間あたりを狙って、綱渡りのように生きていこうかなと思う。たぶん、私の求める幸福も、その綱渡りの先にあるのだろう。

 

*1:細かい話だが断っておくと、社会病理と呼ばれるものは個人の精神病理のなかでは意識の表層に近く、非-生物学的に規定されている後天的な要素なので、個人の精神病理のなかでも生物学的に規定されている先天的な要素に比べれば修正を被る余地は大きい。ある個人において心理的で重篤な問題が立ち上がってくる時には、表層的な社会病理に着目したほうがセンセーショナルではあっても、たいていの場合、もっと深層的な個人精神病理のほうが、その重篤な問題に占めるウエイトは大きい。ただし、そのような重篤な問題が立ち上がってくる形式やコンテキストには表層的な社会病理が関わってくることも多く、修飾は受けるので、例えば世を騒がせるような大犯罪などがあった場合には、どちらのアプローチも捨てがたいと思う