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被爆者、想いを語る ~核軍縮を国連の最優先目標とする総会の初決議、採択から70年~

2016年02月10日 00時04分 JST | 更新 2017年02月08日 19時12分 JST

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2015年12月18日、長崎の被爆者でメキシコ在住の山下泰昭さんはニューヨークで国連のツアー・ガイドとインターンを前に、70年前に体験した恐怖を語った©UN/Jihye Shin

2016年1月22日 - 核兵器は地球上で最も危険な武器です。1発の核爆弾が、1つの都市全体を破壊して数百万人の命を奪い、自然環境を危険にさらすだけでなく、その長期にわたる壊滅的な影響を通じ、将来の世代をも脅かす可能性を秘めているからです。70年前の1946年1月24日、国連総会が初めて採択した決議は、核兵器その他の「大量破壊に応用できる...」兵器を全廃するという目標を立てました。

メキシコに暮らす76歳の山下泰昭さんは、1945年の広島と長崎への原爆投下を経験しながら、今も生き残る数少ない被爆者の1人です。この恐ろしい出来事が起きてから、山下さんをはじめ、多くの人々が一生を平和のために捧げ、核軍縮に取り組み続けています。

しかし、多くの人々が見逃しがちなのは、原爆投下時には広島にも長崎にもいなかったと主張する被爆者が多かったという事実です。「秘密にしておかねばならなかったのです...。被爆者であることがわかれば、奇形児が生まれるのではないかという理由で、結婚できなくなるからです」山下さんはこう説明します。

山下さんは UN News Centre とのインタビューに応じ、6歳の時に経験した原爆投下という試練について克明に語り、こう説明しました。「私たち被爆者にとって、自分たちの経験を語ることはとても大切です。他の人たちに同じような目に遭ってほしくはないからです」

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70年経っても、私たちの苦難は続いています。人々が原爆の後遺症で苦しみ、命を失っているのです

山下さんは、原爆投下の瞬間の出来事を次のように語りました。「私は一人で家の前で遊んでいました。近くでは母が昼食の支度をしていました。いつもなら、友だちと山へセミやトンボを獲りに行っていました。当時はおもちゃが何もなかったので、そんな風に遊んでいたのです」

「通りかかった近所の人から、飛行機が上空を飛んでいるから、注意するように言われました。しかし母は、いつも通り何もないから大丈夫だと言っていました。長崎は何度か爆撃を受けていたので、上空を飛行機が飛ぶのは珍しくなかったからです」

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1945年8月9日正午ごろ、爆心地の南約3キロメートルから撮影した長崎を覆う原子雲

©UN Photo/Nagasaki International Cultural Hall


「その時、姉が母のところに走ってきて、ラジオで飛行機が上空を飛んでいるから、注意するように言っていたというのです。母はすぐに私を呼んで、穴蔵に入るように言いました。当時、日本の家にはほとんど、床下に小さな穴が掘ってありました。地域の防空壕まで行く時間がない時には、そこに避難するのです」

「母が私の手を取って家に入ったその時、ものすごい閃光が走りました。まるで1,000個の稲妻が同時に走ったような感じでした」山下さんはこう振り返ります。

「強烈な光でした。母は私を床に引き倒して、自分の体で私を覆いました。すると、恐ろしい爆発音がして、いろいろな物が頭上を飛び交う音が聞こえました。あたりが突然、静まり返ったので、立ち上がってみると、窓や扉や屋根がすっかりなくなっていました。何もかもが破壊されていたので、私たちは穴蔵まで這って行きました」


「姉は泣いていました。怪我をしていたのです。母がどうしたのか聞くと、姉は油が頭から流れ落ちているような感じがすると答えました。米国が投下すると言われていた化学兵器のことを指していたのです。当時は化学兵器が何かを誰も知らなかったので、一種の油のようなものだろうと考えられていたのです」

「姉は油のようなものが頭から流れ落ちていると思っていたようですが、穴蔵は真っ暗で、何も見えませんでした。10分から15分ほどすると、母は私たちを地域の防空壕に連れていくことにしました。明るいところに出ると、姉の頭は小さなガラスの破片に覆われ、血が出ていました。母が丁寧にガラスの破片を抜き、血を拭き取ると、私たちは防空壕に向かいました」

防空壕に着いて30分ほどすると、山で遊んでいた山下さんの友だちが戻ってきました。1人は背中にひどい火傷を負っており、そこにはやがてウジ虫が湧いてきました。友達は2日後に亡くなりました。山下さんは、その日たまたま一緒に遊びに行かなかったことで、命拾いをした可能性があるとしています。

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1945年8月10日、廃墟と化した長崎の爆心地から700メートルの地点で煙を上げる瓦礫

©UN Photo/Yosuke Yamahata


山下さんはさらに、その後のことを語ります。「食料がありませんでした。空腹を抱えていましたが、 周りに食べる物が何もなかったのです。母は私たちを疎開させることにしました。田舎なら食べ物があるかもしれないと思ったのです。私たちは原爆投下の約1週間後、歩いて爆心地を通りました。それはまさに地獄絵でした。すべてが焼き尽くされ、荒れ果てていました。田舎にも食べ物がなかったので、私たちは再び、爆心地を通って家に帰りました。歩いて3時間くらいかかりました。交通手段が何もなかったのです」

山下さんは28歳の時、メキシコシティにある「日本プレス・オフィス」のマネージャーとして、1968年のオリンピックを取材する機会に恵まれました。そしてこの時、サン・ミゲル・デ・アジェンデに残ることを決め、現在も住み続けています。1995年から平和活動を続けている山下さんは、今も自分の体験談を発信し続けなければならないと感じている理由を、次のように説明しました。

「それまで、私は自分が被ばく者であることを隠していました。しかし1995年、フランスが太平洋で核実験を行っているというニュースが広がりました。すると、友だちの大学生の息子が電話をかけてきて、被爆者として1945年の体験談を話すことは重要だと言ってきたのです。私は大学で話をしてくれるよう頼まれましたが、断りました。自分の体験を話すことは、私にとって辛すぎたからです」

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2010年8月、長崎原爆資料館を訪れる潘基文(パン・ギムン)国連事務総長(右から2番目)

柳淳沢(ユ・スンテク)夫人(事務総長の右)と側近の高官とともに©UN Photo/Eskinder Debebe


「彼はそれでも、人々が理解することは絶対に必要だと食い下がったので、私は仕方なく引き受けました。私は大学に赴いたのですが、最初はとても辛く、苦痛でした。でも、話を終えてみると、苦痛は消え始めました。それ以来、私は話すことが癒しになると気づくようになりました。そして、私たち被爆者が語らなければ、同じ悲劇が再び起きかねないことも悟ったのです」

「私たち被爆者にとって、自分たちの経験を語ることはとても大切です。他の人たちに同じような目に遭ってほしくはないからです。70年経っても、私たちの苦難は続いています。人々が原爆の後遺症で苦しみ、命を失っているのです。私たちには平和な暮らしが必要です」

「核兵器は要りません。戦争も要りません。戦争に勝者はなく、全員が敗者になります。私たち被爆者は、できる限り長い間、語り続けなければならないのです」