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「あのとき、おなかに子供がいました」福島第一原発の女性オペレーターは、5年後も現場にいた。

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井手愛里さん(2016年2月25日 福島第一原発・新事務棟にて) | Taichiro Yoshino
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東日本大震災での事故から5年目を迎える東京電力福島第一原子力発電所。2014年6月から一部エリアに限って女性の就労が認められ、2016年3月現在、福島第一原発で働く1日約6500人のうち約40人が女性だ。

井手愛里さん(33)もその一人だ。原子炉運転オペレーターとして福島第一原発で10年以上のキャリアがあり、4歳と1歳の子を持つ母親でもある。

震災当日に発令された「原子力緊急事態宣言」が未だ解除されていない現場で、女性が働き続けることへの不安は、決して小さくないだろう。しかし、それでも、井手さんは現場に残ることを選んだ。その決断の理由とは? 2月下旬、福島第一原発で話を聞いた。

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「あのとき、おなかの中に子供がいました」

井手さんは2001年に東京電力に入社した。以来、福島第一原発5・6号機の運転員として働く。

2011年3月11日午後2時46分。井手さんは5・6号機の中央制御室と同じ階にある執務室で揺れに襲われた。余震が来るたびに、スロープの手すりにつかまる。それを繰り返しながら、中央制御室まで移動。膨大な計器に異常がないか確認した。

津波が来たことを知ったのは、夫からの社内PHS電話だった。夫も当時、5・6号機の守衛として第一原発に勤務していたが、大きい揺れのあと高台の建物に避難しており、そこで津波を見たのだった。

「夫はそれまで聞いたことのない声で叫んでいました。私は夫から聞いたままを、制御室にいる他の従業員に伝えました」

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福島第一原発に襲いかかる津波(2011年3月11日撮影 東京電力)

地震で福島第一原発は、全ての外部電源を喪失。1~6号機は、地下1階にあった非常用ディーゼル発電機や冷却用海水ポンプも、津波による浸水で使用できなくなった。5・6号機は定期点検中だったが、核燃料は原子炉に装填されたままだった。水を送って冷やし続けなければ燃料棒が露出してしまう危険があった。

幸い、6号機は1台の空冷の非常用ディーゼル発電機が水没を免れていた。この発電機で6号機を冷却し、5号機もこの電源につないで、一刻も早く冷却しなければならなかった。

「長い戦いになる」。井手さんは、家に帰れなくなることを覚悟した。

5・6号機から600メートルほど南に建つ1号機は、この日の午後7時半頃には炉心損傷が始まっていたとみられる。夕方には1・2号機付近で、夜には構内正門付近でも放射線量の上昇が確認された

同僚から「おなかに子供がいるんだから、先に逃げたら?心労とかはよくないだろうし」と声をかけられた。だが、やらなければいけない仕事は山ほどある。明かりもない真っ暗闇に、一人で避難するのも不安だった。しかし、妊婦の被ばく線量限度は、通常の放射線業務従事者の50分の1にあたる2ミリシーベルト(腹部)と定められていた。翌朝、救助に来た社員に連れられ、高台にある事務本館に避難した。

建屋の外は「足の踏み場もない」状態だった。「真っ直ぐだった道路も、うねっていて。今まで見た風景がガラリと変わってしまって、映画でも見ているような感じでした」。

12日午後、1号機が水素爆発した。緊急車両の配備や誘導などに携わり、構内に残っていた女性従業員も大勢いたが、全員退避を命じられ、3月23日以降は、福島第一原発における女性の就業が一時的に禁止された

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交流電源を失い電気が消えた福島第一原発・5号機の中央制御室(2011年3月11日 東京電力)


「辞めたいとは思わなかった」

井手さんに長男が生まれたのは、事故から半年後の2011年9月だった。出産まで産んでもいいのか不安だったが、「無事に生まれて育っている」と井手さんは語った。

長男の産休・育休が明けたのは、2012年10月。まだ女性作業員が福島第一原発に戻ることは許されておらず、井手さんは福島第一原発の約12キロ南、車で20分ほどの場所にある福島第二原発に通うことになった。

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第二原発の原子炉建屋も津波に襲われたが、なんとか電源をつなぎ、危機を免れた。とは言え、第二原発のある楢葉町は、避難指示解除準備区域に指定され、人が住むことが許されない状態だった。

辞めていく社員は大勢いた。しかし、井手さんは、「辞めたいとは思わなかったです」という。「それよりまず、自分が10年以上携わってきたプラントがどうなっているのかを、自分の目で見たかったんです。なんとか復帰して、廃炉作業に携わりたい、自分が役立てることがあるんじゃないか、そういう気持ちのほうが強かったんです」。

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午前7時過ぎ、Jヴィレッジ付近での渋滞の様子(2016年2月26日)

小さい子供を育てながら第一原発や第二原発で働くことには、事故前にはなかった苦労もあった。通勤の問題だ。

事故のあと、第一原発から半径20キロ圏内は立ち入りが厳しく制限された。国や東電は、第一原発の20キロ南にある「Jヴィレッジ」を前線基地とした上で、Jヴィレッジを経由しなければ第一原発に入れないように、道路を封鎖した。井手さんも当時住んでいた、福島第一原発のある大熊町のアパートからいわき市に避難した。いわき市からJヴィレッジまでの道は作業員たちの車で渋滞した。いわきからJヴィレッジまで約1時間。Jヴィレッジより北にある第二原発に通うことは、この渋滞に巻き込まれることを意味する。

会社には短時間勤務を申請したが、保育園に子供を迎えに行くには1時間以上かかった。「保育園から呼び出しがあったらどうしよう」という不安は募った。

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福島第一原発2号機周辺。奥に見えるのが3号機。(2016年2月25日)

「すごい状態になっちゃったんだな」

井手さんが事故後の第一原発に戻ったのは、第2子の育休から戻った2015年4月だった。以来、福島第一原発で勤務している。就業場所は、1~6号機の原子炉建屋から1キロほど山側に新設された事務棟。この建物付近の放射線量は2015年4月1日の段階で、毎時1.085マイクロシーベルトだった。

復帰から2カ月後に、構内を見る許可が降りた。「本当にきれいになっていると実感した」。一方で、原子炉建屋を見たときの衝撃は忘れられないとも述べた。

「特に1〜4号の前をバスで通った時は、今まで見ていた風景とあまりにも違いすぎて…。すごい状態になっちゃったんだなと。1・2号の中央制御室にも入らせてもらったんですけれど、全然違っていて、ショックが大きかった」。

4号機は2014年12月、使用済み燃料プールに残っていた燃料の取り出しが終了した。しかし、メルトダウンを起こした1〜3号機は、現在も溶けた燃料が建屋の中に残っており、取り出しに向けた長い長い工程のまだ序盤にすぎない

井手さんは復帰後、月3回ほど防護服を着て5・6号機建屋の中に通い、保全作業などにあたった。5・6号機は冷温停止中で、今後は1〜3号機から溶けた燃料を取り出すための研究開発施設として使われる予定だ

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かつて福島第一原発構内の「桜通り」と呼ばれた通りの両脇にも、汚染水タンクが立ち並ぶ。(2016年2月25日)

井手さんは廃炉に向けて少しずつ前進していると強調した。

「『あの地域は、放射線量が高くて被曝するんだろう』と思われるかもしれない。でも、APD(線量計測器)では計測されないほど低い数値のところもあるんですよ」

「あんなにボロボロだった第一原発が、整理されて、制御されているんだなというのを実感するのは、実際に目で見ていただくことだと思います。しかし、みなさんに見ていただくためには、もっともっときれいにしなくてはいけない。不安になるような要素を取り除いていかなければいけないと思います」

今、井手さんのおなかには3人目の命が宿っている。しばらくは建屋には通えないが、産休までは引き続き事務棟で勤務するという。


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