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「意地」より「実利」を選択:金正恩氏「訪露ドタキャン」の背景

2015年05月04日 00時58分 JST | 更新 2016年05月02日 18時12分 JST

ロシアのペスコフ大統領報道官は4月30日、モスクワで5月9日に開催される対ドイツ戦勝70周年記念式典に、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記は出席しないと発表した。同氏は「金正恩氏は平壌に残ることを決め、出席できないと外交ルートを通じて伝えてきた。(北朝鮮の)国内事情に関係して決定された」と語った。

金正恩第1書記のロシア訪問はほぼ確実との見方が強まっていただけに、記念式典の10日前のドタキャンの背景に何があったのであろうか。

筆者は本サイトの「『金正恩訪ロ』『国連決議』『暗殺映画』:岐路に立つ北朝鮮」(2014年12月26日)で「現時点では、金正恩第1書記が最初の外国訪問としてロシアを訪問する可能性は低いと考える」と記した。筆者は外交経験のない金正恩第1書記が最初の外国訪問を今回のようなマルチの外交舞台にすることはリスクが大きく、最初の訪問国をロシアにすることは中朝関係にもマイナスになることなどを理由にその可能性は低いと指摘した。北朝鮮の過去の外交手法や、北朝鮮が現在置かれている状況を考えれば、金正恩第1書記がロシアを訪問するのは得策ではなく、北朝鮮にとってはマイナスであるとしか思えなかったからだ。

北朝鮮側から、金正恩第1書記がロシア訪問を決定したという確定的な発表はなにもなかった。しかし、ロシアなどからロシア訪問を既成事実化する情報が相次いだ。

北朝鮮の玄永哲(ヒョン・ヨンチョル)人民武力部長と盧斗哲(ロ・ドゥチョル)副首相は4月13日にそれぞれ平壌を出発した。2人とも金正恩第1書記のロシア訪問についてロシア側と協議したとみられた。

ロシアのショイグ国防相は4月15日、玄永哲人民武力部長と会談し「金正恩第1書記が5月9日の対ドイツ戦勝記念式典に出席するためロシアを訪問することを心待ちにしている」と語った。

さらに、ロシアのウシャコフ大統領補佐官は4月22日、金正恩第1書記のロシア訪問について「北朝鮮側とのさまざまな接触の結果、金正恩氏がモスクワを訪問する意向であることを確認した」と述べた。事実上、ロシア側が金正恩第1書記のロシア訪問を確認した発言だった。

ボイス・オブ・アメリカ(VOA)によると、ホベルト・コリン駐平壌ブラジル大使は4月27日にVOAへの電子メールで「駐北朝鮮ロシア外交官から金正恩氏が招待を受諾したという事実を確認した。ロシアの外交官たちは、金正恩氏の訪ロに向けて慌ただしく動いている」と明らかにした。

さらに韓国の情報機関、国家情報院は4月29日に開かれた国会情報委員会でのブリーフィングで「ロシアを訪問する可能性が高い」と述べた。

実は、筆者も自分自身の予見が外れたかと思った。北朝鮮に近い消息筋は「金正恩第1書記のロシア訪問はほぼ確実で、現時点の関心事は行くか行かないかでなく、李雪主(リ・ソルジュ)夫人の同伴があるかどうかだ」と述べたからだ。

北朝鮮の「内部事情」とは何か

しかし、結果的には、金正恩第1書記はロシア訪問を見送った。北朝鮮が当初からロシア訪問を考えていなかったのではなく、ロシア側も北朝鮮側も金正恩第1書記がロシアを訪問するという方向で準備を進めていたのは事実とみられる。現実は、最後になっての北朝鮮側の、金正恩第1書記の、ドタキャンとみられる。

ペスコフ大統領報道官は金正恩第1書記のロシア訪問中止は「(北朝鮮の)国内事情に関係して決定された」と述べた。

北朝鮮側の「内部事情」とは何なのだろうか。

北朝鮮体制の安定性に疑問を持つ人たちからは「金正恩第1書記が海外へ出ることのできない体制内部の不安要因があった」「韓国の情報機関が、北朝鮮は今年に入り15人処刑を明らかにしたように、内部でこうした恐怖統治への反発が広がっている」といった見方も出るだろう。しかし、現実に金正恩第1書記が海外へ出ることができないほどの「体制内の不安要因」は探知されていない。「金正恩第1書記の外遊中にクーデターが起きるのを恐れた」とかいう類いの見方は、その人たちの「希望事項」の反映でしかないだろう。事態をもっと冷静に見る必要があると考える。

むしろ、ロシアとしては、北朝鮮当局とともに金正恩第1書記の訪ロを準備してきただけに、中止の理由は「(北朝鮮の)内部事情」とするしかなかったと言えるだろう。

最も可能性が高いのは、金正恩第1書記の日程や警備をロシア当局と具体的に詰めていく過程で、筆者が昨年12月に指摘したようなマルチの外交舞台でのリスクが浮上したことが、訪問中止の理由ではないかと考える。プーチン大統領との首脳会談がちゃんと時間を取って他国よりも優先的に保障されるのかどうか、記念式典や写真撮影などでの金正恩第1書記の立ち位置など細部に入れば入るほど、北朝鮮側の要求とロシア側の対応にギャップが出た可能性がある。

さらに、金正日(キム・ジョンイル)総書記がロシアを訪問した際にこれを取材した筆者の経験では、ロシア側の外国首脳に対する警備はかなりルーズだ。中国では金正日総書記に接近することなどまったく不可能であったが、ロシアではかなり近い距離まで接近が可能だったし、写真撮影なども可能だった。北朝鮮側がこうした警備に不満を持つことは十分にあり得る。

やはり対中関係を意識か

金正恩第1書記がロシアを訪問するとすれば、それは金正恩第1書記の国際的なデビューであり、このことが最も影響を与えるのは中朝関係だ。

北朝鮮がある程度、ロシア訪問を準備した背景には「金正恩第1書記がロシアを訪問しても中国があまり気にしない。中朝関係の悪化は限定的だ」という判断をしたからとみられる。

最近、ロシアと北朝鮮は急速に接近しているが、北朝鮮が経済的に中国に依存している状況に変化はなく、ロシアが中国の代わりをできる状況ではない。昨年の中朝間の貿易規模は約63億ドルだが、ロ朝間の貿易規模は約1億ドルにすぎない。北朝鮮の流通システムは中国資本に牛耳られているといってよく、中国の人民元が北朝鮮通貨のような役割をしている。

そういう状況の中で、金正恩第1書記が訪ロするということは、金正恩第1書記の中国への反発を示すことだ。金正恩第1書記の訪ロは「自主」や「主体」を叫びながらも中国への依存を深める自国の状況への苛立ちであり、中国指導部への不満の表明である。

おそらくは、金正恩第1書記には、習近平国家主席が昨年7月に平壌を訪問せずソウルを訪問したことへの反発がある。金正恩第1書記の意識は「貴方が平壌を訪問せず先にソウルへ行ったのだから、私が北京に行かずにモスクワへ行くことに何の問題があるのか」という意識があるからこそ、ロシア訪問を準備したとみられる。

筆者が昨年12月にモスクワへ行く可能性が低いと述べたのは、中国が昨年末から中朝関係改善のシグナルを出していただけに、これを無視してモスクワへ行くのは北朝鮮にとって得策ではないと考えたからだ。もし、金正恩第1書記がロシアを訪問すれば、それは「実利」ではなく、自身の「意地」を優先させることだ。

しかし、結果的には 金正恩第1書記は訪ロを中止し、「意地」より「実利」を選択した。

次の焦点は9月の訪中

北朝鮮が金正恩第1書記のロシア訪問の準備をこれだけ進め、海外メディアが関心を払ったことで、中国への牽制効果は、既にある程度発揮されたと見るべきだろう。

中国は金正恩第1書記がロシアを訪問したからといって、これをあからさまに批判したりする国ではない。中国の対朝鮮政策は長期的な視野に立っている。直接的な批判はしないが、金正恩第1書記が北京を訪問せずモスクワを訪問したということを忘れることもないであろう。

北京では9月3日に「抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70年」の記念式典が行われる予定だ。中国当局は既に金正恩第1書記を招待したことを明らかにしている。

金正恩第1書記はモスクワ訪問を中止したので、北京訪問についてはかなりフリーハンドを獲得した。モスクワに行って北京に行かなければ、中朝関係の冷却化はさらに決定的になる。しかし、モスクワ訪問を中止したため、北京に行かなくてもそれほど中朝関係に悪影響は与えない。もちろん、北京へ行けば、冷却化した中朝関係改善の大きな機会になるだろう。

中国としては、単独での金正恩第1書記の訪中となれば、核問題などでの何らかの進展を求めざるを得ないが、「抗日戦争と反ファシズム」の国際行事であれば、そうした条件を付けずに金正恩第1書記を受け入れることが可能だ。

金正恩第1書記の9月北京訪問があるのかどうかに注目が集まる。この式典には朴槿恵大統領が参加するのは確実で、そこで南北首脳の接触があれば、南北関係改善へ大きな弾みが付く。韓国では来年4月に国会議員選挙が予定されており、朴槿恵政権が南北関係を大きく前進させることができる時間的余裕はない。その意味で、9月の北京を舞台にした外交は格好の機会だ。北朝鮮外交のメイン舞台がモスクワかから北京に移動中だ。

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平井久志

ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

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(2015年5月1日「新潮社フォーサイト」より転載)