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日米同盟における「巻き込まれ」と「見捨てられ」を考える

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朝鮮半島情勢が緊迫化している。北朝鮮による核兵器、および弾道ミサイル開発が進行し、日本を含めた関係国にとって、同国の脅威が新たな段階に入ったことは否定できない。深刻な事態である。ただ、2017年3月から4月にかけての日本において、北朝鮮の行動と同程度か、おそらくそれ以上に議論、さらにいえば懸念の対象になっているのは米トランプ政権の出方だといえる。北朝鮮に対する先制攻撃に米国が踏み切るか否かである。その背景にあるのは、「巻き込まれ」への懸念である。

日本ではしばらく前まで、朝鮮半島や尖閣諸島を念頭に、有事の際に米国が本当に日本を支援してくれるのかという、「見捨てられ」の懸念が注目されていた。しかし、ここにきて「巻き込まれ」に急旋回しているようである。この2種類の懸念は、同じコインの表裏であり、どちらかではなく、常に双方を同時に考える必要がある。

現下の北朝鮮危機と、それに関する日本における議論の展開は、同盟を考える際の基本的な視点である「巻き込まれ」と「見捨てられ」の懸念について、ほとんど教科書に近い事例を提供している。そこで、これらについて改めて考えてみたい。

「巻き込まれ」とは何か


同盟の本質は集団防衛、共同防衛であり、外敵に対して一致して同盟参加国を守ることである。しかし、安全保障上の脅威認識や、脅威への対応手段・方法に関して、国が異なる以上、考え方が完全に一致することは不可能に近い。これは、日米同盟であれNATO(北大西洋条約機構)であれ変わらない、本質的、そして永遠の課題である。

そのために発生するのが、同盟のジレンマであり、その第1が、同盟国の行動により望まない紛争に「巻き込まれる」懸念である。米国が北朝鮮に対して先制攻撃を行うシナリオでは、日本側に「巻き込まれ」の懸念が生じる。というのも、北朝鮮は、米本土を攻撃する能力を現段階ではおそらく有していないため、まず日本(および韓国)に反撃をする可能性が高いからである。たとえ米本土への攻撃能力を有していたとしても、日米、および日米韓の離間をはかる観点では、まずは日本(や韓国)を攻撃することに合理性がある。

最初の反撃目標は在日米軍基地かもしれないが、米軍基地への攻撃は日本への攻撃であり、基地以外に被害が広がらないと言い切ることは不可能である。日本が始めたわけではない軍事衝突によって被害を受けるために、日本においては「巻き込まれ」と受け止められることになるだろう。

「巻き込まれ」は、シナリオによっては、米国の側にも生じる。例えば東シナ海・尖閣諸島をめぐる日中間の対立の激化が武力衝突にいたり、これに米国が関与せざるを得ない状況は、米国にとってはまさしく「巻き込まれ」である。(日本ももちろんだが)米国は中国と軍事衝突することを望んでいないからである。

いかなる同盟においても、そして米国も日本のような米国の同盟国の側も、「巻き込まれ」を避けたがるのは当然である。逆にいえば、同盟において常に問われているのは巻き込まれる覚悟である。

「見捨てられ」とは何か


「巻き込まれ」は同盟の盟主である米国にも生じるが、もう一方の「見捨てられ」は、基本的に(米国の)同盟国――すなわちジュニア・パートナー――の側に生じる懸念である。日米同盟においても米欧間の同盟であるNATOにおいても、有事の際に米国が本当に支援してくれるのかという問題である。安全保障コミットメントを米国が有事の際に遵守しない(できない)状況を、同盟国の側から見た場合に、「見捨てられ」と呼ぶ。

これは、比較的分かりやすい概念であろう。日本防衛への米国の支援を定めた日米安全保障条約第5条があったとしても、米国が本当に行動するか、そして日本が期待する時と規模で支援を行うか否かは、実際に有事が発生するまで検証しようにない。だからこそ、「見捨てられ」の懸念を完全に拭い去るのは不可能なのである。

平時においてできることは、同盟をめぐる全般的な対米関係を良好に保つとともに、非常事態対処計画の策定を含む有事の際の対応の詰めを行い、確実性を高めることである。しかし、最後にどうなるかは分からない。100パーセント確実とはならない世界である。

「巻き込まれ」から「見捨てられ」へ


冷戦時代の日米同盟においては、「巻き込まれ」の懸念が圧倒的だった。ベトナム戦争などの「米国の戦争」に関与せざるを得なくなることが恐れられたのである。他方で、地理的には冷戦の最前線国家であったはずの日本において、特にソ連への脅威認識は、必ずしも高くなかった。陸上自衛隊は戦車を中心とする精鋭部隊を北海道に配備したが、ソ連が北海道に着上陸する懸念は、一般レベルで共有されていたわけではなかった。

さらにいえば、もし北海道の守りが鉄壁なのであれば、侵攻の際にソ連はおそらく別の場所を選択しただろうと思われる。北海道のみ守りを固めればよいとの発想自体が現実離れしており、そのことも、日本におけるソ連に対する脅威認識が現実味を欠いたものであったことを示しているかもしれない。脅威認識のレベルが低かったために、「見捨てられ」への懸念が顕在化しない状況だったともいえる。その結果として、「巻き込まれ」の懸念ばかりが目立ったのである。

しかし、そのような時代は去り、北朝鮮の核・弾道ミサイル開発や中国の海洋進出が進むことになる。日本の領土防衛がより喫緊の課題となったのである。そうしたなかで、有事の際に米国は本当に日本を守ってくれるのかが問われることになった。すなわち「見捨てられ」の懸念である。

安全保障政策に携わる実務者や専門家の間では、「見捨てられ」の懸念をいかに低下させられるかが中心的課題になった。より専門用語を使えば、拡大抑止の信頼性という問題である。米国による日本防衛へのコミットメントが拡大抑止であり、そのコミットメントの信頼性を引き上げる必要性が認識され、そのための方策が模索されるようになった。「巻き込まれ」ばかりが議論された時代とは状況が大きく変わったのである。

日米間で拡大抑止協議と呼ばれる枠組みがスタートしたのは2010年だった。これも、日本にとっては「見捨てられ」の懸念に対処するためのものだった。米国の拡大抑止はいかに機能するのか。最終的には核兵器の使用を含む抑止力の信頼性をいかに確保するかが課題になった。端的にいって、究極のシナリオとしては、「本当に核兵器を使う覚悟があるのか」を日本が米国に対して問うことになったのである。

拡大抑止協議は順調に実施されてきたものの、他方で、オバマ政権の安全保障・防衛政策は、日本における「見捨てられ」の懸念を増幅させる結果になった。例えば2014年に発生したロシアによるウクライナのクリミア半島併合、さらにはウクライナ東部への介入である。これに対しする米国の行動は極めて慎重であると解釈され、日本の一部において、「行動できない米国」への懸念が高まった。

さらに、2013年にシリアのアサド政権による化学兵器使用疑惑が持ち上がった際も、オバマ政権は、化学兵器の使用は「レッドライン」だと言明していたにもかかわらず、巡航ミサイル等による攻撃は見送られることになった。これも、米国の信頼性への疑念を引き起こした。オバマ政権時代は、「見捨てられ」の懸念の時代だった。

そしてふたたび「見捨てられ」から「巻き込まれ」へ


しかし、それはおそらく当初から、ある意味現実離れした、一面的な議論だったのかもしれない。というのも、もし米国がウクライナ問題をめぐって軍事面を含む対応を行っていたとすれば、それは、アジアに割くことのできるリソースの低下をもたらし、それが日本防衛の観点でプラスだったとは言い難い。

シリアの問題にしてもそうであり、そもそも、オバマ政権による「アジア重視(pivot)」政策は、欧州に加え中東へのコミットメントの必要性低下を前提としていたのである。もし米国が、欧州や中東への関与を再び拡大しなければならない状況になれば、アジアへのコミットメントにも影響が及ぶことは避けられなかったはずである。

そして冒頭に触れた北朝鮮危機の深刻化である。それと同時並行して2017年4月にシリアでのアサド政権による化学兵器使用疑惑が再び持ち上がり、トランプ政権は巡航ミサイルによる懲罰的攻撃を実施した。これに対して安倍晋三首相は、「米国政府の決意を支持する」と表明した。

北朝鮮を含め日本を取り巻く安全保障環境を念頭に、「行動できる米国」を支持するという意図だったのだろう。日本の防衛にコミットする同盟国たる米国が、行動できないよりは、行動する決意を有する方が日本の国益に合致することは疑いようにない。「見捨てられ」ないためにも、米国の決意が重要になる。

しかし、トランプ政権による北朝鮮に対する先制攻撃が現実味をもって取り沙汰されるようになると、日本の議論はふたたび大きく旋回することになった。「巻き込まれ」の懸念の再浮上である。「見捨てられ」の懸念が一時期において重要視されたのは故あってのことだったが、より現実的なシナリオに照らせば、「巻き込まれ」の懸念の方が依然として大きいものだったことに気付かされたのである。

同盟政治の根源的課題に立ち返る


筆者を含めて実務家や専門家は、「見捨てられ」の懸念に傾注していた際に、想定がどれだけ「リアル」であったかを改めて振り返る必要がありそうである。究極的なシナリオとしての核兵器使用のコミットメントについて考えると、例えば、米国に核兵器使用の覚悟を求めつつ、しかし、日本防衛の文脈で核兵器が使用されるとすれば、対象が北朝鮮であっても中国であっても、いわば日本の近隣地域であり、核兵器使用の影響は日本に及ぶ可能性が高い。

そうである以上、米国との協議においても、「使用して欲しい状況(場所やタイミング)」と同時に、「使用して欲しくない状況」の検討が不可欠になる。

冷戦期のNATOでもそうだった。つまり、たとえ限定的ではあっても、ひとたび米ソ間で核兵器が使われれば、戦場となり、犠牲者がでるのはまずもって欧州であることが自明だったからである。だからこそ、核兵器はもとより通常兵器に関しても、その使用は「遅すぎても早すぎても困る」のであった。「遅すぎる」のは「見捨てられ」であり、「早すぎる」のは「巻き込まれ」といい換えることもできる。どちらかではなく、常に両方が問題なのである。

結局のところ、同盟政治・同盟管理における根源的課題とは、同盟国間で、「いつ行動に踏み切るか」、「いつ本気になるか(戦争を覚悟するか)」の敷居を調整することである。平易な言葉でいえば、「沸点」の調整である。自国より同盟国の「沸点」が低い場合に表出するのが「巻き込まれ」であり、逆に同盟国の「沸点」の方が高い場合は、相手がなかなか行動しないために、「見捨てられ」が発生する。

現下の北朝鮮をめぐる危機に直面して、日本で「巻き込まれ」の懸念が「見捨てられ」のそれに勝っているとすれば、それは、この問題に関してトランプ政権の方が「沸点」が低いと認識されているからということになる。実際、日本における平和主義・反軍主義の強固な伝統や、そもそも自らは北朝鮮を攻撃する能力を有さないという現実に鑑みれば、日本の方が「沸点」が高いのはおそらく事実であろう。

いずれにしても、「巻き込まれ」も「見捨てられ」も同じコインの表裏であり、相対的なものともいえる。だからこそ、常に両方を見据えることが不可欠なのである。朝鮮半島情勢が緊迫化すればするほど、我々は冷静にならなければならない。その際に、「巻き込まれ」と「見捨てられ」に代表される同盟の構造的課題を改めて考えてみることも有益ではないか。