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本当に日本はやばいかもしれない(前篇)――異端的論考5

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SHINZO ABE
Bloomberg via Getty Images
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Japan BashingからJapan Passing、そしてJapan Nothingへ

先月の9月25日の夕刻(日本時間では26日の早朝)に、ニューヨークで安倍首相が国連総会で勇ましい一般討論演説を英語でぶった後に行った記者会見をNHKの中継でたまたま見る機会があった。会見の内容や前もって決められていると思しき退屈な質問のやり取りはさておき、そこで驚いたのは、記者会見にあつまった記者の数である。安倍首相が勇ましく世界が大いに注目するアベノミクスと宣う割には、後方からとった記者会見場の映像が示すのは、目立つ空席の多さである。ご興味のある読者は、このURL(http://www.youtube.com/watch?v=iH5XkTFe1B4)の映像の開始から0:26あたりをご覧いただきたい。

この映像では前から5列までを映しているが筆者が記憶をしているNHKの映像はもう少し後列まで映していたのではないかと思う。いずれにしても、大学の講義ではないので、記者会見で後ろから席が埋まるとは考えづらいので、会場はかなりの閑古鳥状態であったと推察される。一方、フレーミングと言えなくもない政府(内閣府)が公開している記者会見の動画(http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0925naigai.html)は、アップを多用するので、動画の12:28あたりで後方からのショットがあるが、記者会見場の雰囲気を正確に伝えているとは言えない。流石であると思わず感心いや寒心してしまった。日本に対する関心の喪失は、想像以上かもしれない。この状況での、「日本が、再び、世界の中心で活躍する国になろうとしている。そのことを改めて実感いたしました。」との安倍首相の発言はむなしく響いたことと想像する。

この映像を見ていて、2008年から2009年にかけて大学や研究仲間と「学会やフォーラムなどで、海外、それも、アメリカに行くと日本の話題は出ず、バブル全盛のころのJapan Bashingから、 バブル崩壊以降のJapan Passing 、そして、長引く失われた年月を経てJapan Nothingになりつつあるな」と自嘲気味に話をしていたのを思い出した。そのころ私は、日本はそろそろ、近代日本の性ともいえる欧米諸国に対しての「見てみてほめて!症候群」から卒業すべきではないかと言っていた。国力は落ちたとはいえ、イギリスやフランスが、国際会議で話題になろうがなるまいが気にすることはなく、見てみて褒めてと媚びなど売るわけがないではないかと思ったからである。

失われた20年だ、デフレ地獄だと言っても、実質GDP的に見れば、日本は大規模経済の国としては、十分豊かでそれなりに良くやっているともいえるのではないかと思っていたのである。つまり、経済と社会が成長ではなく成熟を迎えるなかで、あらたな方向性を見出し、それによって日本社会を新たにデザインしていくことで、その実績と自信を持って、競走馬を卒業し、欧米諸国の馬主倶楽部に参加できるのではないかと思っていたのである。真面目なA型国家である日本にとって、競走馬をやめ、馬主倶楽部にも入らないという、わが道を行くという選択は到底現実的ではないと思っていた。つまり、ことの是非は置くとして、グローバル時代における第二の脱亜入欧の方向に行くのであろうと思っていた。

しかし、2009年に民主党が政権を握ったことで流れがおかしくなり、第二次安倍政権の出現で全く違う方向を向いてしまったと思っている。民主党政権の間に起こったことは、東日本大震災と福島の原発事故という不運(原発事故は人災という意見もあるが)はあったが、基本的には事業仕分け(公開の政治パフォーマンスとしては面白かったかもしれないが)という手法に頼った予算の見直しによって財源は捻出できると主張して、大盤振る舞いをした結果、国の財政赤字が急速に拡大、つまり、国の借金を大幅に増やしただけに終わったことである。安倍政権になってからは、言うまでもないが、勝ち目のない戦と言える盲信的な経済成長政策へと回帰した。供給サイドから長期にみて日本の戦略を考えると安倍政権の行いは戦略的に間違いであろう。戦略の間違いは戦術では取り返せないのであるが、ご当人は戦略という名の戦術に終始して満足気のように見える。

実際は、はやり言葉になった異次元、言い換えれば、後先を考えない過激な量的緩和という最終手段による、株高(日銀が買い支えている一面がある)と円安(かなり、止まらなくなってきている)、それとあまり望ましくない政治的圧力による(おそらく一時的となり、かつインフレと増税で相殺される)賃金引き上げ以外にこれといった成果(?)のない3本の矢と称するイメージと政治パフォーマンス重視の成長戦略であり、抜本的な社会システム改革の観点からは中身があるとは到底いえない。

例えば、記者会見の話を聞いていても、世界経済フォーラムが発表した2013年の女性活用度指数で、日本は136カ国中105位であり、その順位は年々低下しており、先進国では最低レベルであるという事実を置いておいて、世界を変える女性が輝く社会を日本がリードすると紅顔することなくいえる神経には敬意を表したい。まー政治家は厚顔なので、紅顔はしないのは当たり前かもしれないが。

また、「特色ある日本の「地方」にこそ、「投資のチャンス」がある」と力強くおっしゃるが、日本の「地方」の実態は、自治体として、財政力指数(1.0を上回れば地方交付税交付金が支給されない不交付団体となり、下回れば地方交付税交付金が支給される)が0.5未満、つまり、予算の半分も自分で賄えない都道府県県が2012年のデータで、47中30あり、1.0を超えるものはない。財政力指数の最下位は島根県の0.22である(http://area-info.jpn.org/KS02002.html)。そして、地方自治体では、同じく2012年のデータで、財政力指数が0.5未満の市町村は、1765中1004あり、1.0を超えるのは60に過ぎない(http://area-info.jpn.org/KS02002All.html)のが現実である。上位に原発を抱える市町村が見受けられるのは、地方創生の観点で大変興味深い。理屈はどうであれ、国からの仕送り(中央からの交付税と公共事業などのもろもろの財政支援)がなければ生きていけない(地方自治体として成り立たない)のが実態である。地方分権の流れのもとに、「決定権はください、しかし、お金はよろしく」という論法が日常化し、高齢化によって消滅の危機に瀕することとなる「地方」が、外国資本にとって、魅力的と本当に思っているのであろうか。安倍政権の言う「地方創生」とは、中央からの厚い支援、つまり、単なる公共事業の正当化と強化としか受け取れない。霞が関はさぞ大満足であろう。

先月29日に、安倍首相は衆参両院の本会議での所信表明演説で、「女性が輝く社会」の実現について、「女性の活躍は社会の閉塞感を打ち破る大きな原動力となるという認識を共有し、国民運動を展開していく」とか「地方が直面する構造的な課題は深刻だが、チャレンジしたいと願う若者こそが危機に歯止めをかける鍵だと確信している」と述べている。

要は、夫婦別姓や赤ちゃんポストを毛嫌いするなど、女性(ジェンダー)に対して超保守的(今回登用された内閣関係の女性は非常に保守派であることは皆の知るところである)で有名な安倍首相は、万策尽きたので、女性は重要な原動力と言い、お荷物になった地方の創生に、これまで真摯にその声を聞くこともなく、世代間格差の犠牲者にした若者に期待すると言っているのである。女性にしろ、若者にしろ、突如彼らを重要視するのは、御都合主義の極みであり、節操も哲学もあったものではないのである。「女性が輝き、日本社会再生の原動力になる」とは、「男だから」が通用しなくなることでもあり、男社会の重圧が和らぎ、おそらく、社会問題と言われるひきこもり(現在のひきこもりの絶対多数は男性である)が減るのでないだろうか。安倍首相は聡明なので、そこまでお考えなのであろう。

威勢のいい話は良いが、女性の活用の現実、地方の実態、社会保障制度の改革と財政再建、規制緩和(本気で、外国人家政婦の解禁が規制緩和のアリの一穴になると思っているのであろうか)、日銀が株と国債を買い支えての株高、増税してもジャブジャブの補正予算と事実上の予算シーリングの廃止とどれ一つとっても、まともな社会システム改革が進んでいない現実を海外は知っている。それとも威勢のいい話は、SONYの出井元社長流の日本の有権者向けなのであろうか。選挙も近いので、「地方創生」「女性の輝く」「若者が将来に夢や希望を持てる」と言うプロパガンダは、票稼ぎと考えるのが一番わかりやすいのではあるが。

数字は世界中の誰でも手に入れることができるのをお忘れか?外からは見えないマジックミラーに包まれ、中からは見えるが外からは見えない『不思議の国日本』は、1989年に盛田昭夫と石原慎太郎が『「NO」といえる日本』を著した時に(その当時、筆者は米国に居住していた)、盛田がアメリカのメディアのインタビューで「これは、日本向けに書いたものなので・・・」と答えて驚愕された、いや、失笑をかった時にすでに終わっているのである。

国の実態と安倍首相のスピーチの内容とのかい離がどんどん広がっているような印象をうけるのは筆者だけであろうか。まさに、大口をたたく、ふかす政治家である。このかい離が広がるほど、海外から見れば、安倍首相のスピーチは、根性論か精神論(戦前の竹やりでB29を落とすのに近い世界である)を超えて、カラ元気ならぬカラ自信に根差す夢想の域に達するのではないだろうか。これは、まさに内田樹が指摘していた「すべてがうまくいった場合についてだけ考え、すべてが失敗した場合については何も考えない」という日本の流儀そのものではないだろうか。これでは、日本に再び興味を持ってもらうどころではなく、一層興味を失い、まさしく、Japan Nothingになってしまうのではないかと危惧している。

一縷の望みは、若い日本人が国家と紐づけることなく、一個人として多くの分野でグローバルに活躍していることである。12歳からアメリカでテニスを研鑚した錦織選手の活躍は、日本のテニスの評価などではなく、日本人である彼個人の成果であろう。

先月末に文部科学省が発表した『スーパーグローバル大学創生支援(流石に英語は恥ずかしかったらしく、Top Global University Projectと訳している)』を見るに、お題目はその通りであり、制度改革と組み合わせて重点的支援と称しているが、永田町の政治家同様に、万策尽きて、現実とのかい離を無視して、迷走を始めた霞が関という感がある。次回は、後篇として、霞が関について論考したい。