BLOG

なぜ、アメリカでは障害者を「弱者」と呼ばないのか?

2017年07月31日 14時16分 JST | 更新 2017年08月04日 17時31分 JST

相模原殺傷事件が起きてから1年が経った。犠牲者を追悼するため、メディアは「弱者に思いやりを」「弱者を差別しない社会をつくろう」と呼びかける。しかし、障がい者の置かれている状況が変わる兆しは見えてこないばかりか、むしろ悪くなっている。共同通信が全国の知的障害者の家族を対象に実施したアンケートでは、事件後、障害者を取り巻く環境が悪化したと答えた人が7割だった。

私は長年アメリカに住んでいるが、アメリカ人と日本人では障がいに関する考え方が大きく違う。そもそも英語では障がい者(disabled people)とは言わない。障がいを持つ人、障がいと共に生きる人(people with disabilities)という言い方をする。子どもの場合は、障がい児(disabled children)とは言わず、特別なニーズのある子ども(children with special needs)と呼ぶのが一般的だ。あくまでも「人」に焦点を当て、私たちには人間として同じ権利があることを強調する。

そして、アメリカ人はそれを子どもの頃から自然に学んでいく。「インクルージョン・クラスルーム」と言って、障がい児も健常児(typical children)も同じ学校に通う。障がいのあるすべての子どもたちが、健常児と同じように学ぶことができる「環境」を提供することは、公立学校の義務であると法律で定められているのだ。

2017-07-30-1501425494-6013078-.jpg

インクルージョン・クラスルーム:Photo credit: EasyStand via Visual hunt / CC BY-NC-ND

教育だけではない。交通機関や公共機関へのアクセス、雇用や住居の機会均等が法律で守られており、世間一般では当然のこととして認識されている。

このような社会では、障がいや病気のある人を「弱者」とは呼ばない。もし、彼らを "weak people(弱者)"などと呼んだら、アメリカ人は間違いなく「差別だ」と言うだろう。もし、障がい者が「社会的弱者」であるとしたら、社会が変わる必要があると彼らは考えるのだ。

「弱者」の代わりに英語では、「バルネラブルな人たち(people who are vulnerable)」という言い方をする。日本語にはない表現で、「弱者」とも意味が違う。バルネラブルは、障がいの有無を問わず誰もが経験することだ。たとえば、言葉の話せない国に行ったとき、暗い夜道を一人で歩いているとき、風邪にかかったときなどには、バルネラブルな状態になり得る。

私が生まれて初めて、長期間このような状態を経験したのは、19歳でアメリカに渡ったときだった。英語がほとんどできない状態で大学に通いはじめた私は、すべてのことにおいて助けが必要だった。どのように大学のクラスを取ればいいのか、宿題は何なのか、どうすればバスに乗れるのか、シャワーはどう使えばいいのか。当たり前のことがわからなくて本当に困った。とにかく助けてくれそうな人を捕まえて、慣れない英語で何とかわかってもらおうとする日々だった。

このような状況が1年ほど続いた頃、心身共に限界を感じた。常に助けられる立場にいるということが、いかに疲れることで苛立つことかを初めて実感したのだ。

この経験は、後に音楽療法士となり、障がいや病気と共に生きている人たちと接する上で役に立った。私には障がいや病気はないかもしれないが、バルネラブルな状態になったことは何度もある。その点で共感することができるからだ。

「弱者」という言葉が、〈彼ら〉と〈私たち〉を区別する言葉だとしたら、「バルネラブル」は、人間誰もが経験する苦しみや悲しみを通じて、私たちをつなぐ言葉である。

「障がい者」や「弱者」とそうでない人たちを、白黒で分けることはできない。あなたが今健康だとしても、病気や事故でいつ障がいをもつかわからないし、すべての人に死は訪れる。そして死期が近づいているとき、私たちは人生で最もバルネラブルな状態にあると言えるだろう。どんなにお金や学歴があっても、どんなにハンサムでも美人でも、死ぬときは皆バルネラブルだ。突然ポックリ死ぬことがない限り、確実に誰かの支えや助けが必要になる。

そのときあなたは何を求めるだろう? 弱者というカテゴリーに振り分けられ、「かわいそう」と思われたいだろうか? どうせもうすぐ死ぬのだからと、生きていても意味のない人間のように扱われたいだろうか?

おそらくあなたは、体は弱っていても、人間として本質的な部分では変わっていないと感じるだろう。だから、ありのままの自分を受け入れて欲しいし、自分の気持ちをわかって欲しい、と願うと思う。周りの人に、完全に理解されることは無理でも、わかろうとする努力をして欲しい。アメリカで英語が話せず苦労したとき、私はそう感じた。そして、私が今まで出会ったホスピスの患者さんや障がいのある人々の切実な願いも、同じだった。これは、人間誰もが心の奥底で願っていることなのだ。

善意の人々からの浅い理解は、悪意の人々からの絶対的な誤解よりも苛立たしい。

キング牧師はそう言った。

障がい者に対して悪意を抱いている人は少ないだろう。しかし、私たちの理解は深いと言えるだろうか? 彼らを「弱者」と分類し、無意識に差別してはいないか?

私たちが目指すべき社会は、「弱者を思いやる社会」ではなく、「弱者をつくらない社会」だと思う。

(2017年7月30日「佐藤由美子の音楽療法日記」より転載)

佐藤由美子(さとう・ゆみこ)

ホスピス緩和ケアを専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院を卒業後、アメリカと日本のホスピスで音楽療法を実践。著書に『ラスト・ソング』『死に逝く人は何を想うのか』。