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「北朝鮮・死の強制収容所からの脱出、嘘ではない」脱北者シン・ドンヒョク氏インタビュー

2015年03月10日 01時58分 JST | 更新 2015年03月10日 01時58分 JST
김성룡/ Studio Bob

シン・ドンヒョク氏は、北朝鮮の价川(ケチョン)政治犯収容所を脱出したことで世界的に知られる脱北者の人権活動家だ。本名はシン・イングンだが、脱北を手伝った記者の名前を取ってシン・ドンヒョクに変えた。シン氏の証言を記録した自伝「北朝鮮 14号管理所からの脱出」(2012年、日本語版刊)は27カ国で翻訳・出版され、北朝鮮の政治犯収容所の実情を知らせ、国際社会の関心を呼び起こし、国連で北朝鮮人権決議案を採択させるのに決定的な証言となった。

しかし2014年9月24日、北朝鮮の国連代表部は、北朝鮮の人権報告書や、各国の主張に反論した。「シン・ドンヒョクの証言は韓国の工作による捏造であり、全く事実ではない」と主張していた。また、北朝鮮が作成した映像でも、シン氏は不法出入国と性犯罪などを犯した犯罪者として描写された

その後シン氏は証言の一部を翻し、国際社会に波紋が広がっている。

1月17日付のワシントン・ポスト紙によると、シン氏は自伝の共著者に対し「6歳のころ、家族とともに14号管理所から、大同江を渡って18号管理所に移された。母と兄を密告したのは18号管理所だ」と述べた。また、何度も体を焼かれるなどの拷問を受けたのは、13歳のときではなく、20歳のときだったと認めたという。

脱北者シン・ドンヒョク氏、自身の証言に一部誤り認めるより 2015/01/19 17:22)

2月3日、スイスのジュネーブで開かれた国連人権理事会でも、熾烈な攻防が繰り広げられた。北朝鮮のリ・スヨン外相は、調査の過程でシン氏が証言を覆したことについて「基礎となった重要な証言が虚偽であることが判明し、国連人権理事会と総会の反共和国人権決議の虚偽性が明白に証明された」として、北朝鮮人権決議案自体を否定した。中央日報によるとリ外相は「共和国の敵対勢力が関心を持つのは、罪を犯して逃走した脱北者という人間のクズだけだ」とシン氏を激しく非難した。

これに対して、国内外のメディアのインタビューに応じず、沈黙を守っていたシン氏が、2月26日にハフィントンポスト韓国版のインタビューに応じた。シン氏は、ソウル・梨泰院のカフェで約3時間30分にわたるインタビューで「母と兄が自分の密告で処刑された事実を明らかにしたくなかった」「拷問の事実のいくつかは隠したかった」「北に残っている父を守りたかった」と思ったため、事実でないことを交えて証言したと明らかにした。しかし「7〜8年後に私の人生がこうなるとわかっていたら、最初からすべて話していた」と後悔した。

一方でシン氏は「収容所での体験談はすべて真実であり、私の最終目標は、国連調査団を率いて、私が苦しんだ14号、18号収容所を訪問し、実態を全部明らかにすることだ」と述べ、北朝鮮が自分を非難する動画を公開したことが、ハフィントンポスト韓国版とのインタビューに応じることを決めた理由だと明らかにした。

今回のインタビューは、すべてシン氏の証言に基づいている。シン氏が直接明らかにした北朝鮮脱出の過程と人権運動、そして証言を覆すに至るまでの経緯を一問一答でまとめた。(シン氏のソーシャルメディアの投稿も追加した)

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−−2月3日に開かれた国連人権理事会の話をしたい。北朝鮮のリ・スヨン外相があなたに激しい非難を浴びせた。 「脱北者はクズ」という発言も出た。

北朝鮮への私の反論は簡単だ。私は国連調査団を率いて、私が生まれた収容所を直接案内したい。これで私はすべて解放される。言葉だけで「収容所はない」と繰り返す私の父を無理やりテレビに出演させずに、本当に北朝鮮が正々堂々としているのであれば、私と調査団を北朝鮮に受け入れなくてはならない。はばかることなく言えば、本物の人間のクズは北朝鮮の独裁者ではないか。幼い私を脅迫して、母と兄を殺させた。独裁者の叔父までためらうことなく処刑するのが北朝鮮だが、人間のクズなどとよく言えたものだ。

−−正確な脱北時期はいつなのか。

2005年だ。収容所を計3回脱出しようとして2回失敗した。3回目で成功して韓国に来た。

−−証言を覆したことで議論を呼んでいる。具体的には「14号収容所」の部分、拷問を受けた年齢が証言と違っているという部分だ。

最近の議論については私も(問題があると)認める。私の話を、私自身が否定したからだ。20歳で受けた拷問を、なぜ13歳で受けたと言ったのかという部分だけを追及するのであれば、言うべき言葉もない。しかし私が話を変えたというより、最初はあえて話さなかったことがあったという方が正しい。人間としてとても話しにくい事情があったからだ。将来、私の人生がこうなるとわかっていれば、苦しくても最初からすべてを明らかにしていただろう。

今まで私がしてきた話は、私が直接目で見て体験したものだ。14号収容所で服を脱がされて逆さ吊りにされ、鎖の痕はすべて私の体に残っている。爪を剥がされて指の関節が飛び、足かせをはめられた痕が証明している。尻から背中まで火をつけられ、やけどの痕がはっきり残っている。熱くて叫んで血が出たとき、その後の私の悲鳴は、今この場でも完璧に描写できる。しかしむしろ、こういうことには耐えられた。もっと隠したかったのは、他のことだ。

−−何を隠したかったのか。

母と兄が私の密告で処刑されたという事実だ。

−−なぜ最初から事実通り話をしなかったのか。

恥ずかしかった。どこの誰が臆面もなくそんな話をできるだろう。北朝鮮では思想教育を徹底的に受けるため、家族同士でも密告することになっている。14歳の時だった。母と兄が脱走したと密告したが、看守が次の日に私を呼び出して、机の上に一枚の紙を置いた。自分たちが準備した紙に拇印を押せば、何でも望み通りにしてやると言われた。母と兄が人を殺したという内容だったが、その深刻さを全く認識しないまま拇印を押した。ところが翌日から、母と兄がどうやって殺人をしたのかと執拗に尋ねられた。その1週間後にわかったことは、その看守が集落で盗みを働いて1人の女性を殴り殺し、私たちの家族に罪をなすりつけたということだった。別の人物から聞いたが、生まれつき囚人の身分の私は、看守の罪を明らかにするなど想像もつかなかった。

公開処刑の当日、私と父は、処刑場に連れて行かれて最前列に座らされた。母は栄養失調なのか拷問を受けたからか、体がパンパンに腫れていた。後で聞いたことだが、自分の分の食事を息子に食べさせてほしいと看守に頼んでいたので、飢えていたという。母が最後の瞬間、連行されるところで私を見つめたが、目を合わせることができなかった。母は絞首刑で、兄は銃殺でこの世を去った。

どうして母を密告できるのかと聞かれるが、環境がそうさせているのだ。収容所ではそれが正しい行動だ。そこでは私の父も母もただの囚人だ。言葉では母と呼ぶが、一緒に過ごす時間がなかった。家族がどんなものか全く知らずに育った。収容所で生まれた私を歓迎してくれる人は一人もいなかった。そこでは誰もが同じ囚人だ。感情などは存在しない。

−−いくら北朝鮮でも、目の前で家族を公開処刑することができるのか。

それが北朝鮮だ。公開処刑をするときは、できるだけ多くの人を集めようとする。収容者への効果がより大きいからだ。最近、ダーイシュ(イスラム国)の公開処刑の場面を見て「おぞましい」と言う人が多いが、目に見えるから恐ろしいと感じるのだ。北朝鮮で起きることは目に見えないだけで、もっと恐ろしい。

−−なぜ証言を覆したのか。

北朝鮮が、事実と異なる内容の動画を公開した。北で苦難に耐える父を登場させて、嘘を言わせたことに憤慨した。母と兄が殺人罪で処刑され、私は心おきなく勉学に励んだとか、挙げ句の果てに私を性犯罪者だと言った。2014年9月以前まで、私はあるがままの収容所のことだけを話していたが、動画が公開されてから「北朝鮮は本当に悪い奴だ」と、思わず悪口が出た。何も隠してはいけないと考えた。私がすべての真実を最初から明らかにできなかった、最も重要な理由は家族だった。

−−北朝鮮の収容所に暮らして、脱出しようとなぜ思うに至ったのか。外の世界について何か聞いたからか。

最初に収容所を脱出するとき、外の世界について何も聞いていなかった。最初に脱出したときは捕まって戻されたが、脱出して見たこと、感じたことがあったから、もう収容所で暮らすことが全てではないと思うようになった。これはおそらく、私の体が感じる「自由」というものだろうと。学校教育では、読み書きと算術以外は教えてくれない。14号では、それすらもろくに教えてくれない。

−−あなたは北朝鮮で2回脱出した。また、母と兄が処刑され、監視もたくさん受けただろう。北朝鮮はなぜあなたを生かしておくのか。この部分について強く疑問を呈する人もいる。

収容所から脱出したが捕えられ、戻ってきて銃殺される人もたくさん目撃した。私の場合は運がよかったのか、あるいは私があまりに愚かだったから何度も脱出しようとしたのかは分からない。ところが、北朝鮮は今とても後悔しているだろう。あの時、初めて脱出した時に殺しておけばよかったと。

−−14号収容所からではなく、18号収容所から脱出したと証言を翻して議論になっている。2つの収容所は大きく異なると言われているからだ。

そうではない。誤解されているが、少し複雑だが説明しよう。私は今まで証言した通り、14号収容所で生まれた。その当時あったのは14号収容所だけで、18号収容所はなかった。その後、1985年頃に、14号収容所に住んでいた収容者のうち、一部を除いて全員、川の向こうへ移住しろという命令が出た。どのような基準だったのかは分からないが、私たちの家族は、14号に残留する中に含まれていた。収容者のほとんどが夜間に橋を渡って移住した。その日から、川の対岸の収容所が14号、元の14号だった所は、18号収容所と名前が変わった。そして、2回目の脱出を試みた後、再度捕まって戻された所が14号収容所なので、証言の内容が間違っているわけではない。 さらに14号も18号も政治犯収容所で、決して14号での生活が18号よりも過酷というわけではない。

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シン氏が、かつて住んでいた14、18号収容所の位置を、Google Earthを使って説明している。大同江をはさんで北に14号、南に18号収容所があり、シン氏は、自分が住んでいた収容所の規模、監視やぐらの位置、鉄条網、囚人たちの生活範囲などを詳細に説明した。

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−−収容所に人がどれだけ住んでいたのか。

18号収容所だけで、囚人と看守を含めて2万5千人いる。

−−14号と18号の生活の違いは?

14号収容所の方が生きるのが大変で、18号は楽だと言われるが、私にとっては全く同じだった。むしろ18号収容所の生活の方が苦しかった。両方とも、鉄条網が張り巡らされていて、看守が監視やぐらから収容者の労働を監視している。囚人たちが農産物を生産して自給自足する14号収容所では、農業がしやすい環境だったが、18号は農業がしにくかったので、18号収容所の収容者が大同江を泳いで渡って14号に行くこともあった。ところが、泳ぐ力がないので、水に落ちて死ぬことも多かった。本当はこんな話はしたくないが…(ここでシン氏は唯一、しばらくためらった。苦痛を伴う記憶を引き出しているからか、奥歯を数回食いしばった)。自分の大便まで食べた。草しか食べていないから、臭いがしない大便を。18号収容所では人を食べたという話も聞いた。18号の収容者はむしろ、14号収容所の収容者を羨ましがった。

シン・ドンヒョク氏の主張によると、北朝鮮の収容所を最初に脱出したのは1999年、父が書いた手紙を持って、生まれて初めて叔母の家を目指して逃げた。しかし、苦難の末に到着するや否や、待ち伏せしていた警察に捕まった。鉄条網を越えて山を越え、2週間逃亡していたが、3日後に再び、数多の暴行と苛酷な行為が待つ18号収容所に戻された。

戻ってからは収容所の農場、炭鉱など、言われるがままに労役に従事した。収容所での食事は、トウモロコシ、キャベツ、塩で作ったお粥と、時々獲れるネズミや昆虫などが全てだった。体調が悪く労役ができない場合は、それすらも半分に減らされた。1年が過ぎ、シン氏は衰弱して動けなくなった。そして、収容者の給食を調理する仕事を補助することになった。

収容所ではいつも、朝食(ここではトウモロコシをいう)を、前日の夜に作って床に広げておく。茹でたトウモロコシが夜の間に冷めてかさが増え、量が多く見えるからだ。ある日、調理担当者がシン氏を一人残してどこかへ行った。食事を見た瞬間、理性を失った。夢中で目の前の食事を食べた。食べ終えたとき「給食を食べられない人が出

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