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日本的集団におけるガバナンスについての一考察

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密着した、共依存とか共生的とか言われるこころのあり様のことを、まずは話題にしたいと思います。それは、独立した個性を持つ複数の人間が行う相互依存とは異なり、時として病的な、問題があるものとみなされます。

二つで一つになっているようなこころから、どちらかが分離・独立を果たそうとする時に、その両者のこころの状態には深い退行(幼児返り)が起きます。クライン派の精神分析が、妄想分裂ポジション(興味のある方は、拙論「意識の分裂(split)と抑うつポジション」をご参照ください)と呼ぶ、非常に強烈な攻撃性が刺激される状況で、野放しにされた場合に、その分離独立の動きは妨げられ、二人以上のこころが融合したような共生状態に引き戻されることになります。

実際に外側に現れる言動としては目立たないものであっても、そのような密着したこころを分離させることがひき起こす痛み(罪悪感に近いかもしれません)は、大変な苦痛をもたらします。そこで無理に分離を果たそうとすると、とても危険な事故が起きる可能性も、決して低くはないのです。例えば、子どもが独立することを不安に感じ過ぎる親と、その子どもとの関係を連想してください。

この、密着したこころの状態から自分が離れることを意識しただけで個人が感じるこころの痛み、この内的な体験は、人間の集団における凝集性を高め、一体感を維持することに役立っています。私的でローカルな集団であるほど、全体をまとめるためにその傾向に強く頼っていることが普通で、大規模な公的な集団になると、このような目に見えない心理的な拘束力だけではなく、さまざまな可視化されたルールや契約・義務の観念などで補強されていくようになります。

その中で、日本社会の特徴は、集団の秩序や凝集性を維持するための仕組みとして、この心理的な機制に過剰に依存し、他のルールの設定などへの努力が乏しいことであると、私は日頃より考えておりました。そんな中で、先日の芸能界でのSMAPの騒動は、そのことへの確信を強めてくれた出来事でした。

つまり、心理的な機制に訴えることが集団をまとめる鍵であるならば、リーダーの役割は皆が納得して共有できるようなルールを設定することではなくなります。その代わりに、自らを道徳的な価値(みんなの和を守って、全体を盛り上げていくこと)の源泉の位置に置き、そこからの分離独立を果たそうとする人物を、道徳的に低劣な存在として、集団のメンバーに確認させることが、リーダーとしての沽券を守るために求められる行動となるわけです。(したがって、集団の中で劣位な立場にある人は、集団の中でくり返し罪悪感を押し付けられることになります)。

くり返しますが、このような集団のあり様は、私的な小集団のものとしては、決して珍しくないものです。しかし、日本社会の特徴は、それが大規模な公的なものでも、そして日本全体としても、この心理機制に頼って集団の凝集性を維持しようとする傾向が強いことです(参考として、拙論「共同体についての意識の分裂と混乱」も挙げさせていただきます)。

そして、リーダーが日本的道徳の源泉の位置を占めているのと同様に、日本的集団内で一定の位置を得たいと望む者も、日本的道徳における優位性をアピールする必要があります。そのような集団は、道徳的に低劣と見なせる存在をスケープゴートとして必然的に求めるようになります。最近で言えば、ベッキーとゲスの極み乙女のボーカルとの間の不倫騒動などは、このような目的にはちょうど良い話題だった訳です。

さて、このようなこころの動きは大部分無意識的なものです。そしてこういった心理機制が横行することの何が問題かといいますと、本当に重要な現実的な事柄が考えられなくなってしまうことなのです。

現在、日本人のこころが(日本人だけではないかもしれませんが)、どんどんとナルシシスティックな方向に退行を強めている嫌な感触を持ちながら生活をしています。ナルシシスティック・パーソナリティーの特徴は、自分が得意な、他者からの賞賛を期待できる事柄については、非常に高い能力を示すことです。

それと同時に、自分の弱みが露呈してしまうような内容については、極端にその能力が低下します。なぜなら、得意なことをしている時には、ナルシシズムが満たされるし、苦手なことをしている時には、ナルシシズムが傷つくからです。

さて、ビオンという精神分析家によると、こころが適切に現実に出会えるか否かについては、3つの段階があるそうです(こちらについては、「コフートの自己心理学とビオンの「考えることの理論」」もご参照ください)。

 (1)適切に考えることができる段階
 (2)道徳的な断定を行ってしまう段階
 (3)そもそも、不快をもたらす対象を、なかったことにしてしまう段階

さすがに日本は大国なので、さまざまな分野で有効な活動を継続しています。ただし、最近はそういう部分をアピールして、賞賛されることを求める傾向が高まっているようです。そして、SMAPやベッキーらの不倫騒動に見られるような、道徳的な万能感を発散させるだけのような話題も、相変わらず嫌いではないようです。

しかし、重要なのは、なかなか解決策の見つからない、しかし本当に重要な国家的な課題について、知ろうとするこころの機能が働いていない点でしょう。こころから「排除」されています。

私が(3)の段階について連想するのは、黒澤明監督の『生きる』という映画の、ラストシーンです。最後の命を振り絞って、地域の公園を作ろうとするがん患者の努力は多くの人を巻き込んで感動を呼び起こし、その夢は実現しました。しかし、ラストシーンは残酷です。そのような感動的な出来事が実現したことが、「なかったことにされた」のです。そして、「なかったことにする」というのは、直接的な攻撃以上の、破壊的な影響を目指した究極的な応答であると言えるでしょう。

それではどうすればよいのか、という問題になるのですが、私は自分の今までの進め方は間違っていたのではないかと、最近は反省するようになりました。

つまり「日本的なもの」を西洋近代的なもの、啓蒙主義的なものと対立させるような思考法です。その立場からこの問題を解決しようとすると、日本的な集団運営のあり様を問題視し、タテ社会の論理などを否定して、法と契約と個人の概念を基本に構成される社会制度を理想化することとなります。

ところが、アメリカの共和党の大統領候補のトランプ氏などを見ていると、人間のやることは、日本だけではなく基本的にはどこの国も同じようなものであるという思いが強くなってきました。時代の転換期においては、美徳は失われやすいのかもしれません。

「集団への一体感」から「個性化」の過程については、二項対立ではなく、それぞれの集団で、時期によっても異なるような、さまざまな段階があると考えるのが妥当なのでしょう。すると、日本の場合でも現状を肯定して誇りを守りつつ、漸進的に無理なく個性化を進めていくのが適切な道となります。

たとえば「タテ社会の論理」を前近代的としてこれを否定するだけでは、日本的集団は凝集性を失って、バラバラな対立ばかりを展開することになるでしょう。孤立した個人がそれぞれ小天皇のようになって、「道徳的な優位性」を目指したナルシシスティックな闘争を展開するようになり、羨望が飛び交ってお互いの足を引っ張り合うような、全体としての一致した行動がとれない混乱状況が出現してしまうかもしれません。

もちろん、完全に独立独歩で物事を成し遂げる人もいると思いますが、そのような人物について一般論で語ろうとするのは無意味です。境界のあいまいな日本的集団を肯定した上で、いつまでもそこに留まることにナルシシスティックな満足を得ることを警戒しつつ、集団全体としては共有できるルールの設定、各個人においては一貫した社会的な責任主体たりえる自我の確立を、現実に即して漸進的に成し遂げていくことが重要だと考えます。

そのためには、分離の予感がもたらすこころの痛みへの耐性を獲得していくことも必要です。

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