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「心の性別」って何?

2015年07月17日 14時49分 JST | 更新 2016年07月14日 18時12分 JST

「心が痛むわ(J'ai mal au cœur)......」

泣ける映画を見ながら、私はオシャレにフランス語でそう言ったつもりでした。

「それ(J'ai mal au cœur)、『ゲロ吐きそう』って意味だよ」 日本語も話せるフランス人の妻が、日本語でそっと私にツッコミを入れました。

牧村朝子(まきむら あさこ)

1987年生まれ。タレント、文筆家。2010年、ミス日本ファイナリスト選出をきっかけに、杉本彩が社長を務める芸能事務所「オフィス彩」に所属。2013年、フランスでの同性婚法制化とともに、かねてより婚約していたフランス人女性と結婚。現在はフランスを拠点に、各種媒体への執筆・出演を続けている。将来の夢は「幸せそうな女の子カップルに"レズビアンって何?"って言われること」。著書『百合のリアル』(星海社新書)、マンガ監修『同居人の美少女がレズビアンだった件』(イースト・プレス)。

Twitter:@makimuuuuuu

フランス人女性と結婚し、フランスに住む日本人の私。日常生活でもできるだけ、しゃべれないなりにフランス語を話さないといけません。そこで日本語の「心が痛む」をフランス語に直訳して言ってみたのに、よりによって「ゲロ吐きそう」という意味になってしまっていたのです。

まったくもう、それこそ心が痛んだわよ!

外国語を勉強すると、こういうことがよくありますね。ある表現を外国語で言ってみた結果、ぜんっぜん違う意味になってしまうということが。

だって言語によってそれぞれ、モノの捉え方が違うんだものね。

日本語で「いいお天気ですねぇ」と言うところを、ナイジェリアやニジェールで使われているハウサ語では「さいきん雨降った?」と言うそうです。英語で「Good morning(よい朝ですね)」と言うところを、セネガルやモーリタニアなどで使われているウォロフ語では「平和な夜を過ごしましたか?」と言うそうです(参考:『世界の言語入門』黒田龍之助)。

そうやって考え方の違う外国語から言葉を輸入すると、時に、思ってもいないような意味になってしまうことがあります。

今回取り上げる「心の性別」という考え方も、実はその一つなのです。

それではまず、ご投稿をご紹介しますね。

先日、牧村さんの書籍で性自認という言葉に触れ、自分の性自認は何だろうと考えたのですが、そもそも心に性別はあるのか、あるとしたら何を根拠に置けばいいのか分かりません。 体の性別に違和感があるわけではないのですが、自分の心が男と女のどちらなのか、それともどちらでもないのか、考えてもピンと来ません。 牧村さんは、心の性別とはどういったものだとお考えですか?

(全文そのまま掲載させて頂きました)

『百合のリアル』を読んでくださってありがとうございます。

「性自認」は英語の「Gender identity」を日本語で表現しようとした言葉で、『百合のリアル』35ページにも書いた通り「自分の性別をなんだと思っているか」という意味です。これを「性自認」でなく、「心の性別」と訳すやり方をよく見かけます。

でもね、この「心の性別」って表現、ご投稿者の方のおっしゃる通り、すっごくツッコミたくなるわよね?

「心に性別ってあったんだ!?」って。

生まれたばかりの赤ちゃんの股間を見て「おめでとう! 元気な男の子です!!」って言うみたいに、なんかスピリチュアルな人が私の心を見て「あなた、実は立派なモノをお持ちですよ......」って言ったりするとでもいうのかしら?

さて、こうして考えていくと、あることに気づきます。

「心の性別」という表現は、私たちにある前提を飲みこませる、ということに。

「心の性別」っていうけれど、それ、そもそもそれぞれ「心」「性別」というものが存在すると信じてはじめて生まれる考え方でしょう。そのうえで「人はなにかしらの性別を生まれ持つ」と思うから、「自分の心の性別はなんだろうか」と考えることになるのよね。

ということで、「心の性別」の存在を信じることは、以下の3つの前提を飲み込むことにもつながってきます。

1.人はそれぞれ、客観的に判断できる不変の性別を生まれ持つ。(性別における本質主義)

2.人は、心と体でできている。(心身二元論)

3.人は、男か女いずれかの性別に分けられる。(男女二元論)

だけどこれら3つの前提は、もちろん絶対的真理じゃないわけです。

あくまで考え方のひとつにすぎません。 視点を変えれば、以下のような考え方だってできるわよね。

1.人はみんな違うけれど、社会の中で男女の区別をされる。(性別における社会構築主義)

2.人の心と体は、区別できないひとつづきのものである。(心身一元論)

3.性はいくつかに区別しきれない、虹のようなものである。(性別グラデーション論)

どちらかといえばこういう考え方のほうが"最近の流行"です。ただ、私はこれもまた、絶対的真理だとは思いません。「どっちが正しい」じゃなくて、「それぞれ見方が違う」。それだけの話なんだと思います。

だから「心の性別」っていうものの見方も、別に信じなくったっていいのよ。

「心が痛い」をそのままフランス語で言うと「ゲロ吐きそう」って意味になっちゃって通じないのと同じように、「Gender identity」を日本語で「ジェンダーアイデンティティ」とか言うと「あっなんか女性の権利とかの活動家の人かなぁ」みたいなイメージになっちゃって通じにくいから、「心の性別」という訳語があてられた。それだけのことなのよ。

そして「心の性別」という訳語があてられたのは、たまたま現代日本社会に性別本質主義的・心身二元論的・男女二元論的なものの考え方をしている人が多いから。

生まれる前から「男の子かなぁ、女の子かなぁ」と言われ、生まれてみれば「こころとからだの健康」とか言われ、学校で「男女平等」とか言われる教育を受けて育つ現代の日本人にとって、「心の性別」という言い方はとってもキャッチーなわけよね。

「個人が自認する性別で生きることは人権である」という考え方がなじんでいない現代日本社会において、「心の性別と体の性別が一致しない障害なんです」いう説明はとってもキャッチーなわけよね。

ということで「心の性別」の正体は、翻訳の過程で生まれたイメージなんです。

だから、ないと思えばない、あると思えばあるってものなのよ。

物事はただ、捉え方ひとつです。どんな言葉で語るかということが、私たちに違ったものの見方をもたらしてくれます。

日本語で「心」と言われるものは、たとえば英語で「マインド」「ハート」、フランス語で「エスプリ」などと表現されます。それぞれ「心」とは微妙に違った視点でしょう。沖縄の言葉には「ちむぐくる」という、「真心」に近いような独自の概念もあるそうですよ。ギリシャ語にも「ケフィ」という、日本語に訳せない独自のギリシャの心を指す言葉があります。アフリカや中東ではきっと、もっともっと違った「心」の捉え方をするのかもしれないわね。

そういう多様性を知って、私は「心の性別」というものを何か絶対的に存在するものだと考えなくなったんです。ないと思えばない、あると思えばある。そういうものだと思っています。

ただ、やっぱり世界は選んだ言葉の通りに見えるもの。現代の日本人として「心」を「心」という言葉でとらえる私は、悲しい映画を観ると心臓あたりがきゅーっとなります。

だけどね、古代シュメール人は「心は肝臓にある」って信じてたんですって。シュメール人に悲しい映画を見てもらったら、「肝臓がきゅーっとするわぁ」って感じるのかしら?

そんな感じで現代の私たちも、いつかこう言われるようになるのかもしれませんね。「2015年の日本人は、心というものに性別というものがあると捉えていたようだ」......って。

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