1999年に飛行機事故でこの世を去ったペイン・スチュワート(享年42)の物語には、いつも愛妻トレイシーの存在があった。
スチュワートの死後にトレイシーが著した『Payne Stewart』(日本では『ペイン!』ゴルフダイジェスト社、舩越園子訳)の中で、トレイシーは最愛の夫を「永遠のソウルメイト(心の友)」と呼んでいた。
試合会場ではニッカボッカーズ姿のスター選手だったが、「素顔は甘えん坊の男の子みたい。そのくせ、言い出したら絶対に引かない頑固者で聞かん坊。でも、そこにはペインの優しさが必ず溢れていることを私は知っていました」とトレイシーは書いていた。
中でも印象的だったのは、この話。1982年に初優勝、1983年に2勝目を挙げたものの、以後はなかなか勝てず、万年2位だったスチュワートが、ようやく米ツアー3勝目を挙げたのは1987年3月の「ベイヒル・クラシック」。4年ぶりの復活優勝を挙げたわずか2日後、スチュワートはトレイシーにこう言ったのだそうだ。
「トレイシー、オレさあ、がんで苦しむ人々のために寄付しようと思っているんだ。父さんが苦しんだのと同じように、がんで苦しんでいる患者さんたちのために、オレの賞金を役立てたいんだ。オレたちが経験したのと同じようなつらさを味わっている家族のためにも力になりたいんだよ」
トレイシーが「ペイン、すばらしいことだわ。それで、いくらぐらい寄付するの?」と尋ねると、スチュワートは「優勝賞金、全部。10万8000ドル(当時のレートで約1600万円)全部、寄付したい」と答え、トレイシーは一瞬言葉を失ったという。
当時、米ゴルフ界で賞金の全額寄付は前例がなく、逆にそんな大それたことをしたら「ゴルフ界の人々がアナタのことをどう思うのかしら?」と心配になったという。だが、結局、トレイシーは「アナタがそうしたいのなら」と頷き、夫の背中を押した。スチュワートが米国を代表するほどのスタープレーヤーとして人気を博していった背景には、最大の理解者である肝っ玉ワイフの存在があった。そして、スチュワート夫妻のこの決断は、米ツアー選手が大災害の被災地などへ賞金全額を寄付する慣行に先鞭を付ける形になった。
とはいえ、スチュワートとて聖人君子というわけではなく、1991年の「全米オープン」優勝後、高額の契約料に魅せられてクラブを替え、不調に陥った。そんな夫に「本当に大事なものを見つめるべきじゃないの?」と告げることができたのは、世界でただ1人、妻であるトレイシーだけだった。
スチュワートは1999年の「全米オープン」を制したわずか4カ月後に飛行機事故で天国へ逝ってしまったが、陰となり日向となり、時に優しく、時に厳しく、夫を支え続けた妻トレイシーの姿とスチュワート夫妻の物語は、大勢の人々にとって永遠のバイブルになった。
そして、トレイシーのごとく、プロゴルファーである夫を献身的に支える女性たちの存在は、あれから10年、いや20年近い歳月が流れている現在も米ゴルフ界に確かに見られる。
マーク・リーシュマンの場合
2018年を「トップ・オージー」という肩書きで迎えたのは、米ツアー選手のマーク・リーシュマン(34)。ほんの数年前まで、オーストラリア出身選手と言えば、ジェイソン・デイやアダム・スコットに代表されていたが、今年の幕開け時点ではデイが世界ランキング13位、スコットが31位まで後退した一方で、以前は地味で目立たなかったリーシュマンが12位へ浮上。オーストラリア人選手のナンバー1へ躍り出た。
そのリーシュマンが、まだ米ツアーの下部ツアーを転戦していた独身時代のこと。ある日、米バージニア州の片田舎で試合に出ていたリーシュマンは、バーで1杯だけビールを飲むという小さな贅沢を味わおうと意を決して出かけて行った。
ムードも味気も豪華さもない場末の安いバーだったが、彼の目に美しい一輪の花として映ったのが、オードリーという名の若い女性。彼女はバーでアルバイトをしながら学費を稼ぎ、地元の大学に通っていた女子大生だったが、その日から一流プロゴルファーを夢見るリーシュマンのソウルメイトになり、どんなときも誰よりも彼を応援する応援団長になり、数年後、彼の妻となった。
オードリーがオーストラリア人のリーシュマンの米国生活を必死に支えながら2人目の子供を産んだばかりの2015年の春。彼女の体調は急激に悪化し、敗血症と診断された。「生存できる可能性は5%以下」と医師から告げられ、リーシュマンは目前だった「マスターズ」を欠場し、ツアーからも離れて神に祈りながら病床の妻を見守った。
そして、オードリーは奇跡的に回復し、すぐさまリーシュマンとともに敗血症の人々をサポートするための財団「ビギン・アゲイン・ファウンデーション(Begin Again Foundation)」を設立。同財団とリーシュマン夫妻は、すでに900人以上の敗血症患者と家族をサポートしてきたそうだ。
「ゴルフで稼ぐから食卓に食べ物が並ぶ。でもゴルフはゴルフであって、生死を左右するものじゃない」
その精神をリーシュマンは妻から学び、「僕の心はいつも妻のおかげで元気になる。だからゴルフも元気になる」と感謝している。
昨年は「アーノルド・パーマー招待」とシーズンエンドのプレーオフ第3戦「BMW選手権」を制し、年間2勝、通算3勝目を挙げた。7月には3人目の子供も生まれ、公私ともに充実。かつてのスチュワート同様、リーシュマンもソウルメイトである良き伴侶、良き妻の内助の功で、どんどん強くなりつつある。
自ら髪を剃った妻
オーストラリア出身のジャロード・ライル(36)が初めて白血病と診断されたのは、17歳のときだった。
7歳からゴルフを始めたライルは、そのときプロゴルファーになる夢を諦めかけたが、母国出身の米ツアー選手、ロバート・アレンビーらの励ましで夢を追い続け、白血病を克服後、ついにプロ転向。2009年から米ツアーに参戦した。
だが、愛妻ブリオニーが初産を控えていた2012年3月、ライルは再び白血病を発症した。母国へ戻ったライルは、まず妻の出産に立ち会い、無事に生まれた娘を12時間、眺め続けた後、白血病との闘病を始めた。
感染などを防ぐため、闘病中のライルは娘を抱くことも触れることも許されず、つらい日々を送っていた。
化学療法の副作用で髪がすっかり無くなったとき、妻は何も言わずに自分で髪を剃り、愛する夫に寄り添った。そんな妻の想いと励ましに、ライルは「心の底から救われた」。
2014年から再び米ツアーに復帰したライルの傍らには、いつも穏やかに微笑む妻の姿があった。
しかし、そんな平和は永遠には続かず、今、ライルは生涯3度目の白血病を発症し、闘病生活を送っている。
壮絶なライルの人生。どんなに辛く悔しいことだろう。唯一、良かったなと思えることは、ライルのそばに愛妻ブリオニーがいてくれること。妻の励ましがライルにとって最大で最高の力になる。そう信じながら彼の復活を祈ろうと思う。
J・スピースの婚約者
おめでたいニュースもあった。世界ランキング2位、メジャー3勝の24歳、ジョーダン・スピースが婚約した。お相手はスピースが故郷テキサス州のハイスクール時代から交際を続けてきたアニー・ベレット嬢。
彼女の存在が世間の知るところとなったのは、スピースが2015年の「マスターズ」を制したときだった。しかし、それ以後、アニー嬢が試合会場にやってきたことは数えるほどしかなかった。
「なぜなら彼女は、とても忙しいから」
スピースは、さらっとそう言っていた。愛する彼氏の試合の応援より彼女が優先するのは何なのかと言えば、それは彼女の仕事だそうだ。
テキサス工科大学を卒業したアニー嬢は「ファースト・ティ・ダラス」に就職。「ファースト・ティ」とは、米ゴルフ界の主要団体や多数の企業などが協力し合い、経済的、社会的に恵まれない子供たちにゴルフに触れる機会を与え、ゴルフを通じて人間教育を行っていく目的で1997年に創設された非営利団体。そのテキサス州ダラス支部に彼女は勤め始めた。
その後、彼女は「バースデー・パーティー・プロジェクト」のディレクターに就任。ホームレスの人々、あるいは暴力や犯罪など何かの理由でシェルターなどに身を寄せている人々の誕生日を祝い、心を開き、社会復帰を促していく。そういうプロジェクトを彼女は一生懸命に率いており、それが何より忙しくて、スピースの試合にはなかなか行けないそうなのだ。
神経に障害を持って生まれた妹エリーを常に気にかけ、大事にしているスピース。そんな彼氏の姿を高校生のころから眺め、一緒に接してきたからこそ、アニー嬢も社会貢献や福祉に力を注ぐようになったのかもしれない。
いや、そもそも強く優しい心を抱くアニー嬢だからこそ、スピースが彼女を恋人に選び、そして生涯の理解者、ソウルメイトに選んだのだろう。
良き伴侶、良き妻が一流プレーヤーの最大の支えになる。いかに時代が変わろうとも、それだけは永遠に変わることはない。
舩越園子 在米ゴルフジャーナリスト。1993年に渡米し、米ツアー選手や関係者たちと直に接しながらの取材を重ねてきた唯一の日本人ゴルフジャーナリスト。長年の取材実績と独特の表現力で、ユニークなアングルから米国ゴルフの本質を語る。ツアー選手たちからの信頼も厚く、人間模様や心情から選手像を浮かび上がらせる人物の取材、独特の表現方法に定評がある。『 がんと命とセックスと医者』(幻冬舎ルネッサンス)、『タイガー・ウッズの不可能を可能にする「5ステップ・ドリル.』(講談社)、『転身!―デパガからゴルフジャーナリストへ』(文芸社)、『ペイン!―20世紀最後のプロゴルファー』(ゴルフダイジェスト社)、『ザ・タイガーマジック』(同)、『ザ タイガー・ウッズ ウェイ』(同)など著書多数。