英国で「離婚」と言われると、私たちの世代はどうしても、チャールズ皇太子とダイアナ妃を思い浮かべてしまう。「独立は、一時的な別居ではない。痛みを伴う離婚だ」。スコットランドの住民投票の直前、キャメロン英首相が感極まる声でこう呼びかけるのを聞いて、パパラッチが群がった1996年「世紀の離婚劇」の場面が脳裏によみがえった。
かの2人の場合、離婚した後もゴシップの対象となり続け、翌年のダイアナ妃の事故死を越えて余韻は今でも残っている。英国とスコットランドの離婚劇の場合、思いとどまって関係を続けることになったものの、やはり今後も長く尾を引くに違いない。
18日の住民投票は、接戦になるだろうという直前の予想をやや裏切って、10ポイントあまりの差がついて独立が否定された。ただ、これをもって問題が片付いたとは言い難い。むしろ、もっと大きな変動の始まりかも知れない。
洗練された政治的潮流
スコットランドには、独自の文化のイメージがつきまとう。タータン・キルト、バグパイプ、スコッチ・ウイスキー、スコットランド・ゲール語......。ロンドンの英国紳士のイメージとは異なる香りを醸し出している。
ただ、これをもってスコットランドを1つの民族集団ととらえると、問題を見誤る。これらの文化の中には、観光や産業振興の目的から近代以降に強調されたものが少なくない。現在のスコットランド独立運動にも、文化的アイデンティティーやマイノリティーの権利擁護といった要素は薄い。
独立派が主張するのはむしろ、英国との「価値観の違い」だ。英国平均に比べて左派、進歩的、多文化主義、欧州統合支持というスコットランドの政治風土こそが、独立への最も大きな推進力となっている。スコットランド独立運動は、洗練された政治的潮流ととらえるのが正しいだろう。
スコットランドは確かに、途中までイングランドとは異なる歴史を刻んできた。9世紀にまで起源がさかのぼるスコットランド王国は、イングランドとの間で戦争を繰り広げた。特に、イングランドの女王エリザベス1世と対立し、最終的に処刑された16世紀のスコットランド女王メアリー・スチュアートの物語は、小説やオペラ、映画で語り継がれた。
一方で、メアリー・スチュアートは一時フランス王妃となったり、イングランド王位継承を狙ったりと、結構ボーダレスに動き回った人物でもある。1648年のウェストファリア条約締結以前の欧州は、国家よりも宗教とか家柄とかが重視されたから、それも不思議でない。その頃「スコットランドが独立していた」と言っても、現在の意味での独立とは言い難い。
特に、同じ島の中にあるイングランドとは、関係が極めて密接だった。その流れの中で、スコットランドとイングランドは1707年、連合王国を形成した。以後、スコットランドは独自の法体系や教育制度を維持しつつも、英国の中に溶け込んだ。1934年には小政党を統合してナショナリスト政党「スコットランド国民党」(SNP)が発足したが、独立志向と自治志向の双方が同居した党内はまとまらず、2大政党による英国全体の対立構造の中に埋没するケースの方が多かった。
甘すぎたキャメロン首相の読み
スコットランド国民党の躍進は、1970年代に入ってからである。石油危機によって2大政党への不信感が高まると同時に、スコットランド沖で開発が本格化した北海油田への期待も高まった。80年代に入ると、地元の基幹産業だった鉄鋼や造船が英サッチャー保守党政権に切り捨てられていく。英国への募る不満を、党は吸収した。
「小さな政府」と自由競争を志向し、金融立国を目指した英国に対し、スコットランド国民党は北欧型の高福祉社会と「大きな政府」、環境重視の姿勢を理想と位置づけた。地域ナショナリズムにとらわれず、このように独立後の明確な国家イメージを提示できたことも、スコットランド国民党の勢力伸長に結びついた。
1997年、英国にブレア労働党政権が誕生し、スコットランドの自治が進展した。この年の間にスコットランド議会の設置が住民投票で決まり、立法権が付与された。
スコットランド国民党は2007年、スコットランド議会選挙で第1党となり、スコットランドの政権を担った。この時は少数与党だったが、続いて2011年の選挙では単独で過半数の議席を獲得した。自治政府の首相(首席大臣)は議会から選ばれるため、いずれも党首のアレックス・サモンド氏が務めた。
英国では2010年に保守党が政権を握り、キャメロン氏が首相に就任した。両氏の間でいわゆる「エディンバラ合意」が成立し、今回の住民投票を実施すると決まったのは、2012年である。住民投票を要求するスコットランド側の声を抑えられないと英国側が判断したからだと言われる。一方で、独立への支持は当時3割程度にとどまっており、「実施しても独立派が勝つことはあるまい」との見通しもあった。
その読みが甘すぎたのは、その後の経緯が証明している。
独立後の国家理念
どこの独立運動にも見られるように、スコットランドでもナショナリズムを鼓舞し、地域エゴを擁護する言動が、なかったわけではない。ただ、スコットランド国民党の近年の取り組みは、割と理性的だ。北海を隔てて対岸に位置するノルウェーをモデルに、福祉の充実と再生エネルギーの利用、非核兵器化、親欧州連合(EU)の立場といった、国家としての基本理念を固めた。
住民投票のキャンペーンで、スコットランド国民党はこのような理念に立脚し、地域に根ざした小集会や対話を地道に繰り返した。英政権と結びついた独立反対派が、大企業の名前ばかり並べつつ市民への直接の働きかけを怠ったのとは、対照的だった。
その結果、キャメロン首相らが最終盤になって慌てふためいたのは、すでに報じられている通りである。独立への反対5割、賛成3割程度で推移してきた世論調査で、賛成の声が8月末になって急上昇し、反対支持に迫る勢いとなった。サンデー・タイムズ紙の9月7日の調査結果では、ついに賛成が51%を得て逆転した。追い込まれたキャメロン首相らは、スコットランドへのさらなる自治拡大を約束し、支持を引き戻そうと懸命になった。
最終的に18日の投票で、賛成が44.65%、反対が55.25%に落ち着いたのは、独立に伴う混乱を避けたい意識が働いたと考えられる。
反対派にとって理想的結果
もっとも、言葉では同じ「独立」ではあるにせよ、現在のスコットランドが求める「独立」と、20世紀の植民地解放運動や民族自決の文脈で語られる「独立」との間に、共通点は乏しい。何より、英国はすでにEUの加盟国であり、多くの権限をすでにブリュッセルに移譲している。スコットランド独立派も、すぐに実現するかどうかは別にして、独立後はEUに単独加盟することをうたう。つまり、あくまでEUという大船に乗った上での「独立」であり、「孤立」ではないのである。荒海に1人でこぎ出すわけではなく、湖にヨットを浮かべる程度と言えるかも知れない。
スコットランドはすでに、一次立法権を含む広範囲な自治を獲得している。教育や住宅政策、内務、社会サービスも担っている。これに、キャメロン首相が約束したさらなる自治拡大が加わると、スコットランドは独立とほとんど変わらない権限を持つに至るだろう。英政府が持つ権限は外交や国防、金融などの分野に限られる。
しかも、形式的には独立しないことになったのだから、通貨や国籍、国家債務の分担などを巡る英国との煩雑な交渉も避けられた。独立派にとって、今回の住民投票の結果は、実は理想的だと言えるかも知れない。
サモンド首相の手腕と功績
一連の騒ぎの立役者は、独立運動を率いていたスコットランド自治政府のアレックス・サモンド首相である。丸顔で、豪放で、毀誉褒貶が激しく、「傲慢」「うぬぼれが強い」などと欧州メディアは書き立てる。特に女性の間で彼を嫌悪する声が強く、「スコットランドのロベスピエール」などと批判された。
一方で、リーダーシップと戦略家としての才能への評価は高い。自らが信じる政治理念を内部に浸透させようとする意志を備え、英国の指導者と自治拡大を交渉する現実性も持ち合わせ、ナショナリスト政党だったスコットランド国民党を政権担当可能な政党へと脱皮させる原動力となった。
サモンド氏は1954年の大晦日、エディンバラ西方の小都市リンリスゴーの庶民の家庭に生まれた。この街にはちなみに、メアリー・スチュアートが生まれた城がある。名門セントアンドルーズ大学に進学して経済学と中世史を学び、スコットランド農林水産局に2年ほど勤め、この時の上司だった17歳年上の女性と結婚した。大手銀行ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドに移ってエコノミストとなり、原油市場の分析で高い評価を得た。
一方で、学生時代からスコットランド国民党の活動家として鳴らし、党内左派の論客としてキャリアを積んだ。87年から副党首と英国下院議員を務めた後、90年に党首に就任。英労働党政権との間で自治拡大の交渉を進め、スコットランド議会の創設を実現させた。
2000年にはその独善的な姿勢を批判されていったん党首の座を追われるが、4年後に復帰した。2007年からは自治政府首相を務めている。
スコットランドはもともと北欧志向が強いところだが、その意識を一貫性のある政策にまとめ、独立の理念として打ち出すことができたのは、サモンド氏に負うところが大きい。例えば、彼は1999年の北大西洋条約機構(NATO)によるユーゴ空爆、2003年の米英によるイラク戦争などに強硬に反対する姿勢を貫き、軍事行動に慎重な意識を党内にも広めた。この姿勢は政治風土としてスコットランドに定着し、グラスゴー近郊にある英唯一の核兵器搭載原子力潜水艦基地の撤去を求める独立派の政策にも結びついている。また、「イラク戦争参戦の失敗を2度と繰り返さない」との意識は、スコットランドが独立を求める最大の理由の1つとして、地元の人々に広く共有されるに至っている。
住民投票で敗れた後、彼は自治政府首相を退任すると表明した。ただ、しばらく影響力を失うことはないだろう。彼なくして独立派はここまで来られなかったと、誰もが認めるところだからだ。
宴はまだ終わらず
もし独立が決まっていたら、逆にキャメロン首相の方が辞任に追い込まれていたに違いない。住民投票を実施したこと自体が大失政であったからだ。
独立が回避され、キャメロン氏は勝者のような顔を一応しているが、今後も困難が待ち受けている。宴はまだ終わっていない。
当面の関門は、来年迎える総選挙だ。今回の騒ぎで保守党政権が評価を高めたとは到底思えず、キャメロン首相の保守党は苦戦を強いられるだろう。これを乗り越えたら乗り越えたで、2017年にEU脱退の是非を問う国民投票を実施することになっている。これは、EU懐疑派の取り込みをにらんでキャメロン首相が昨年打ち出した公約だ。ただ、これは英国民の世論を分ける問題で、スコットランド住民投票と同様、自らに降りかかってくる騒ぎとなりかねない。
仮にEU脱退などの結果が出たら、EU支持傾向が強いスコットランドは、今回以上の決意で独立を勝ち取ろうとするだろう。
英国は、スコットランド以外にもウェールズ、北アイルランドが、程度の異なる自治機能を有している。これらの地域がなぜ、英国に残留すべきなのか。英国にとどまるとどんな利益があるのか。英政権は、それを理論立てて説明し、説得していく必要がある。さもないと、あちこちで独立の声が上がるだろう。英国大変動の時代がやって来ないとも限らない。
早くもスペインに飛び火
スコットランドの住民投票は、欧州の他の国にも影響を与えるに違いない。常識的には、今回独立派が健闘したことで、分離独立を掲げるグループが活動するスペインのカタルーニャやバスク、ベルギーのフランドル、フランスのコルシカといった地域は勢いづくと見られている。一方で、そのような騒ぎを防ぎたい各国政府は、英国の対応から大きな教訓を得ただろう。キャメロン首相のようにうかうかと投票を認めると、何が起きるかわからない。これを機に、各国政府側は締め付けを強めると考えられる。
スペイン東部のカタルーニャ自治州議会は19日、独立の是非を問う住民投票のための法案を可決した。11月9日に実施する方針だ。スペイン政府はこれが違憲だと主張し、憲法裁判所に訴える構えを見せている。そこには「投票には持ち込ませないぞ」というスペイン政府の決意がうかがえる。
国末憲人
1963年生れ。85年大阪大学卒。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。富山、徳島、大阪、広島勤務を経て2001-04年パリ支局員。外報部次長の後、07-10年パリ支局長を務め、GLOBE副編集長の後、現在は論説委員。著書に『自爆テロリストの正体』(新潮新書)、『サルコジ―マーケティングで政治を変えた大統領―』(新潮選書)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』(いずれも草思社)、共著書に『テロリストの軌跡―モハメド・アタを追う―』(草思社)などがある。
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(2014年9月24日フォーサイトより転載)