2017年、9月9日。バングラデシュ、チッタゴン管区コックスバザール県にあるロヒンギャ難民キャンプ。
初めて足を踏み入れた難民キャンプの現実は、想像を絶するものでした。
「ロヒンギャ難民?」
ちょうど1年前の冬、私たちは国際協力について勉強会の中でその名前を知りました。
ロヒンギャ、とはミャンマー北西部のラカイン州に暮らすイスラーム系民族のことです。
彼らはミャンマー国内では国籍を与えられておらず、長年差別や暴力の対象となっています。
そのような迫害から逃れるために、ロヒンギャの方々は難民となって多くは隣国バングラデシュに逃れています。
アジアにも、難民はいる。
連日テレビで報道される難民は、遠いヨーロッパことでどこか自分たちには他人事...。しかし、ここアジアにも難民はいて、そして日本にもいる。
何も知らなった私たち。それでも、今、ロヒンギャ難民の人々の助けとなりたい。そんな想いで、私たちはSUAC For Peopleという団体を立ち上げました。
本当に何もない
2017年9月9日。うだるような暑さと時折降る雨の中、私はもう一人の団体のメンバーとともにバングラデシュのコックスバザールにある難民キャンプに向かっていました。
中心部から車を走らせて1時間ほど、隣に座っていたNGOスタッフが路上に車を止めさせました。
道路の両脇には、人、人、人...... 「ロヒンギャだ」と、彼が言いました。
私たちは急いで車を降りて、話を聞こうと密集している難民の方々に近づきました。赤ちゃんを抱いた女性が、私たちのインタビューに応じてくれました。
「二日前に着いたばかりよ、今は路上で暮らしているの。雨風もしのげないし、日差しも強い。本当に何もない。食べ物も、水も、家も、トイレも、寝る場所も、何も...」
子どもたちの置かれている苛酷な現状
ふいにNGOスタッフが私の服を引っ張って、指を指した先にはお母さんとおばあちゃんに抱きかかえられた双子の赤ちゃんがいました。しかし、その赤ちゃんの腕も足もガリガリにやせ細ってしまっていました。生後2週間ほどだというその赤ちゃんたちの目は閉じられており、反応が全くありませんでした。数日前、首都のダッカで友達の赤ちゃんを見せてもらいました。赤ちゃんのむちむちした腕と足を触りながら、赤ちゃんでこんなに柔らかいんだねと言ったことも思い出しました。突然火のついたように泣き出す赤ちゃんを見て、こんなに大きな声で泣くんだと思ったことも思い出しました。
でも、今目の前にいる赤ちゃんは友達の赤ちゃんとは全く違っていました。皮と骨だけの腕と足。小さく空けられた口からは、何も発せられることはありませんでした。
今にもその命の火は消えてしまいそうでした。ミルクも水も何もないの、と語るお母さんに私はかける言葉もありませんでした。今にも折れてしまいそうなか細い腕が、状況の苛酷さと悲惨さを物語っていました。
それから何人かの人々に話を聞きながら、今度はクトゥパロンのアンレジスターキャンプに向かいました。
8月25日以降、大量の難民が流入し、もはや町全体が難民キャンプであるかのような状態でした。
竹と黒いビニールだけで作られたシェルター。地面には何もなく、ただ雨でぬかるんだ泥があるだけ。
22人の親戚を殺された
キャンプの中を歩き回り、様々な人に話を聞きました。
そのキャンプの中に、80cmほどの高さしかない竹とビニールのシェルターに身を寄せ合っているお母さんと子どもたちがいました。
3日間ジャングルを歩き続けた、と話してくれたお母さんは親戚22人を殺された、とも話しました。目には涙が浮かんでいました。22人...、と絶句しました。耳を疑いました。
私の従兄妹たちや叔父・叔母の顔が浮かびました。本当に、現実でこんなことが起こり得るのかと思いました。
今まで私が知っていたのは、スマホの画面越しのロヒンギャ難民でした。スマホのニュースで伝えられる残虐なロヒンギャ難民の体験は、私の想像を超えていて正直現実味が感じられませんでした。
しかし、これらの出来事は本当に起きていて、それは今私の目の前にいる人が体験していることだと分かったとき、私は大きな衝撃を受けました。残虐な体験はその体験が極めて残虐だから、特別ひどい話だから報道されるわけではなく、多くの人がこのような体験をしているから報道されるのだ、とやっと気付きました。
サンダルの裏にしつこくまとわりつく泥の中を歩きながら、私は何とも言えない一種の興奮状態に陥っていました。私たちにも何かできることはある、必ず。そう繰り返していました。
9月9日の時点では、アンレジスターキャンプ、路上にいる大多数の人たちが受け取れる支援は地元住民の人々が突発的にトラックから投げる食糧だけでした。本当に何もない、誰もがそう口にしました。
小さな水のボトル、ビスケット、9人分の食糧はそれだけ
それから私たちは、ミャンマーとバングラデシュの国境付近に向かいました。
そこには、バングラデシュに着いたばかりのロヒンギャ難民がたくさんいました。
7人の子どもをもつと話す、一人の男性に会いました。30分前に着いたばかりだと語った彼の手には、小さな小さな水のボトルとビスケットだけが握られていました。他には何も持っていませんでした。
その男性が持っていたビスケット、それは私のお気に入りのバングラデシュ産のビスケットでした。いつもお土産に買って帰る、日本円で20円ほどのビスケットです。それが、彼の家族全員分の食糧すべてでした。それだけでした。ビスケットをお腹を満たす食糧として食べたことはありますか。晩御飯に15枚ほどのビスケットを9人で分け合うことが今までにありますか。
男性をインタビューしている間、男性の子どもらしき女の子がビスケットを食べていました。この子は、明日何を食べることができるのだろう......。今でも女の子の顔が浮かびます。
生命維持の危機
私たちがキャンプで感じたこと、それは本当に何もないということと、ロヒンギャ難民一人一人が生命維持自体に危機が迫っているということです。
劣悪なキャンプの状況、十分な行き届いていない医療支援、そして決定的な食糧不足。
想像以上に苛酷な現実は、確かにそこに存在していました。
「許されるのなら、故郷に帰りたい」
難民の一人が言った言葉です。
故郷に帰りたい、それは私が考えたこともなかったことです。実家に帰ろうと思えばいつでも帰れる、それはとても恵まれた状況であることを初めて気付かされました。
何があるわけでもなく、それでも懐かしく、恋しくなる場所が殺戮と虐殺の場所になって、二度と戻れない場所となる。それはどれだけ恐ろしく、悲しいことでしょうか。
私たちは、ただの学生です。高度な専門的知識も、スキルもありません。しかし、それでも、難民キャンプの現状を一人でも多くの人に伝えたいと思っています。
私たちの活動は小さなものかもしれません。多くの難民を救うことは難しいかもしれません。
それでも、私たちに辛い体験を語ってくれたロヒンギャ難民の人々のために私たちは活動します。