社畜の異常な愛情/または日本人は如何にしてラクするのを止めて労働を愛するようになったか

日本では「労働せずにカネを得る」のは不正義と見なされる。どんなわずかな収入であろうと、不道徳な――つまり勤勉で実直ではない――手段で得たものなら糾弾される。一方、労働の質については、あまり反省されない。どんなに非効率で社会的価値が低い作業でも、「仕事」であれば尊ばれる。

マイケル・サンデルによれば、アメリカ人は「失敗に報酬が支払われること」を許しがたい不正義だと感じるらしい。比べて日本人はどうだろう? 「労働せずにカネを得ること」にやたらと厳しい......という印象を私は感じる。右派と左派、保守とリベラルを問わず、「働かざるもの食うべからず」と主張する。

たとえば、ひたいに汗せず椅子に座りながら数億円を稼ぎ出す金融業界の人々を、左派は厳しく批判する。批判の根源にあるのは「労働せずにカネを得る (※少なくともそう見える)」のは許しがたいという感情ではないか。

また、生活保護の受給基準の厳格化に、右派の人々は諸手をあげて賛成する。もっとも根源的な賛成の理由は、「労働せずにカネを得る」のは許しがたいという感情ではないか。

あるいは、マンション建設の反対運動について考えてみよう。反対運動をしているのは建設会社からカネが欲しいだけの強欲なやつらだと、保守の人々は見なす。「プロ市民」という言葉を使って罵倒する。そうした批判の根源には「労働せずにカネを得る」のは許せないという感情があるはずだ。

公共施設の建設に反対運動など起きない国がある。 (ちょっと前の)中国だ。反対運動をしてもカネにならず、それどころか矯正施設に収容されてしまう。であれば、誰も反対運動などしない。マンション建設への反対運動は、「各個人はそれぞれの効用を最大化するように行動する」という、資本主義経済の根幹をなす発想の体現である。もしも「プロ市民」と呼ばれる人々が存在するとしたら、それは日本が自由で資本主義的な国である証拠だ。日本が中国のような国ではない証拠なのだ。

利害関係の衝突や、価値観の不一致、立場の違い......これらをお金で解決できないとしたら、私たちは武器を手に戦うしかなくなる。損得勘定はこの天と地で二番目に強い絆だ。

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日本人は「労働せずにカネを得る」ことを不正義だと感じるらしい。

特徴は2つある。1つは、得るカネがどんなにわずかでも糾弾されるという点。もう1つは、労働の質は問われないという点だ。

まず「得るカネがどんなにわずかでも許せない」という点について検証してみよう:たとえば数十万~数百万円であっても、不道徳な手段で稼いだカネならば日本人は激怒する。炎上事件の数々を見れば分かるとおり、合法的な手段であっても「ズルい」と感じれば私刑に処す。

数十万~数百万円という金額は、一生働かずに済むような大金ではない。企業の経済活動ならば1日で――わずか1日で――動く金額だ。しかし、日本人は許さない。不当な収入だと見なして、絶対に許さない。

わずかな金額でも許せないのは、やはり人類学者ジョージ・フォスターの言う「限定された富のイメージ」が背後にあるからだろう。

毎年一定の生産高しか得られない閉鎖的な農村を背景とする文化では、「社会全体の富の総量は変わらない」「誰かが儲けているのは、他の誰かから富を奪っているからだ」という発想が育まれる。こうした発想のことを「限定された富のイメージ」と呼ぶ。

実際には、経済の規模は拡大しつづけ、社会全体の富の総量は増え続けている。したがって「限定された富のイメージ」は単なる誤解だ。

たとえば現代日本の一般人は、太陽王ルイ14世よりも豊かな生活を送っている。たしかに宮廷料理人は雇っていないが、数時間ぶんの収入と同じ金額で、ルイ14世よりも豪華な食事を楽しめる。トイレは水洗で、疫病の恐怖もごくわずかだ。なぜか? 社会全体がルイ14世の時代よりも豊かになったからだ。社会全体の富の総量は増え続けるのだ。

しかし、それを日常レベルで実感するのは難しい。私たちの生活がルイ14世の時代よりも豊かになったからといって、明日の私の生活が豊かになるとは限らない。かくして「限定された富のイメージ」は私たちの心に深く刻み込まれたまま、いつまでも残り続ける。

「限定された富のイメージ」が蔓延する社会では、儲けている誰かを攻撃することが合理的な選択になる。もしも社会全体の富の総量が変わらないとすれば、「自分が貧しいのは他の誰かが儲けているからだ」「他の誰かに奪われているからだ」と考えざるをえなくなる。自分が豊かになるためには、すでに豊かな誰かを引きずり下ろすしかなくなる。

繰り返しになるが、「限定された富のイメージ」は錯覚だ。やや不道徳な方法でハシタ金を稼いだ人間を吊し上げても、あなたは豊かにならない。世の中も豊かにならない。誰も得をしない。

日本人は「労働せずにカネを得る」ことを許しがたいと感じる。どんなにわずかな金額でも目くじらを立てる。しかし、より深刻な特徴は「労働の質を問わない」という点だ。どんなに非効率で社会的意義の薄い作業であっても、「仕事」であれば許されてしまう。お刺身の上にタンポポを載せるような作業でも「大切な仕事」と見なされ、かけがえのないモノとして丁重に扱われてしまう。

豊さとは何だろう? BMWを乗り回してドンペリでバスタブを満たすことだろうか? それともマイホームで円満な家庭を築き、2~3人の子供たちを大学に入れることだろうか? ......どちらも「カネがかかる」という点では同じだ。消費活動という点では同じだ。問題は、どちらの消費活動がより「豊か」と呼べるのか、だ。

人間は自由で自律的な存在だ。である以上、消費活動の量と質では「豊かさ」を測れない。

2万円の歌舞伎公演を見に行くことと、2万円のWii Uを購入することの、どちらを「豊か」と呼べるだろう。美術館でエル・グレコを見るために1,600円を支払うことと、同じ金額でソシャゲのガチャを回すことの、どちらがより「豊か」だろう。こうした判断は、各個人の価値観にゆだねられる。

たしかに「ゲームよりも面白いコンテンツがありますよ」と啓蒙することはできる。しかし「ゲームは豊かではない」と断じるのは各個人の価値観であって、社会の普遍的な価値観にはできない。かつて、寄席に官憲が立会って「品川心中」や「風呂敷」「紙入れ」等の噺 (はなし)をしないように監視している時代があった。その時代に逆戻りしてはならない。人間が自由で自律的な存在である以上、どのような消費活動を愉しむのかは各個人の裁量に任せるしかない。

消費活動の量と質では「豊かさ」は測れない。同じことは生産活動にも言える。社会的な意義の薄い作業であったり、一見すると不道徳に見える職業であったり――その仕事に就くことが「豊か」とは呼べなさそうな生産活動がある。しかし、「この仕事は豊かである・ない」を判断するのは働いている本人の価値観であって、社会の普遍的な価値観にはできない。ある職業が規制されるのは、他の誰かに危害を加えている場合だけだ。

では、消費活動と生産活動を比較してはどうだろうか。

消費活動と生産活動を比較すれば「豊かさ」を測れるのではないか。

生物学者マット・リドレーは「豊さとは、よりわずかな生産活動で、より多様な消費活動を行うこと」だと定義した。17世紀フランスの一般市民は、一生かけて働いてもルイ14世のような食事にはありつけなかった。しかし現在の私たちは、わずか数時間の労働でそれを楽しめる。現在の高校生がアルバイト代で購入している携帯電話は、50年前に国家予算を投じて作ったコンピューターよりもはるかに高性能だ。

なぜ、こんなことが可能になったのだろう:社会全体、世界全体での分業が進み、生産効率が向上したからだ (※比較優位の原則)。「経済規模は拡大しつづけ、社会の富の総量は増え続ける」と私は書いた。これは、個人間から国家間に至るまで世界のあらゆるレベルで分業が進み、生産効率が向上し続けるということを意味している。

生産効率の向上により、あらゆるモノは「タダ」に近づいていく。結果、私たちは安価で多様な消費活動ができるようになる。

豊さとは、よりわずかな生産活動で、より多様な消費活動を行うことだ。

この定義を噛み砕いて適用すれば、私たちの「仕事」はラクであればあるほどいい、ということになる。効用水準を維持できるのなら、仕事はラクであるほうが「豊か」だと言える。

「ラクな仕事のほうが豊か」という価値観に、反感を覚える日本人は少なくないだろう。なぜなら日本では、「厳しい仕事をこなすこと」が精神的な自己充足の源になっている人が珍しくないからだ。そういう人々にとって、仕事がラクになると精神的な満足が得られず、効用が下がってしまう。

日本人が「労働」を自己承認の源にしてしまうのは、江戸時代に「マルサスの罠」にハマったからかもしれない。日本には肉食の文化がないと思われがちだが、日本人が肉を食べなくなったのは江戸時代以降のことだ。鎌倉時代には牛馬耕が始まり、室町時代には全国に普及した。戦国時代には各地の農村で畜産が営まれていた。ところが江戸時代に入ると戦乱がなくなり、人口が爆発的に増加した。人口の増加速度は食糧生産の増加速度よりも速いため、飢饉が頻発するようになる――これを「マルサスの罠」という。江戸時代の日本は、典型的なマルサスの罠にハマってしまった。

人が多すぎて飢饉が頻発するような環境では、牛や馬を働かせるよりも人間を働かせるほうが「安上がり」になる。役畜を育てるには相応の牧草地が必要であり、(よほど優秀な農法を発明しない限り)畜産では単位面積あたりの生産カロリーが下がってしまう。牧草地を作るぐらいなら、同じ土地でコメを育てたほうがいい、動物よりも人の手で土を耕したほうがいい――という状況に陥る。

こうして日本では、人の手で鋤を握り、人の糞尿をたい肥に用いるようになった。

そして日本人は、肉やサラダを食べなくなった。

あらゆる生産活動を人の手で行い、動物や機械に頼らない:そういう社会で、「働かざるもの食うべからず」という価値観は醸成されたのではないだろうか。「労働」を自己承認の源とする価値観が育まれたのではないだろうか。

「ラクをするために知恵を絞る」ことは本来、「生産効率を向上させる」ことと同義だ。

しかし日本では、ラクをしようと考えること自体が悪だと見なされる。なぜなら、人力に依存した経済・社会では、誰もラクをできなかったからだ。

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アメリカでは「失敗に報酬が支払われること」が許しがたい不正義だと見なされるという。一方、日本では「労働せずにカネを得ること」に厳しい目が向けられる。右派、左派、あるいは保守、リベラル......政治的・思想的な立場を問わず、日本人は「働かざるもの食うべからず」と訴える。

日本では「労働せずにカネを得る」のは不正義と見なされる。どんなわずかな収入であろうと、不道徳な――つまり勤勉で実直ではない――手段で得たものなら糾弾される。一方、労働の質については、あまり反省されない。どんなに非効率で社会的価値が低い作業でも、「仕事」であれば尊ばれる。

「日本人の価値観は間違っている」と主張したいのではない。「日本人は考え方を改めるべきだ」と主張したいわけでもない。この記事では、「労働せずにカネを得るのは許しがたい」という価値観の実例と原因について考察した。あくまでも「日本にはそういう価値観がある」と指摘したいだけだ。そもそも「日本」「日本人」のような大きな主語を使う人を、私はあまり信用していない。

私は日本を変えられないし、日本人は変わらないだろう。

世の中は、かんたんには変わらない。

変われるのは、あなただけだ。

※よりわずかな生産活動とは、究極には遊びや趣味でカネを稼ぐことになりそうだ。社会的には生産活動をしているのだが、本人にはその自覚がない状態。

※参考

「楽しい!」を仕事にしよう。/知的労働の急激な陳腐化とゲーム化する「仕事」

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Technological evolution and involution: a preliminary comparison of Europe and Japan

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