「美しい顔」とそれが提起した問題についての補遺

北条さんが私のこの文章を読むことはないかもしれないけれど、歴史を踏まえたエールとしてお送りしておきます。
講談社

1.

「美しい顔」は、つくづくかわいそうな作品になったと思う。私は、この作品が世に出てきた時とても褒めたし、今でもよい作品で「ありえた」小説だと思っている。作者もポテンシャルの高い人なんだろう推定している。

2.

この問題に首を突っ込んで以来、しばしば「剽窃の問題を抜きにして、この作品の文学的価値は高いと思われますか」的な質問を受けた。聞き手は私に「そうだ」という答えを期待していたのだと思う。数少ない(たぶん)擁護者役として。

けれど、もうこの作品は「剽窃の問題を抜きにして」読むことは、誰にもできなくなっている。剽窃問題について完全に無知な読者を除いては。

「文学的価値は高いのか」と問う人たちは、「文学的価値」が他のさまざまな基準から独立的に評価しうる、つまり文学の領域の自律性のようなものを、知ってか知らずか前提としていると思う。もちろん、そんなことはありえない。文学は、その社会が持っているさまざまな価値基準と強く結びあっているから。

3.

私が昨日からもっともがっかりしていることは、金菱さんがその主意を明らかにした、作者から金菱さんへの私信の内容である。

作者の北条裕子氏からいただいた私(金菱)への手紙によれば、震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)「自己の内面を理解することにあった」とある(私信のため詳細は省く)。

作者よ、それをいっちゃぁ、おしまいだよ。

「美しい顔」は、ほんとうにかわいそうな作品になってしまった。「美しい顔」の主人公サノ・サナエの暴れ回る自意識の葛藤とそこからの救済のストーリーは、震災直後という物語世界の設定と切り離すことなどできない。だが、作者は、サナエの葛藤を「私的で疑似的な喪失体験」だと言ってしまい、「(彼女自身の)「自己の内面を理解すること」という、正直言って読者にとってどうでもいい問題に限定してしまった。作者の言葉は強力だから、以後、これを読んだ読者はこの読解の枠に従って「美しい顔」を読み、被災地の人々の思いを踏みにじり、個人的な都合によって場所と設定だけを借り、あまつさえ先行する文献から表現をかすめ取った、どうしようもない作品として、葬り去ろうとするだろう。

4.

「美しい顔」の本文は、発表以来、今日に至るまで一言一句、変わってはいない。群像新人文学賞を獲得し、審査委員から激賞を受け(全員ではないが)、さまざまな批評も相当好評で、Twitter上でもかなりの高評価をいくつもみかけた。それが剽窃問題の提起以来、一気に流れが変わっていった。

小説の本文が微動だにしなくても、外部的な要因によってここまで評価はかわりうるという、小説の受容論にとってまたとない好例が、新たに文学史に付け加わった。

5.

ただ、前回のブログ記事にも書いたことだが、「美しい顔」の「剽窃」問題そのものよりも、この論議が提起した問題の方がむしろ私にとっては──私たちにとっても──大事である。それはフィクションとノンフィクションの関係性/差異/同一性/乗り入れの問題であったり、小説とその材料の問題であったり、弱者やマイノリティや言葉を発しがたい人々の「声」をどう聞き、どう代弁するのか/しうるのか、という問題である。それは私自身が小説のモデル問題や、移民文学、植民地文学の角度から、文学研究の世界で取り組み続けてきた課題と重なっている。

昨日、AbemaPrimeという番組でご一緒した石戸諭さんともぜひやりたいと一致したのだが、(石戸さんの論点はこちら 流用疑惑の芥川賞候補「美しい顔」 それでも高く評価される理由とは?(石戸諭) - 個人 - Yahoo!ニュース)、これら問題は、ノンフィクションライターや新聞記者、小説家、批評家、人文社会学系の研究者らが、共通の関心の中で議論を交わせるよい論題だと思っている。

冷たい言い方に聞こえるかもしれないが「美しい顔」については、もうしばらく忘れていいと思う(もちろん、犯した失策について作者が必要な措置をするべきことは当然として。ついでにいえば芥川賞を逃したこととも無関係に)。それよりも、この間の議論が惹起した論題について、せっかくだから意見が交わせればいいなと私は思っている。

そういう場を設けませんか、とここで提案しておきたい。

6.

「美しい顔」がほんとうによい作品なのかどうかは、時間が裁くだろう。よい作品であるならば、必ず何年後か何十年後かに、誰かが発掘し、再評価が起こるだろう。起こらなければそれまでだ。

7.

なお、文学作品の剽窃問題について関心のある人で、まだ栗原裕一郎さんの『〈盗作〉の文学史──市場・メディア・著作権』や、甘露純規さんの『剽窃の文学史──オリジナリティの近代』を読んでいない人は、ぜひお薦めする。

今回のような事例が、あきれるほど繰り返されてきた我国の近現代文学史を概観/深掘りできる。消えていった作者もいるし、事件を乗り越えた作者もいる。乗り越え方もさまざまだ。

北条さんが私のこの文章を読むことはないかもしれないけれど、歴史を踏まえたエールとしてお送りしておきます。

(2018年7月18日日比嘉高研究室より転載)

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