これからの経済
2018年06月11日 16時05分 JST | 更新 2018年06月11日 16時05分 JST

「千疋屋」が売上高を20年で5倍にできた理由

超高級路線から脱却し、スイーツなどを充実

千疋屋総本店の日本橋本店(編集部撮影)

誰もが知る高級フルーツブランド「千疋屋(せんびきや)総本店」。今年で184周年を迎える老舗企業だ。店内に並ぶフルーツは同社の目利きが揃えた一級品で、宝石のような輝きを放っている。

江戸時代に露店商から始まり、時代の移り変わりとともに変革を遂げ、ブランド力を高めてきた歴史がある。

発祥は江戸時代、もともとは槍術道場

千疋屋の創業は1834年(天保5年)にさかのぼる。創業者の大島弁蔵氏が武蔵国(むさしのくに)千疋村(現・埼玉県越谷市)で槍術の道場を営んでいた。しかし、天保の大飢饉で道場経営が行き詰まり、道場の庭や周辺で採れた農産物を川船で運搬し行商に転向。江戸葺屋町(現・日本橋人形町)の露店「水くゎし(水菓子)安うり処」で柿やぶどう、みかんを販売した。当時、愛称で「千疋屋」と呼ばれていたことから今に続く伝統の屋号が誕生した。

本記事は「東洋経済オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら

2代目・文蔵氏は浅草や日本橋の一流料亭に青果を納め、浅草の鰹節の大店の娘だった妻・むらの人脈で西郷隆盛や坂本竜馬など幕末の著名人が顧客となり、販路を拡大。高級果実店としての地位を確立した。

3代目・代次郎氏は1868年(明治元年)、日本橋室町に本店を移転。当時では珍しい洋風三階建ての店舗で外国産フルーツの販売を開始し、果物食堂を開設した。明治初期はまだ輸入フルーツが出回っていない時代だった。

江戸時代の愛称「千疋屋」が屋号の起源に(写真:千疋屋総本店)

代次郎氏が横浜港に出掛けると、外国籍船の船員たちがバナナやパイナップル、オレンジを食べていた。すぐに船員たちに果物を物々交換してくれないかと提案したという。

次回、再び横浜に寄港するときに大量に持ち込んでくれれば高値で買い取ることを約束し、商談が成立。売価は高かったものの、外国産フルーツは人気を集めた。

その後、商社が輸入業に乗り出すと先代の人脈を生かして交渉し、商社経由で外国産フルーツの仕入れができるようになった。そして明治前半から中期にかけて「京橋千疋屋」「銀座千疋屋」などののれん分けを行い「千疋屋」の知名度を高めていった。

4代目・代次郎氏は1914年、世田谷に3000坪の農場を開設。果物の品種改良やメロンの研究を手がけ、アメリカ視察でフルーツーパーラーのヒントを得た。

関東大震災後の室町本店(写真:千疋屋総本店)

しかし、1923年の関東大震災で街中が焼け野原と化し、室町総本店も焼失。千疋屋全店で唯一残存していたのは丸ビルの支店のみ。急いで建築資材をかき集め、バラック建築の店舗で営業を再開し、フルーツパーラーをオープンした。震災から6年経った1929年に現・千疋屋総本店がある日本橋室町に本店ビルを建設。太平洋戦争の空襲で直営店を失うも、奇跡の復活を遂げた。

現社長の父である5代目・代次郎氏はハワイ産のパイナップルなど海外フルーツの輸入や支店の拡充に注力し、国内大手のフルーツ専門店に成長した。バブル景気が追い風となり、法人向けの贈答品需要が拡大。大手町や霞が関の店舗では高級メロンが飛ぶように売れたという。しかし、バブル崩壊とともにオフィス街の一部店舗の整理を余儀なくされた。

この厳しい局面で社長に就任したのが、現社長で6代目の大島博社長だった。

海外留学で学んだブランディングの重要性

大島博社長は、東京生まれの生粋の江戸っ子だ。幼少期は店頭で売れなくなったフルーツを主食以上に食べて育ち、小学生の頃にはフルーツの品種が判別できるほど味覚が発達していた。

1981年に慶應義塾大学を卒業し、経営学を学ぶために渡米。当時千疋屋の輸入事業は輸入代行業者に委託していた。今後は自社でやりたいという父の意向もあり、ニューヨーク大学で経営学を学んだ。

大学の授業で「老舗の経営学」をテーマにディスカッションをする機会があり、その時に家業である「千疋屋」のビジネスについて話すと、教授から「世界でもフルーツ専門店でここまで長い業歴の会社はない」と驚かれ興味を持たれたという。ヨーロッパではロンドンの高級百貨店ハロッズやパリの高級食料品店エディアールなど総合食料品店の老舗はあるが、フルーツ専門業態の企業がそもそも少ない。教授に誘われ、イギリスに留学。教授宅でホームステイをしながらロンドン大学に半年間通い、老舗経営学を専攻した。授業のなかで「ブランディング」を徹底的に学び、後に転機が訪れる。

帰国後は輸入代行業を手掛ける会社を経て、1985年に千疋屋総本店へ入社。1998年に社長に就任する。

「社長就任後3年間は父の経営手法を踏襲したが、千疋屋ブランドと消費者ニーズにズレを感じた」。それは同時に、父の経営方針と今の時代感覚のズレを意味する。店舗も品揃えも価格設定も何もかもが合わないと感じていた。案の定、消費者アンケートを行うと「敷居が高い」「店舗や包装のビジュアルがレトロ」「手が届かない」といった声ばかり。かつて消費者は高級志向で、1万円の値札がついていても飛ぶように売れた。しかし、時代の変遷とともにいつしかニーズとかけ離れていたのだ。業績も下降の一途を辿っていた。

このままではダメだ!と確信した大島博社長は、従来の経営方針との訣別を決意する。千疋屋ブランドのイメージを再構築すべく「ブランド・リヴァイタル・プロジェクト」を立ち上げ、新たなスタートを切った。

スイーツやジャムなどの商品展開を拡充、売上5倍に

まず、千疋屋総本店のイメージアップを図るべく「ひとつ上の豊かさ」をコンセプトに千疋屋ブランドの大改革を行った。海外留学で学んだブランディングの重要性を掲げ、ロゴや包装紙、容器を時代に合ったものに一新した。

加工品に注力し顧客層が拡大(写真:千疋屋総本店)

それまでは高級フルーツを主力としていたため、高級志向の顧客に偏っており、中間層や若年層が少ないことが課題であった。アッパークラスに特化するのではなく、中間所得層にも手が届く価格帯の商品ラインナップを拡充した。フルーツを軸にケーキやスイーツ、ジャム、ゼリーなどの加工品に注力。手頃な価格で販売することで千疋屋の商品に馴染みがなかった客層へのアプローチを図った。

さらに「東京土産」としての需要をにらみ、東京駅や羽田空港に出店し、生ケーキや加工品の販売やインターネット販売を開始した。時代の変遷とともに日本人の味覚が変わり、糖度に加えてほどよい酸味、みずみずしさ、舌触り、コクにこだわるようになっていた。消費者のニーズに合うよう仕入れの選別基準に変化を加え、パーラーやレストランメニューの味を見直した。フルーツを使った加工品やケーキの品揃えや品質、味にこだわり何度も試行錯誤を繰り返し、新たな千疋屋の味を確立していった。人事制度や社員教育もテコ入れし、従業員の給料体系を年功制から能力給に切り替えた。

よくある話だが、世代交代に伴う苦労もあった。「当時は父が代表取締役会長に就任しプロジェクトに猛反対。父のもとで番頭としてやっていた古参の社員の風当りも強かった」という。商品構成は高級フルーツ主体から加工品のシェアを8割まで増やした。2018年3月期の売上高は約92億円を計上している。社長就任から20年弱で売上高は5倍に拡大した。

千疋屋ブランドを語るうえで欠かせないのが、明治期にのれん分けをした(株)京橋千疋屋(創業1881年)と(株)銀座千疋屋(同1894年)だ。それぞれ「千疋屋」の屋号は同じだが、資本関係はない。

大島博社長は千疋屋ブランドとしての質の向上を目的に、2008年から「千疋屋3社交流会」を開催し、小売りや製菓など各部門の責任者が集まり会議や試食会を行っている。運営母体は違うが「千疋屋」という日本を代表する老舗のブランドを持つ以上、品質の向上に余念がない。同じケーキでもフルーツの品種も違えば味も異なる。食べ比べることでお互いに商品開発や社内上の課題のヒントやアイデアを得られるメリットがあるという。3社ともに切磋琢磨しながら「千疋屋」の看板を守り続けている。

千疋屋が「別格」の秘密

フルーツには旬があり、天候や環境で味が変わる。生ものなので他の業種に比べて在庫のロスが出やすく、実は非常に新規参入が難しい業界だ。仕入れもこだわっており、特定の農家と直接契約をすることはあえてしない。「つねに生産者が良いものを作れるとは限らない。天候変動もあるので直接契約はリスクでしかない」。旬の上質なフルーツを探して仕入れているからこそ、価値がある。

6代目の大島博社長(筆者撮影)

千疋屋総本店の高級フルーツは市場に出回っているフルーツとは一線を画している。7種類のフルーツを盛り付けた「千疋屋スペシャルパフェ」や「フルーツジュース」、「マンゴーカレー」も秀逸だ。筆者の個人的な感想を言うと、フルーツ本来の味が濃厚で、一度味わうと他のものでは物足りなくなる。千疋屋のフルーツは"別格"だった。

今年で184年目を迎える千疋屋本店は1代約30年のサイクルで変革を遂げている。大島博社長の最大の功績は、敷居が高いイメージが浸透していた千疋屋ブランドを見直し、新しい顧客層の開拓に成功したことだろう。老舗であればあるほど、従来のやり方と決別し、新たな経営方針を打ち出す苦労は並大抵のものではない。事業を再構築したその勇気が新たな千疋屋の礎となった。

田中 祐実 : 帝国データバンク 情報部 情報取材編集課

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