世界が注目する最先端がん医療が日本では「怪しい治療」扱いの理由

医療界のみならず医療行政も新たな取り組みの壁に

近未来のがん治療は腫瘍ができる前に対処!?

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米国では有名研究機関が競い合うように臨床試験を行っているのに、なぜか日本では注目されず。そんな不思議なことが起きているのは、日本医療界が持つ「壁」が元凶だ(写真はイメージです)

いつものように出社すると、先日受けた健康診断の結果を渡された。封を開けるとそこには「大腸がん」という文字。目の前が真っ暗に...はならなかった。

この「宣告」は採血された血液から大腸がんを引き起こす「がん遺伝子」が検出されたという「警告」に過ぎず、まだ体のどこにも腫瘍はできていないからだ。

このような"がんの超早期発見"は適切な治療を受けることで、かなりの確率で発症を防ぐことができる。もし仮にがんになってしまっても、恐れることはない。がん細胞だけを見つけ出して攻撃する特別なリンパ球を増殖させるワクチンを打てばいいのである。

本記事は「ダイヤモンド・オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら

子どもの頃、大腸がんで亡くなった父にもこんな検査や治療を受けさせてやりたかったな。そんなことを思いながら、診断結果の紙をブリーフケースにしまうと、いつものようにパソコンを開いてメールチェックをおこなった――。

のっけからSFのような話をして恐縮だが、これは筆者の妄想などではない。そう遠くない未来、このような光景が「日常」になるかもしれないのだ。

実現のカギは、「リキッドバイオプシー」と「ネオアンチゲン療法」だ。

リキッドバイオプシーとは、わずか7cc程度の血液を採取して遺伝子を解析。その結果をAIが「がん遺伝子情報データベース」と照らし合わせ、異常か否かを判断するという最新検査で、既に米国では一部のがんで承認を受けている。

今年2月に米ジョンズ・ホプキンス大学が発表したデータでは、卵巣がん、肝臓がんのステージI、ステージIIという、手術で治療できる段階のがんはほぼ100%の確率で検出し、胃がん、膵臓がん、食道がん、大腸がんに関しては、やや感度は落ちるものの、60~70%の割合で検出できたという。

高い精度で再発予見も最新の免疫療法も有望

また、注目すべきは、その「再発予見」の効果である。

がんの切除手術後に、リキッドバイオプシーで切除されたがんで見つかったものと同じ「がん遺伝子」が検出された患者は、2年以内に100%の確率で再発しており、その逆に検出されなかった患者の再発率は10%程度にとどまっているというのだ。現在、がん治療で最も有効なのが早期発見であることは言うまでもない。早く見つかればそれだけ生存率は上がる。リキッドバイオプシーで「超早期発見」が当たり前になれば、より多くの命を救うことができるというわけだ。

一方、ネオアンチゲン療法とは、人間の身体のなかに生来ある、「がんを攻撃する特別なリンパ球」を人為的に増殖させて、がん細胞を破裂させていくという最新の免疫療法である。

「なんだかインチキ臭いな」などと思うなかれ。日本のがん医療現場ではほとんど聞くことはないが、昨年7月には世界的な学術誌「ネイチャー」にその効果の高さを報告する論文も発表されており、やはり米国では、有名研究機関が競い合うように臨床試験を行っている。

これらが日本でも実用化という運びになれば、冒頭で紹介したようなことも決して夢物語ではなくなるのだ。

なんて話を聞くと、「そんなにすごい新技術ならば、日本国内でも盛んに臨床研究などが行われているはず。そういうニュースをあまり耳にしないということは、まだ安全性や信頼性に問題があるのでは」といぶかしむ方もいるかもしれない。

しかし、その原因は、これら最新医療技術の方にあるのではなく、日本の医療界が持つ、イノベーションを阻む「独特の壁」にある、と断言する人がいる。

「ノーベル賞に最も近い日本人」が日本に戻ってきた

「日本はせっかく基礎研究では素晴らしい実績があるのに、省庁間の縦割り行政の壁があるため、その成果を新薬や治療の開発に結びつけることができません。この閉塞感に加えて、研究者たちも研究費をもらうのに四苦八苦して論文を書くことがゴールとなってしまっていることも問題。研究を患者へ還元させようというカルチャーがない。私はシカゴ大で若い研究者たちの面接をしましたが、日本国内の研究者と比べものにならないほど、問題意識や行動力を持っていました」

日本のがん医療をこうバッサリと切り捨てたのは、ゲノム(全遺伝情報)を解析し、がんの治療に生かす「がんゲノム医療」の世界的権威であり、その実績から「ノーベル賞に最も近い日本人」と評されてきた中村祐輔氏(65)だ。

東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長、国立がんセンター研究所所長、理化学研究所医科学研究センター長などを歴任し、2012年に米シカゴ大医学部に研究拠点を移した時は「頭脳流出」と騒がれ、英国の科学雑誌「ネイチャー」などは「Genmics ace quits japan」(ゲノム研究のエース、日本に見切りをつける)と報じたほどだった。

そんな「世界のナカムラ」が6年ぶりに日本に戻ってきた。7月1日付で、東京・有明にある公益財団法人がん研究会「がんプレシジョン医療研究センター」の所長に就任したのである。そこで狙うは、先ほどのリキッドバイオプシーとネオアンチゲン療法の実用化だ。

「私がやらなくてはいけないことなのかというのは悩みました。若い研究者が出てきてやってくれればいいのですが、残念ながらいつまで待っても、日本の医療には変わる気配がない。また、リキッドバイオプシーは技術的な課題を抱えており、ゲノムをわかっていない人間がやるのは問題も多い。たまに一流科学雑誌などでも、我々から見て、おかしなデータが掲載されています。ゲノムをちゃんと理解した人間が解析しなくては、まるで占いのような話になってしまう」(中村氏)

見切りをつけたはずの日本に戻ってきた理由は「がん患者の叫び」

そのため、今年2月には、自身が設立に関わった創薬ベンチャー、オンコセラピー・サイエンスの子会社、「キャンサー・プレシジョン・メディシン」のラボを川崎市にオープン。ここでは中村氏の愛弟子たちが、リキッドバイオプシーやネオアンチゲン療法に不可欠な、がん遺伝子の大規模解析などをおこなっている。

いくら待っても変わらないのならば、自らが変えていくしかない。そう決断した中村氏の背中を押したのは、日本の有名がん拠点病院から「残念ながらもう治療法はありません」と宣告された「がん難民」たちの悲痛な叫びだ。

「シカゴにいる間もメールなどで、多くのがん患者やその家族の方からの相談を受けましたが、気の毒になるほど救いがない。原因は国の拠点病院。標準治療のガイドラインに固執するあまり、"がん難民"をつくり出している自覚がありません。こういう人たちが医療界のど真ん中にいることが、日本のがん患者にとって最大の不幸です」(中村氏)

確かに、日本のがん医療では、外科治療(手術)、放射線治療、化学療法(抗がん剤治療)の3つが「標準治療」と定められている。そのため、これらの治療が効かない患者が免疫療法などを希望すると、主治医から「そういう怪しい治療をお望みなら、もううちの病院には来ないでください」と三行半をつきつけられる。そんなバカなと思うかもしれないが、そういう「がん難民」に、筆者は何人もお会いした。

このような中村氏の主張を聞くと、「そういう問題はあるが、日本の医師だって、がん患者のためになることだと信じて一生懸命頑張っているんだ。いくら実績のある研究者だからって、それを全否定するのはいかがなものか」と感じる人もいらっしゃるかもしれない。

だが、中村氏のこれまでの歩みをふりかえれば、なぜ彼が「日本の医師」たちにこのような厳しい苦言を繰り返すのかが分かっていただけるのではないだろうか。

中村氏が憤る日本の医師は「勉強不足」

実は、今でこそ「世界的なゲノム研究者」として知られる中村氏だが、最初から研究の道にいたわけではない。若かりし頃は、がん患者をひとりでも救うべく奮闘していたひとりの外科医だった。

大阪大学医学部卒業後、救急医療、小豆島の町立病院などさまざまな医療現場を渡り歩いた「中村医師」は、「がん」というものに対する己の無力さに打ちのめされていた。切除してもすぐ再発。抗がん剤も効果がない。「お腹の塊をどうにかして」と泣き叫ぶ患者を前に、中村氏は涙をこらえることしかできなかったのだ。

どうすればこの人たちを救えるのか。思い悩むなかで、同じがん・同じ進行度合いでも、抗がん剤が効く患者と、まったく効かない患者がいるということ着目し、この「個人差」は「遺伝子の差」が関係しているのではないかという結論に至った。そこで海外の医学雑誌で知った、遺伝性大腸がんの研究をおこなう米・ユタ大学のレイ・ホワイト教授のもとへ手紙を書き、遺伝子研究に参加した。まだ「ゲノム」などという言葉は、日本の医療界だけでなく、米国の研究者にもそれほど知られていなかった時代のことだ。

研究の世界に飛び込んだ中村氏は、「がん」と「遺伝子」の謎を解き明かすためがむしゃらに研究に没頭。そこで発見した多くのDNAマーカーは、世界中の遺伝子研究者から「ホワイト・ナカムラマーカー」と呼ばれ、遺伝性疾患やがん研究に大きな貢献を果たした。

がん患者を救いたい。その一心だけで「医師」から未知の世界に乗り込んで、徒手空拳でゲノム研究の道を切り拓いてきた中村氏にとって、「日本の医師」は生ぬるくてしょうがない。ましてや、「標準治療」というガイドラインから外れた患者に、ああだこうだと屁理屈をこねて、何も手を差し伸べようとしないような医師は、「職務怠慢」以外の何物でもないのだ。

「一言で言えば、勉強不足。たとえば、世界のがん医療で常識となっている免疫療法に対して、『エビデンスがない』などと主張している医師がまだ大勢いる。海外の論文に目を通していないか、科学の基本的な素養がないとしか考えられません」(中村氏)

医療界のみならず医療行政も新たな取り組みの壁に

なぜもっと患者のために必死にならない。なぜ救うためにあらゆる可能性を模索しない。そんな憤りが、中村氏の歯に衣着せぬ「日本の医療」批判につながっている。

もちろん、自身で「いつ後ろから矢が飛んでくるかわからない」と言うように、医療界だけではなく、医療行政のなかでも、中村氏を快く思わない者も多くいる。

たとえば民主党政権下、「医療イノベーション推進室」の室長と内閣官房参与に任命された時にも、かなりの「逆風」が吹いた。

自民党との違いを鮮明に出したかった仙谷由人官房長官(当時)から声をかけられ、日本の医療制度にメスを入れることの必要性を唱えていた中村氏も「医療の壁」を壊すと決意表明をしたが、予算権限すら与えられず、霞が関官僚からの猛反撃を食らう。その時の悔しさを、当時の新聞でこう述べている。

「気がつくと、各省庁が財務省と個別に予算交渉をして、政策を進めていた。自分は、室長という名の単なるお飾りなのだと思い知らされた」(読売新聞2012年1月28日)

ほどなく中村氏は辞表を提出。シカゴ大からの誘いを受けて日本から去った。壊してやると意気込んだ「日本独特の医療の壁」に、逆に返り討ちにされてしまったのだ。

だが、このような目に遭っても、中村氏は日本の医療への苦言をやめることはない。彼をここまで駆り立てているのはなんだろうか。

前出のオンコセラピー・サイエンスを、中村氏が立ち上げたきっかけは1999年に最愛の母を亡くしたことだった。

命を奪ったのは、皮肉なことに当時、中村氏が心血を注いで研究していた「大腸がん」。抗がん剤が効かず日増しに弱っていく母は病床で「お前の顔に泥を塗るようで申し訳ない」と何度も頭を下げた。「がん」に打ち勝つため研究に没頭してきたのに、目の前にいる母に何もしてやれない。外科医時代と私は何も変わっていないではないか――。亡くなる前日、母は中村氏の手をとって、こんな言葉を繰り返したという。

「日本のために、いい薬をつくりなさい」

中村氏がリキッドバイオプシーとネオアンチゲンワクチン療法の実用化に成功するのかどうかはわからない。「異端児」ゆえの「逆風」は今も吹き続けているからだ。ただ、ひとつだけはっきりと言えることがある。何度挫折をしても中村氏はきっとまた立ち上がる。母に誓った「がんに打ち勝つ新薬」をつくるその日まで。

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