3ヵ月後に起こり得る「無交渉ブレグジット」の巨大リスク

合意期限10月に迫る
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米中貿易戦争がEUや日本を巻き込み拡大するなかで、英国のEU離脱(Brexit、ブレグジット)が世界のもう一つの巨大リスクになりかねない様相だ。

EUとの協調を重視する「ソフト離脱」にかじを切ったメイ首相の新方針に、「強硬離脱」派の閣僚が反旗を翻し相次いで辞任した。EUとの離脱交渉の残された期限は実質あと3ヵ月しかない。

メイ首相の国内での求心力低下が改めてあらわとなる中で、図らずも「交渉なし離脱」の可能性が高まる。

「ソフト路線」転換で保守党"分裂"EUとの合意期限10月に迫る

事の発端は、7月6日、首相別邸チェッカーズで行われた閣僚会議で、メイ首相が新たな離脱方針を示したことだ。

EUで維持されてきた「人の移動の自由」は終了させ移民は制限するが、EUとの貿易は離脱後も続け、農産品や工業製品といった「財(モノ)」の取引は、EUと共通の規格や基準を規定した新ルールブックを締結し、英EUの「自由貿易圏」を作るというものだ。

(詳細は12日に公表された白書"The Future Relationship Between The United Kingdom and The European Union"で確認できる)

本記事は「ダイヤモンド・オンライン」からの転載記事です。元記事はこちら

一方で、EU以外の国との自由貿易協定(FTA)交渉を積極的にすすめ、EUを離脱した後には環太平洋協定(TPP)への参加も視野に入れていることも明確にした。

移民を制限するが、モノの貿易はこれまで通り自由に、という英国に都合のいい「新方針」をEUが受け入れる可能性は低い。加えてブレグジットの先行きを見えなくしたのが、保守党内の「強硬離脱」派の造反だ。

「新方針」は、いったんは閣僚会議で合意されたが、これまで強硬な姿勢で離脱交渉を牽引してきたデイビッド・デイビス担当相とスティーブ・ベーカー副大臣が、8日になって「メイ首相の方針を支持できない」として、辞任。翌9日には同じく強硬離脱派のボリス・ジョンソン外相も「英国の夢は死につつあり、我々は植民地に成り下がろうとしている」と辞任した。

仮にメイ首相の新方針をEUが認めたとしても、EUが英国と新ルールを策定するコストを支払うのか、という点は疑問であり、結局はこれまで通りのEUの規制を踏襲する形になる可能性が高いと考えられる。

だとすれば、これまで英国が掲げてきた「単一市場と関税同盟から撤退」し、貿易での主導権を取り戻すというブレグジットの大義は単なる張りぼてとなり、EUとの通商関係は元の木阿弥になってしまう、という懸念が強硬派の間で広がった。

メイ首相はその後、党内の反発を鎮め議会での過半数の賛成を得るため、英国とEUの関税徴収権をめぐる項目など4項目について、強硬派の主張を受け入れて内容を修正。白書は16日に上下院を通過した。

だがその後も、内容に不満を示したガット・ベブ国防省閣外大臣が辞任するなど、今回の方針転換を機に10名以上の保守党メンバーが要職ポストを辞任する事態になっている。

閣僚らの辞任が今後、メイ首相に対する辞任要求、あるいは総選挙を求める動きに発展すれば、その間のEUとの離脱交渉が停滞することは避けられそうにない。

2017年3月、メイ首相がEUの基本条約50条に基づいて、正式に離脱を宣言してから2年となる2019年3月29日が、離脱交渉期間として確保されているデッドラインだ。

この期限までに、すべての離脱協定案を、英国やEU加盟各国の議会で通過させる必要がある。このプロセスには相応の時間を要するため、事実上は2018年10月までに、英国側・EU側の交渉担当相の間で離脱協定に関して合意する必要がある。

だがいまだ、重要論点で合意ができていない状況だ。

北アイルランド問題が「裏目」に 交渉合意ないまま離脱の可能性

英国とEUの交渉は難航が予想されてきた。

それでも昨年12月のEU首脳会議では、英国在住のEU市民やEU在住の英国人の市民権保護や離脱の際に英国が払う清算金といった論点で、一定の進展が見られたとして、2018年以降は、第二段階の「英国とEUの将来の関係性」に関する議論を進めることを決めた。

続く3月には、第二段階のファーストステップとして、19年3月の正式離脱後も、2020年末まで現行ルールを踏襲できるとする、移行期間を設置することで合意がみられ、これらの進展に多くの市場関係者や企業経営者は胸をなでおろした矢先だった。

残された第二段階の重要課題が、「将来の英国・EUの通商関係」と、「北アイルランド問題」だが、今回のメイ首相の「ソフト離脱」への転換方針は、最大の障壁の「北アイルランド問題」を決着させ、離脱交渉を加速させる狙いが大きかった。

英領・北アイルランドと地続きのEU加盟国・アイルランド共和国は、現在は英国がEUメンバーなので、事実上国境がないに等しい。だが英国がEUから抜ければ、人やモノの自由な行き来が制限される恐れがある。そこで、新方針では税関検査を不要にする新たな仕組みも導入し、厳しい国境管理を設けずに済むようにするという。

メイ首相の新方針では、EU離脱後も、英国とEUの間で「財」の移動の障壁をなくし自由貿易圏を作れば、北アイルランドとアイルランドの経済取引もこれまで通りの状況を維持できるという狙いがうかがわれる。

かつて北アイルランドでは、英国統治を望む支配層の多数派・プロテスタント系住民と、差別や弾圧に抵抗しアイルランドとの統一を求める少数派・カトリック系住民が対立、衝突が繰り返された。

1998年のベルファスト合意で地域に和平がもたらされたが、これには、アイルランドが1993年にEUに加盟したことが大きかった。英国とアイルランド両国ともにEUメンバーになり、北アイルランドがアイルランドとも1つの国のような状態になったからだが、英国がEUから抜ければ、北アイルランドで対立と「分断」が再燃しかねない恐れがあった。

この問題では、EUとアイルランド側は、英国のEU離脱後、国境管理が厳格化された際には新たな財政負担が生じる懸念もあって、アイルランドと北アイルランドの国境管理を厳格化しないことを英国側に求めていた。

一方で、メイ首相が閣外協力を得ている北アイルランドの保守政党、民主統一党(DUP)は、昨年12月、英国がEUとアイルランドの要望を受け入れた場合、英国の離脱後に、北アイルランドだけが英国の他の地域から孤立し連携が弱まることを懸念し、他の地域との間で新たな規制障壁を設けないことを、メイ首相に約束させた。

つまり、メイ首相は、EUとの離脱交渉をまとめ、かつ政権を維持するためには、EU離脱後も、「アイルランドと北アイルランドの国境管理は厳格化しない」が、「北アイルランドとその他英国地域の人やモノの移動は今まで通り維持する」という両立不可能にみえる主張を、満足させる解決策を見出さなければならなかった。

「ソフト離脱」の新方針は、この両方を実現させようとしたものだが、「裏目」に出て、国内では保守党内のメイ首相の立場が弱まり、一方で離脱方針が定まらないまま交渉期限が来てしまう=「交渉なし離脱」に突入するリスクが高まるという、皮肉な結果となった。

懸念される日系進出企業の混乱 貿易戦争と並ぶ不安定要因に

仮に「交渉なし離脱」となれば、どういうことが起きるのか。

最も直接の影響が及ぶと考えられるのはEU・英国間の「財」取引だ。

メイ首相が当初、目論んだFTAの創設は実現せず、WTOルールに基づいた通商関係になるため、EU、英国がお互い輸入品に高関税や非関税障壁をかけあうことになりかねない。

これは、移民制限を優先しEU単一市場とのアクセスを断念する「強硬離脱」と、一見、変わらないようにみえるが、強硬派はあくまでも「新たな通商関係」の構築を目指しており、WTOルールへ立ち返ることは想定していない。「交渉なし離脱」によるダメージはより大きなものになる。

英国やEU諸国に進出し、域内で部品などのサプライチェーンや販売網などを展開している日本企業にとっても、影響は避けられない。

日本貿易振興機構(ジェトロ)が、在欧日系企業に行ったアンケート(2017年9、10月、952社が回答)では、これまでのところ、「マイナスの影響」を指摘する企業の割合は26.2%だったが、今後の事業への影響については、46.9%の企業が「マイナスの影響」を指摘し、関税の影響や人材確保の困難を挙げている。

在英日系企業では、約4分の1が拠点の見直しを実施・検討していると回答した(そのうち8割以上の企業が、販売や統括、生産など、機能の一部移転を実施・検討と回答)。移転可能性のある国では、ドイツが23社と最も多く、次にオランダ(6社)、アイルランド、フランス、ベルギーなど(それぞれ2社)となっている。

在英日系企業が挙げたブレグジットへの懸念(複数回答)を見てみると、先行きの不透明感による投資減退や関税引き上げによる物価上昇・消費鈍化などによる「英国経済の不振」(69.4%)が最大の懸念になっている。以下、関税などの「英国の規制・法制の変更」(54.1%)、「ポンド安の進行」(52.1%)、「英国拠点からのEUへの輸出」(44.2%)、「英国での人材確保」(42.6%)となった。

英国に関する懸念が上位になっているが、一方で「EU経済の不振」(31.4%)、「ユーロ安の進行」(17.8%)を懸念材料に挙げる企業もある。

このアンケートは、メイ首相が「ソフト離脱」の新方針を表明する前のものだ。欧州との「財」の取引を従来通り維持するという新方針を「歓迎」する企業は少なくないと思われる。だがこの新方針が奏功せず、「交渉なし離脱」が現実として目の前に迫ってからでは、企業に残された対応の時間はほとんどない。

ジェトロの調査では、在英日系製造業は英国内で平均25.2%の部品・原材料を調達する一方で、EUからも18.4%を調達している。製造業などは、工場用地や設備・原料といった生産拠点の確保や、サプライチェーンの再構築など、企業の調整コストが高く、時間を要する場合が多く、対応できずに、混乱や負担がより大きくなる懸念がある。

また、人材確保はどのような離脱パターンでも課題になるが、「交渉なし離脱」となれば、関税の影響は最もネガティブな影響が大きくなりそうだ。また、一段のポンド安が進行することは避けられないとみられるため、輸入物価の上昇を通じたコスト高や物価高を通じた内需不振が、英国内需向け企業を直撃すると考えられる。

現時点でEU側から、ブレグジットによるEU各国に対するマイナスの影響を指摘する声は多くはない。だが「交渉なし離脱」に陥った場合は、物流の停滞が欧州圏全体の経済活動を下押しするリスクが高まる。

ただでさえ、米中貿易戦争の拡大で世界貿易の縮小が懸念されるなかで、英国、EUともにこうした先行き不安から投資減少などを招き、世界経済は景気後退局面への転換を早める可能性もある。

一方で、英国政府は、「新方針」でも、「ソフト離脱」に伴って米国との自由貿易協定(FTA)締結や、TPPへの将来的な参加を掲げて、EU以外の第三国との貿易関係の強化を目指す姿勢だ。日本とのFTA交渉も、7月19日に日本とEUが調印した経済連携協定(EPA)を踏襲する形で、来春にも開始されるとの指摘もある。

英国政府としては、EUを離脱し、各国と新たな関係を構築・強化していくことは本来の目的の一つだったはずで、EU以外の国との連携に動き出すことは評価もできよう。だが実情は、「交渉なし離脱」が現実味を帯びるなかで、その際の打撃やマイナスの影響を相殺すべく、第三国との関係を新たに構築しなければという焦りが先にあるようにも見える。

欧州資本市場も分断のリスク 危機感強めるBOE

「財」の取引だけでなく、金融商品を含む「サービス取引」でも、不透明感が強まっている。

「新方針」では、英国にとっての主要産業である金融サービスについては、EUと、「財」に関する新共通ルールとは別の協定を結び、英国独自の規制権限を確保する意向が改めて示された。

英国の貿易収支は、財収支の大幅な赤字の大部分を、サービス収支の黒字が補う形になっている。2017年はサービス黒字の4割は金融サービスによるものだ。EU離脱後も国際収支の柱となる産業として期待されている。

◆図表1:英国の貿易収支

規制強化の風潮が強いEUとは一線を画す形で、国際金融都市としてのシティの強みを維持強化するためにも、英国はサービス、中でも金融サービスの規制権限は死守するものと思われる。

だが、「交渉なし離脱」となれば、英国だけでなく欧州や世界の資本市場に大きな影響を与えかねない。

このことは下の図を見てもわかる。

実は、英国とEU主要国であるユーロエリアとは、「財」の結びつきもさることながら、銀行サービスの連関は一層強固なものになっている。

図表は、英国の中央銀行、イングランド銀行(BOE)のスタッフによる分析のうち、中国経済と英国経済の連関を示す資料として掲載されているものだ (○の大きさは世界貿易・システムにおける当該国・エリアのシェアを、○の間の線の太さは、取引の大きさを示している)。

◆図表2:財貿易と銀行システム

財貿易については、中国の財がユーロエリアを経由する形で英国に相応の影響を与えていることが示唆されているのに対し、銀行システムについては、中国の影響は軽微である一方で、英国とユーロエリアの間の直接的な連関の強さがわかる。

また、英国と米国、あるいはユーロエリアと米国のつながりも、財と比較して一層強固であり、どこかの連関が途切れたり細ったりした場合、他国にも波及するリスクが一段と大きいことが示唆される。

シティが国際金融都市としての地位を堅持するには、金融システムの安定を維持することも重要だが、BOEのカーニー総裁は、7月17日の財務特別委員会(Treasury Special Committee)でも、「交渉なし離脱」の影響をこう警告した。

公表した金融安定レポート(Financial System Report)の説明の中で、「英国が交渉なしにEUを離脱することになり、移行期間も設けられなければ、欧州の資本市場は分断され、英国およびEUの金融サービスは資本や担保の確保といった調整に時間を要することになり、多くの銀行員が需要の減退によって職を失うことになる」と。

興味深いのは、この発言はカーニー総裁の自発的な発言ではなく、財務特別委員会から交渉なし離脱の影響について問われた際の回答だったという点だ。

財務当局内でも、「交渉なし離脱」への備えの意識が高まっていることを示唆している。

カーニー総裁は今年5月にも、「英国のEU離脱が無秩序になれば、将来の政策金利のパスは変わり得る」「物価の安定と、雇用・経済活動のサポートのために、いかなる見通しの変化にも対応する」として、利下げを示唆するなど、中央銀行としての準備をしつつも、「交渉なし離脱」を避けるよう、英国政府およびEUに再三呼びかけている。

同時に、BOEでは、銀行のストレステスト(経営上のリスクに対する耐久度)に、「交渉なし離脱」の場合に想定されるシナリオを織り込み、緊急時対応計画の提出を求めるなど、EU離脱を決めた国民投票以降、危機管理体制を整えてきた。

また、金融システム安定を所管するFPC(Financial Policy Committee)では、ブレグジットに際して金融システム安定を保持するためのチェックリストを作成し、随時その現状評価を更新するなど、「最悪シナリオ」が実現した場合の準備を着実に進めている。

こうした危機感は、日本政府や企業に共有されているのかどうか。3ヵ月後には、現実のものとなるかもしれないのだ。

(野村総合研究所金融イノベーション部/主任研究員 石川純子)

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