オープニング初日でイプセン『幽霊』のワンシーンをバレエで披露 Photo: Asaki Abumi
シェイクスピア以後、最も世界で上演されている劇作家は北欧ノルウェー出身ということをご存知でしょうか。
「近代演劇の父」と讃えられるヘンリック・イプセン(1828~1906)は、代表作『人形の家』、『幽霊』、『ペール・ギュント』をはじめとして、新たな時代の女性の生き方、人間の葛藤や倫理観など、当時タブーとされていたテーマを社会に突きつけた人物として知られています。
イプセンの像が立つノルウェー国立劇場 Photo: Asaki Abumi
9月6~22日、16日間にわたって首都オスロの国立劇場で大規模な国際イプセンフェスティバルが開催されました。ノルウェー、ドイツ、フランス、中国、日本などの7カ国から、ノルウェーを中心に約19の劇団やバレエ団が参加。観客数は過去最高の1万3500人を記録し、大きな成功を収めました。日本からもシアターカンパニーシェルフ代表・演出家の矢野靖人氏が『構成・イプセン― Composition/Ibsen』を披露。
ノルウェー国立劇場制作『幽霊』 Photo: Asaki Abumi
今回の演劇祭はいい意味で予想と期待を裏切ってくれ、素晴らしい演出世界を味わうことができました。かつてはスキャンダラスとされたイプセン集も、現代人からすると当時ほどショッキングなものではありません。目の肥えたファンを前に、昔のレシピをいかに現代のエッセンスを加えながら調理していくか、演出側の力量が試されるレベルの高い演劇祭です。
観客はイプセン上級者
まず驚いたことが、プログラム全体がイプセン上級者向けであったこと。前知識がない状態では、「よくわからなかった」、「どうしてあそこで観客が拍手していたのかわからなかった」というもやもやした取り残された気持ちになってしまうかもしれません。
ノルウェー育ちで、「イプセンを知らない」という人は恐らくまずいないでしょう。こどもの頃から本、映画、演劇のいずれかの形で読み聞きしている人が多く、『人形の家』のノラという登場人物の女性の存在が何を意味するのかを大抵の人は知っています。
こども向けに開催されたアクティビティでは『ペール・ギュント』を分かりやすく解説 Photo: Asaki Abumi
演劇は富裕層のエンターテイメントとなりつつあるのか、観客の多くは優雅な装いをした高齢者でした。彼らは代表作をもちろん読んでいるだけではなく、過去に複数の上演作品を鑑賞していることが多く、「今回の演出方法は新しかったわね」と目が肥えている人たちばかり。マイナーな作品の上演前には、読み込んだ小説を持参して、ストーリーに再度目を通す婦人もいました。
「伝統的ないつも通りの演出」には飽きている人ばかりなので、新しい解釈で、時にはストーリーの流れに爆弾を打ち込んだかのような「サプライズ」が演出側は求められてきます。
シアターカンパニーシェルフを迎えての上演後のトークショー Photo: Asaki Abumi
「伝統的なイプセン」を超えてほしい、ノルウェー人の期待
印象に残った作品は、ノルウェー国立劇場が制作した『ペール・ギュント』でした。夢見がちで、女遊びにあけくれたペール・ギュントを「いつも通り」に上演せずに、現代のノルウェーのテレビ局のトークショーに、このどうしようもない男をゲストとして招待するという話。途中で現ノルウェーの首相、厳しい移民政策で知られる政治家、飲酒運転でスキャンダルなニュースが絶えない人気スキー選手、ホテルチェーンを所有する金持ちおじいちゃんなどを登場させます。ペールをはじめとする著名人を皮肉と風刺で批判する数々のシーンは、観客席から大きな笑いを誘っていました。
『ペール・ギュント』のワンシーン。写真に写ってる人物たちが誰か一目で分かる人は、かなりのノルウェー通 Photo: Gisle Bjørneby. Nationaltheatret, 2014
歴史的作品の結末を変える大胆さ
なにより、最終的には「結末を変え」、ペール・ギュントを最後まで待った純情な女性「ソルヴェイ」を目覚めさせ、「男を待つ女」から「男に見切りをつけ、傷つきながらも前進していく女」を描いたエンディングには拍手喝采の嵐でした。自立して強くなった現代の女性像がストーリーに大胆に組み込まれたことで、話の結末に「もやもやとした」気持ちを感じていた観客(特におばあちゃん達)の心をスッキリとさせたのかもしれません。
ドイツのシャウビューネ劇場による『民衆の敵』もチケットは完売。「この世の中で一番強い人間とは、孤独で、ただ1人で立つものなのだ」というセリフが有名な、倫理や正義感を問う作品です。町民集会の場面で、「観客にマイクを手渡し、議論に巻き込む」という試みは、誰がどんな発言をするかわからない、舞台と観客席の距離が近いならではの生のドキドキ感がたまりませんでした。
イプセンを音楽やバレエで表現
他にもイプセン作品をダンスやオペラ、無声映画スタイルで表現。セリフがないので、予習なしでは流れについていけない高レベルのものばかり。オペラハウスで上演されたバレエ版『幽霊』では、本当に幽霊がでてきたかのような、ぞくっとする不気味さが印象的でした。
個人的に気に入った4作品
- 『ペール・ギュント』(ノルウェー)ノルウェー国立劇場
- 『幽霊』(ノルウェー)ノルウェー国立オペラ・バレエ・オーケストラ
- 『民衆の敵』(ドイツ)シャウビューネ劇場
- 『民衆の敵』(ノルウェー)ノルウェー国立劇場
ピアノや水の流れる生の音で演出した『民衆の敵』 Photo: Gisle Bjørneby. Torshovteatret, Nationaltheatret, 2014.
イプセンの作品では家族同士が口論するシーンが多いのですが、ノルウェー人が演出する舞台では俳優たちが自分達の出身地の方言で演じます。異なる方言が飛び交いあい、悩み、苦しみ、喜び、そして叫ぶ。そのやり取りは「こういう風に喧嘩している恋人と家族、ノルウェーで実際に見たことあるわ」と筆者が何度も感じたほど、現実世界の生の人間模様を見ているかのようでした。昔のノルウェー語で作品を読むよりも、すっと簡単に話が頭に入ってきます。イプセン作品集は人間の葛藤やノルウェーという国の背景を理解するには格好の教科書かもしれません。
観客は録音機でセリフを聞きながら見る、『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』の登場人物たちのその後の交流を描いた野外舞台 Photo: Asaki Abumi
時が流れると社会構造が変化して、過去の大作では時代にそぐわない部分を感じることもありますが、国際イプセンフェスティバルではそんな観客の思いに呼応するかのように新しいイプセンを見ることができました。
最後に、「世界で最も名誉のある舞台芸術賞」ともいわれるノルウェー政府が創設した「国際イプセン賞」を、2014年度はオーストリア出身のペーター・ハントケ氏が受賞しました。同氏の作品「Immer noch Sturm (嵐はまだ続く)」で閉幕した演劇祭ですが、過去の政治的発言が原因で今回の受賞には異論を唱える人も多く、劇場前では抗議のデモが行われるほど。「さまざまな意見があって当然で、私たちは否定的な意見もリスペクトする」という主催者側の姿勢は、民主主義国家ならではの一面なのでしょう。
イプセン賞アワードセレモニーの様子 Photo: Asaki Abumi
個性の異なる演出陣とイプセンファンが集った16日間の演劇祭。次回は2016年に開催予定です。