BLOG
2018年08月27日 15時49分 JST | 更新 2018年09月06日 18時13分 JST

曖昧な相似形の視線に向けて――映画「寝ても覚めても」(濱口竜介監督)についての論考

自己(SELF)が他者(OTHERS)を受け入れることと視線の交錯とを同期してゆくという、この映画の規範は執拗に徹底されてゆく。

※ネタバレあり、最後まで触れているので鑑賞後に読むことをおすすめします

©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINÉMAS

自分がかつて愛した人と瓜二つの男が目の前にこつ然と姿を現し、そのあまりもの非現実に息が止まり、狼狽し、心を乱し続ける女。彼女と「かつて愛した人」は、とある写真家の写真展で出逢っており、それから2年ほど後、再び同じ写真家の写真展をこの「瓜二つの男」と訪れることになる...。

そこで二人が向き合うのは、かつても目にしたカメラをじっと見つめる双子の少女のショット。

無論我々は、度重なる「瓜二つ」の現象を敏感に感じ取り、厭が応にもこの女の身に降りかかる運命の相似形を予期せざるを得ない。反復する語りの構造、「瓜二つ」の顔、双子の写真というモチーフ、「2」という数字と共鳴するような音楽など———映画のフォルムをありったけ用いながら、運命の相似形を幾層にも変奏してゆくのが、この「寝ても覚めても」という(二つの意識が渾然一体になることを示唆するタイトル)の主題といえるのかもしれない。そこで批評的言説を駆使して「2」という数字と映画をテマティックに切り取ってみるというのは、当然考えうる視点だろう。私はむしろ、その中でも映画の本質に触れる箇所だけを焦点化してみたいと思う。自己と他者を、見る/見られるの関係性という映画言語に置き換えることについて、である。

いうまでもなく、「とある写真家」とは牛腸茂雄(ごちょうしげお)のことである。幼少のころ胸椎カリエスを患い、障害を抱え続けたまま36歳の若さで逝去した写真家は、その身体的ハンディゆえに「自己」と「他者」との関係性を意識することに根ざしており、彼の眼差しは初めて世界をみたような初々しさと深い洞察を湛えていた。代表作である写真集「SELF AND OTHERS」は、まさに「自己」と「他者」を、「見るもの」と「見られるもの」との関係性に共鳴させつつ写真へ取り込んだ世界だった。

牛腸茂雄「SELF AND OTHERS」より

では「寝ても覚めても」ではどうなのか。ここでは、人物たちの視線の交換が、他者を受け入れるか否かという主題と連動している。女・朝子は、写真展で出逢ったばかりの男・麦(ばく)と視線を交わした瞬間、すぐさま恋人として受け入れてしまう(「そんなわけないやろ!」と至極当然のつっこみが入りはする。)かと思えば、2年後麦と瓜二つの亮平(東出昌大二役)と出逢い、視線を交わした途端、大きな恋の動揺に襲われる。

自己(SELF)が他者(OTHERS)を受け入れることと視線の交錯とを同期してゆくという、この映画の規範は執拗に徹底される。

亮平は、「お好み焼きが嫌い」だと言う会社の同僚「くっしー」を連れ、朝子とルームメイトのマヤの家のお好み焼きパーティーに呼ばれてゆく。そこで、マヤが演じたチェーホフ舞台のビデオ録画を見、最低だと思いその場を去ろうとするくっしーを、マヤは引き止める。なぜ去るのかと問われ、「お腹痛くなったから」と適当な言い訳で誤摩化すくっしーを、マヤは矢継ぎ早に攻めたて、彼の秘めたる不満をぶちまけさせることに成功する。この世界において他者を受け入れずに避けようとする者は断じて許されず、真正面から向き合うことが強いられる。和やかであるはずの男女4人による会食シーンは、居心地の悪い修羅場と化す。濱口の映画において、不満があろうともそれを押し隠し、男女がにこやかに笑顔を交わし合うことは決してなく、血を見る本音の正面衝突を覚悟しなければならないと、我々は思い知る。マヤに対し決して視線をあわせようとしないくっしーは、「中途半端。これなんのためにやってんの?」「(マヤの演技は)誰にも届かない」と敵意丸出しで批評し、その場を去ろうとする。が、亮平に説得され、結局マヤに頭を下げることになる。彼は演劇を志した自分の過去まで白状し、自分の負のコンプレックスを認め、マヤの目を直視して謝る。

「批判してくれる人が一番ありがたいから。でも言い方を選んでくれたらもっとありがたいけど」と、マヤは謝罪を受け入れる。が、ここで重要なのは、至極まじめに人物たちが気持ちをぶつけ合い、和解に至ることではない。全く相容れない主張の持ち主たちが、最後に視線を正面から交わらせるアクションが肝要なのであり、言い換えれば、この映画において悪意による無視や蔑視も、自己が他者を受け入れる正視へと正される磁場が漲っているのだ。

視線を反らし続けることは許されず、正視を強いられる映画ははたしてどこに向かうのか。どうしても「瓜二つ」であることを受け入れられず動揺し続ける朝子は、亮平を拒み続ける。一度は唇を重ねたものの、二人が視線を交わすことはない。視界の先に思う恋人を収め、視線の双方向の充実を味わいたいという映画的欲望は満たされることなく、宙吊りは続く。それどころか恋人たちの視界は、さらに混濁を極めることになってゆく...。

「見るもの」と「見られるもの」という双方向の関係性が最も明確な空間———演劇場でそれは起きる。マヤの新たな演劇「野鴨」を見るために、座席に着いた亮平は突如、その視界を奪われる。周囲は真っ暗になり、味わったことのない強い揺れに襲われる。311だった。交通機関は麻痺し、電話は不通となり、帰宅難民と化した東京の人間たちは、いつ戻れるのか何も計算がたたぬまま、首都の高架をとぼとぼ歩き続けるしかない。夜、四方八方人に埋め尽くされた歩道は不明瞭極まりなく、視界の悪さは都市全体を覆う巨大スモッグのようになってゆく。そんな混濁の極みの中、恋人たちが再び視線を交えるという、絵に描いたような偶然が起きる。ここで我々は、この御都合主義をなぜか手放しで讃えたくなる思いに強く駆られる。それは、帰宅難民で電話もメールも通じ合わず心細い中、出逢えたという心理的抒情からでは決してない。混乱を極める都市のスモッグの中、定まらない視線の先に恋人をようやく収めるという映画視覚的必然が、見事に演出されたからではないだろうか。

この再会により東日本大震災が映画の大動脈に組み込まれる。朝子と亮平は、津波で無惨に破壊された宮城県閖上地区へ震災ボランティアとして、足繁く通うようになる。惨劇を直接見せるより、遠く離れた周縁(首都圏)の人間がいかにあの悲劇と関わろうとしたのかを見せる描写は、2018年の今、いかにも同時代的であり、東北と寄り添い続けることが、映画の必然として恋人たちの物語とシンクロしてゆく。しかるべくして朝子は、亮平と結婚を決意する。さらに、朝子がいつかは言わねばと思ってはいても隠し続けてきてしまった秘密:かつての恋人に「瓜二つであること」を、既に亮平は勘づいていたことが明かされる。「瓜二つ」の当事者は、実は他人から相似形の視線を受け止めることに自覚的であった。しかし、当の朝子は相似形の視線を注ぎ続ける自分に無自覚であり、「瓜二つ」のどっちを見ているのかについて曖昧であったことが、不意の偶然から明らかとなる。ファッションモデルとしてスターダムを登り始めた麦の撮影現場に居合わせてしまった朝子は、5年ぶりに出逢った「かつて愛した人」に大きく心を揺り動かされる。後日レストランで亮平と友人たちと和やかな会食をしている場に突如麦が現れたとき、朝子は迷いもなく「瓜二つ」の元のイメージとともに走り去ってしまうのだった。生まれて初めて目にする動物を母鶏と思い込む雛鶏のごとき反応は、相似形へ視線を注ぐことに対する朝子の無意識が露わになった瞬間と言ってよい。

そんな彼女に歯止めを掛けるのは、震災という大きな物語だった。北海道の父のところへ車を走らせる麦を制止し、宮城・閖上地区に降り立ち、過去を思い返す朝子は、自分の辿ってきた宿命を思い返す。かつて視界の闇へ明瞭さをもたらし、正視する相手・亮平を見出だしてくれた事件が311だった。被災後に建設された海を見せぬ巨大防潮堤により、自分自身の視線が遮られたとき、おぼろげな焦点を結ぶ先はどこか、朝子は改めて思い返したといっても良いだろう。

こうして女・朝子は、「瓜二つ」の複製のイメージの方へ回帰する。自分には、コピーこそが本物だと言うかのように。正面から向き合い相手と正視するというこの映画の必然を追い求めるように、大阪へ転勤した亮平の(二人で住むはずだった)新居を訪ねる。一度捨てられた男・亮平は当然のごとく「かえれ!」と、朝子を(文字通り)門前払いする。視界の充実を拒まれた朝子は、かつて少しでも自分を見つめてくれた人を求めたのだろうか、大阪の友人・岡崎に会いにゆく。昔自分と麦が抱き合うのをベランダからその視界に収めていた男は、いまや難病(ALS、筋萎縮性側索硬化症)を患い、一語も発することができないどころか全身の筋肉が硬直しており身動き一つとれない。その男に唯一できることは、ほとんど「ガン見」のごとく、朝子に強度ある眼差しを注ぎ続けることだった。

それが、彼女に一つの気づきをもたらす。「瓜二つ」のどちらかを見つめるかばかりに精一杯で、相手の視線を受け止めること、相手の発する言葉を聞くこと、に無自覚であったのではないか。一切言葉を発さない岡崎の「空白」により、自分ばかりが自分のことを話し、自分が視線を注ぐことばかりに執着していたことに気づかされる。友人・岡崎が牛腸茂雄だとは言うまい。が、SELF とOTHERS を見返す視線によって分断する存在として岡崎が登場したのは、間違いないだろう。

「わたし、こんな時も自分のことばっかりで...ごめんなさい...」と言って涙し、女は恋人の視線を受け止めることから始めなければいけないことに気づく。

果たして彼女は、淀川の支流だという川原の草むらに向かう。

そのかわいげな容姿に似つかわしくない老人の口臭サプリの名をつけられた猫を探しているときに、ふたたび亮平と出逢う。起こるべくして起きたラスト、おそらく二人は互いの顔をまざまざと正視し、視界を満たし合い、体を寄せ合うのではないかと、映画的必然を期待する我々を裏切る形で、しかし朝子は「あやまらへん」と言い放つのだった。岡崎の強度ある視線で目覚めた朝子は、ただ自分の身体を亮平の視線の先に置くことが、もっとも誠意ある謝罪の態度であり、愛の仕草であることを知ったかのように。

二人は抱擁もすることなく、新居の二階でゲリラ豪雨後の川の氾濫を並んで見つめる。

「きったない川やで」 「でも、きれい」

映画の最後のアクションは、亮平が朝子を見つめ、彼女がその視線を受け入れる、だった。互いに正視することがもはや出来なくなってしまった今、朝子は亮平を見つめない。見つめ、見つめ返されるのは、自分には身に余る贅沢だというかのように。二人が見つめる未来は、そのスクリーンを見返す我々の脳裏にのみ反映される。視線の映画「寝ても覚めても」は、こうして終わりを告げる。

9月1日(土)より、テアトル新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイントほか全国公開