私のように、過去15年間にシンガポールに住んだことがある人なら誰でも、効率的で、安全で、それに何事もうまくいっているシンガポールにいかに慣れ切ってしまうか、お分かりになるだろう。道路、地下鉄、空港、歩行者の動き、モール、そして現在進んでいる建設プロジェクトを問わず、すべてが信じられないほど優雅に、問題なく機能しているように見える。だからシンガポールは世界中の羨望の的となっている。その大きな理由は、シンガポール政府が効果的に国を運営しているからであり、現在のシンガポールを創設した、リー・クアン・ユー(LKY)の遺産に負うところが大きい。
LKYが1990年に首相を辞任した後、彼が作り上げ、育てた民主主義のかたちを、あなたなら何と言うだろうか。その最終形は、東南アジアで比類のない経済の奇跡だ。それはこの数十年、国の規模をはるかに上回る形で進行した。奇跡を可能にしたのは、いくつか理由がある。シンガポールには常に地域や世界の経済の実情に適応する能力がある。その能力とは国力を増強する、外国人にシンガポールでの生活や仕事を奨励する、さらに独自の方法でグローバルな舞台で外交的プレゼンスを維持して自らが「プレーヤー」となる、といったことだ。
LKYが1959年に首相に就任したとき、シンガポールの人口は200万人に満たなかった。現在では600万人に近づいている。その多くは外国人で、シンガポールが東南アジアの金融・技術大国になる一助となった。シンガポールの信じられないほどの成長を達成するために不可欠だった重労働の多くも、彼らが生み出してきた。 1960年のシンガポールのGDPは10億ドル(約1192億円)未満だった。2014年には、3000億ドル(約35兆7000億円)に近づくほどになった。 1960年に、一人あたりGDPは427ドル(約5万円)だった。 2013年には、一人あたり5万5000ドル(655万円)を超えた。どう見ても、これは驚異的なサクセスストーリーだ。
1959年6月5日、シンガポール総選挙に勝利した人民行動党のリー・クワンユー
多くの人が、シンガポールの政治体制を批判する。これは民主主義を装った「一党独裁」だと言う。こうした人は、言論の自由の制限、政府や政府職員への批判に対する厳しい罰則、マレー系やインド系少数民族に対する潜在的そして露骨な差別、そして「乳母国家」と形容される、過度に父権主義的な性質を指摘する。見方によっては(シンガポール人か、駐在員か、少数民族か、海外からの外国人労働者かによって)、このうちの一部や大部分が真実に思えるだろうし、あるいは単に関係ないとか、必ずしも重要ではないと認識するだろう。この全てが、シンガポールのストーリーの一部なのだ。
しかし間違いないのは、LKYと彼の率いる人民行動党は一貫して期待に答えてきたということだ。大成功といっていい。私に言わせれば、政府の「民主主義」には小文字の「D」はあるかとか(民主主義的な視点をもった個人がいるかどうか)、政府が私の電話を盗聴しているのかどうかとか、道路の横断歩行やチューインガムを禁止する法律を作るのかどうかなんてことは、私は特に気にしない。そんな法律の多くはそもそも強制力はなく、問題ではない。
私にとって問題なのは、安全で、清潔で、効率的な場所に住めるかどうかと、職を得られるかどうかだ。この面でシンガポール政府は、A+を与えられる。シンガポールからマニラに異動した経験がある私だから言えるが、その後私は長い間シンガポールが恋しくなった。アメリカに戻って8年になる今でも、シンガポールで機能していた多くのものを、アメリカに持って来られたらいいのにと思う。私たちは、「シンガポールのやり方」から多くを学べる。
だから、 LKYの遺産は何かと聞かれれば、ほとんど何もないところから本当に意味あるものを作り出す方法を編み出した、教科書的な事例だと答える。小さな島国を、経済の巨人に作り変える方法だ。問題だらけの海域で、聖域を生み出す方法。そして、生き残り、繁栄するために、絶えず進化する方法だ。
*ダニエル・ワグナーは、カントリー・リスク・ソリューションの最高経営責任者(CEO)で、書籍「Managing Country Risk」の著者。
このブログはハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。