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2021年01月28日 17時27分 JST | 更新 2021年02月17日 12時40分 JST

田中将大が「伝説」になるまで。東北楽天に復帰、日本での歩みを“3人の恩師”の言葉で振り返る

東日本大震災から10年となる節目の年での古巣復帰。2021年シーズンは「伝説」の続きが始まるか。

時事通信社

米大リーグのニューヨーク・ヤンキースからフリーエージェントとなっていた田中将大投手が1月28日、2013年まで所属していた古巣・東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することが決まった

背番号はかつて自身が付けて以来、空き番号となっていた「18」。2013年にチームを悲願の初の日本一に導き「伝説」となって海を渡った大エースが、慣れ親しんだ杜の都・仙台、東北のマウンドに帰ってくる。

日本球界への復帰に合わせ、田中投手に影響を与えた3人の恩師の言葉と共に、日本での歩みを改めて振り返る。

すべては「捕手・田中」から始まった

田中投手は小学1年の頃、地元である兵庫県伊丹市の少年野球チームで野球を始めた。現在巨人で活躍する坂本勇人選手は同級生。小学6年の時には坂本選手が「投手」、田中選手が「捕手」として同じチームでバッテリーを組んでいたのはよく知られた話だ。

その後は中学時代を経て、北海道の駒澤大学付属苫小牧高校(駒大苫小牧)に進学。2005年、2年夏の甲子園に投手として出場すると同校の大会連覇に貢献。翌2006年には夏の甲子園3連覇を目指した大会にはエースとして出場し、準優勝に輝いた。

3連覇はならなかったが、当時早稲田実業のエースで現日本ハムの斎藤佑樹投手と投げ合った再試合を含む決勝戦は高校野球の歴史に刻まれる名勝負となった。

なぜ「投手・田中」は誕生したか。高校時代の恩師が明かした“転機”

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力投する駒大苫小牧の田中将大投手(甲子園)=2006年08月21日

田中投手を擁して夏の甲子園3連覇に挑み、球史に名を刻んだ駒大苫小牧。

しかし高校1年次の田中投手は捕手が本職で、背番号は「2」だった。投手としてのデビューは2004年秋の明治神宮大会。羽黒高校(山形)との2回戦だった。その試合では負け投手になっている。

なぜ、「投手・田中」が誕生したのか。当時の監督の香田誉士史氏(現西部ガス監督)はその経緯について、このように振り返っている

「(明治神宮大会は)連戦だったので(田中に)投げさせてみたら、いろんな方に『あの2番はすごい』『20年に1人の素材』などと言われ、本当かなと思った」

 

その後香田氏は2004年冬の面談で、今後捕手でいくか投手でいくかを自身に選択させる機会を設けた。そこで、田中投手から「投手1本でいきます」との返事が返ってきたという。

2年次の2005年夏は背番号11ながら、当時3年の松橋拓也投手らとともに活躍し地方大会を突破。その後見事、夏の甲子園連覇を果たした。

もし、当時の明治神宮大会で登板することがなければ、本職だった捕手としての選手生活が続いていた可能性もある。

2006年夏、2日間にわたり記憶に残るあの決勝戦での名勝負は生まれていなかったかもしれないのだ。

同年のドラフト会議では4球団が田中投手を1位指名。楽天が交渉権を獲得して入団し、プロ野球選手・田中将大が誕生した。

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駒大苫小牧高の田中将大投手は楽天に1巡目で指名され、笑顔でチームメートの祝福を受けた(北海道苫小牧市の駒大苫小牧高グラウンド)=2006年09月25日

「マー君、神の子、不思議な子」

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田中将大投手から、監督通算1500勝のウイニングボールを受け取る楽天の野村克也監督=2009年04月29日

2007年8月3日の試合後、当時の監督だった故・野村克也氏が田中投手について残した言葉は、野球ファンならずともあまりにも有名だろう。

どのような経緯でこの言葉が生まれたのか。野村氏の発言にはこう続きがある。

「いくら(点を)取られても(味方が)取り返す。不思議な子だね」

この年がプロ入り1年目のルーキーだった田中投手は、1軍での初先発から3試合連続で打ち込まれていた。

しかし、自身が降板した後に味方打線の援護に恵まれ、敗戦投手になっていなかった。「マー君、神の子、不思議な子〜」という名言は、そのことを受けて報道陣に向けて発せられた言葉だった。

野村氏はこうも語っている

「何点取られるか投げ続けさせたら、天から神が降りてきた。先祖代々、何かあるんだろうな。そういう星の下に生まれている」

野村氏は田中投手に入団前から特別な期待を寄せていた。2006年のドラフト会議では田中投手について、このように話している。

「田中君の交渉権がとれたのだから100点満点。人生はまさに縁。弱い球団だし、俺が強くするという意気込みで来てほしい」

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ドラフト会議で田中将大投手の交渉権を獲得し、笑顔を見せる楽天の野村克也監督(左)と島田亨球団社長(右端)※すべて当時=2006年09月25日

2007年シーズンは終わってみれば11勝。先発投手、ルーキーとしての役割を十分に果たし「杜の都のエース」への道を歩み始めることになる。

2020年2月11日、亡くなった野村克也氏。田中投手はその死をこう悼んだ。

「野村監督には、ピッチングとは何か、そして野球とは何かを一から教えていただきました。 プロ入り一年目で野村監督と出会い、ご指導いただいたことは、僕の野球人生における最大の幸運のひとつです。 どんなに感謝してもしきれません。 心よりご冥福をお祈りいたします」

新人だった田中投手のプロ野球人生、最初に大きな影響を与えたのは野村氏だった。

「田中将大が、伝説になりましたー!」

「東北楽天ゴールデンイーグルス!球団創設9年目、初めての日本一!雨の仙台で、東北が1つになり、そして、田中将大が、『伝説』になりましたー!」

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日本一となり、嶋基宏選手(左・現ヤクルト)と抱き合って喜ぶ、当時楽天の田中将大投手

2013年の日本シリーズ第7戦。実況を担当していたアナウンサーが紡いだ、試合終了の瞬間の言葉だ。

日本一決定の瞬間、スタジアムでは地響きのような歓声と白いジェット風船が舞い上がり、歓喜の輪の中に「伝説」となった田中投手はいた。

2013年11月3日、日本一の行方が第7戦にまでもつれ込んだ東北楽天対巨人の日本シリーズ。3-0で楽天がリードして迎えた9回裏、マウンドに君臨したのが絶対的エースの田中投手だった。

満身創痍だったが、悲願の日本一を夢見る被災地・東北のファンの希望だった田中投手は満を持しての登板だった。

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日本シリーズ第7戦、抑え投手として登板しマウンドに上がる楽天の田中将大投手=2013年11月03日

第5戦を終えて、楽天が3勝2敗と王手を掛けた状況で仙台に戻って来た第6戦。

田中投手は同シリーズ2度目の先発マウンドに立った。「勝ってこの日に日本一を決める」という青写真を東北のファン誰しもが描いていたが、160球の熱の込もった完投も及ばず2-4で敗れ、負け投手になった。

勝てば優勝が決まる第7戦だが、前日の球数を考えれば、田中投手の登場は厳しいとの見方もあった。しかし、第7戦の9回裏のマウンドには“彼”の姿があった。

当時の監督だった故・星野仙一氏が、あの場面の起用についてこんな言葉を残している。

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日本シリーズを制し、抱き合って喜ぶ田中将大投手と楽天の星野仙一監督(当時)=2013年11月03日

「本当は考えられないような継投なんだけれども、どうしたって田中が『行く!』と。彼がいたからこそ、この日本シリーズに出られたわけですから。最後はやはり、あいつ(田中)が相応しいだろうということで、彼に託しました」

星野氏が「彼がいたから」と言うように、2013年シーズンの田中投手は24勝0敗という成績で「シーズン無敗」という異次元のような偉業を達成。日本一は、田中投手なしでは実現しなかったと言っても過言ではない。

同年2月のキャンプで、田中はこう語っていた

「今年の野球界の主役は、俺たち楽天だー!」

まさに、有言実行だった。

その後は2014年からは大リーグのニューヨーク・ヤンキースに移籍。

6年連続で2桁勝利、2015年からは3年連続で開幕投手を務めるなど活躍し、シーズンが短縮された2020年は10試合に登板して3勝3敗だったが、長年に渡って先発投手の柱としてチームを支え続けた。

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大リーグニューヨーク・ヤンキースでも躍動した田中将大投手

メジャーで実績を十分に積んだ田中投手が、8年ぶりに再び“クリムゾンレッド”のユニホームに袖を通す。

東日本大震災から10年となる節目の年での古巣復帰。背番号「18」に寄せられる期待は大きい。2021年のシーズン、「伝説」の続きが始まりそうだ。

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