「AI」と人類の未来はどうなるのか(下)『ダ・ヴィンチ・コード』作者ダン・ブラウン初来日講演--フォーサイト編集部

自己認識型のAIロボットをつくり、それを暗闇に放置したとします。

 新作『オリジン』のリサーチをするにあたって、AI(人工知能)の分野で活躍している科学者にいろいろと話を聞きました。多くの人は、ある日、AIのロボットができて、意識を持つようになり、自己認識するようになるというふうに思っています。

 そこでちょっと考えてみたんです。自己認識型のAIロボットをつくり、それを暗闇に放置したとします。誰につくられたのか、なぜつくられたのかという情報を一切与えず、我々が、地上に住む人間が無の空間を彷徨うように、デジタル空間を勝手に彷徨わせたらどうなるんだろう。このAIロボットは、自分はどうしてここにいるのだろうということを問い始めるでしょうか。創造主に対する好奇心を持ち始めるでしょうか。あるいは、どのようにして自分がつくられたかということを説明するために、歴史とか神話をつくってしまうのでしょうか。

 つまり、意識のあるAIロボットをつくって、なんでつくられたのかということを教えなかったならば、その機械はそれを知りたがるのか。知りたがるとしたならば、意識の副産物の1つとして、創造主はやはり定義しなくてはならないのだということになるのか。人工的な知能ですら、創造主を知ることを切望するあまり、創造主を知らないということを認めるよりも、つくり話を仕立てるのかどうかということです。

宗教や言語を超えた真理

 ここに集まっている人、全員それぞれ信仰的な信念は違うかもしれない。でも皆、芝生に寝そべって、夜空、星空を眺めながらプライベートな時間を過ごしたことがあろうとなかろうと、こう思ったことはあるでしょう。創造主がなんであろうと、自分の理解できる範囲をはるかに超えていると。

 そう思い至った時、実は、具体的な信仰はどうでもよくなるのではないでしょうか。夜空の星を仰いでいようと、生まれた赤子を抱いていようと、恋に落ちていようと、静かに死を恐れていようと、これは普遍的な経験なのではないでしょうか。

 そこで問題です。もし我々の精神的体験がそこまで似ているのであれば、なぜそれぞれの宗教ごとに、唯一最大の問題に対する回答が違ってしまっているのか、ということです。つまり、本当はその解答は、それほど違わないのではないでしょうか。

ゴミ箱に捨てたニュース雑誌

 ちょっと面白い話をします。『ダ・ヴィンチ・コード』の人気が頂点にあった時、ある有名なニュース雑誌が特集記事を組みました。「キリスト教にはダン・ブラウンを恐れなければならない何かがあるのか」というものでした。自分も相当、大物になったなあと思ったのですが(笑)、雑誌を家に持って帰って、妻の机の上に置いてみました。結婚した相手がいかに重要な人物であるか分かってくれるかなと思ったのです(笑)。

 その日の午後、その雑誌が私の机の上に戻っていました。記事の一文にマークがついていました。それは、著名なイギリス人牧師が特集記事の中である質問に答えたものでした。その牧師はこう語っていたのです。「キリスト教神学は、ダーウィンやガリレオの著作に対しても生き残ってきた。当然、とあるアメリカの小説家が何を書いたとしても、生き残っていくでしょう」。

 もちろん、私はそっとその雑誌をゴミ箱に入れて、ゴミとして捨ててしまいました(笑)。

最初は躊躇った映画化 

 自分の書いた本の映画化について聞かれることがあるので、少しそのことについてお話をさせていただきたいと思います。

 2006年6月、映画『ダ・ヴィンチ・コード』のプレミアムが東京でありました。ラングドン教授を演じてくれた主演のトム・ハンクスも来日しましたね。覚えておられる方もいらっしゃるのじゃないでしょうか。

 その映画の関連で人からよく尋ねられるのですが、『ダ・ヴィンチ・コード』を書いている時、ラングドン役はトム・ハンクスを想定していたかという質問があります。

 実は言っておかなければならないのは、前作(『ダ・ヴィンチ・コード』の2年前、2001年に発表された『デセプション・ポイント』)は、上下巻でしたが、売れた部数は12冊くらいだったと思います(笑)。6冊は母親が買ってくれました。息子がかわいそうだということでした(笑)。

 ですから、『ダ・ヴィンチ・コード』を書いている時は、それがあんな大作映画になってトム・ハンクスが主演してくれるだなんて想像もしていませんでした。少なくとも、妻を1年に1回くらいレストランの夕食に連れて行けるくらいは本が売れることを望んでいましたがね(笑)。

 本が売れた時は本当にわくわくしたんですが、映画にしたらどうかという話が来た時、本当は確信が持てなかったのです。というのは、本の魔法というのは、読む人ごとにいろいろなことを想像してもらえる力があるということなんです。たとえば、子供たちが『ハリー・ポッター』を初めて読んだ時、子供たち全員が心の中に自分たちのハリーのイメージをつくることができます。自分だけのハリーのイメージです。ところが、映画が公開されてしまうと、その瞬間からハリーのイメージは、俳優と同一化してしまいます。

 そこで、『ダ・ヴィンチ・コード』については、ロバート・ラングドンシリーズが完結するまで待った方がいいのではないかと思っていました。ただ、最終的には説得されて、ハリウッドの世界に飛び込むことになりました。

 ともあれ、ロン・ハワード監督とトム・ハンクスと一緒に仕事をすることができたのはとても贅沢な経験でした。何と言っても、ハリウッドの世界で最も素晴らしい人たちと仕事ができたわけですから。

マグダラのマリアにダイエット・コーク

 撮影が始まると、当たり前と言えば当たり前ですが、それまで映画の撮影現場って見たことがありませんでした。この時、最初に訪れた現場というのは、パリでした。実はその現場とは、ルーブル美術館だったのです!

 もちろん、ルーブルで撮影するのですから昼間は一般のギャラリーがいるため、撮影は深夜で、ひと気のまったくない時間帯。テイクの間に俳優や監督、スタッフらがいろんな作業をしていましたので、そういう準備をしている間、ひそかに館内を巡りました。で、気が付くと1人で、モナ・リザの前で佇んでいました。おそらく一生に一度の瞬間だったと思います。信じてもらえますか? 夜中の2時に、モナ・リザの前で佇んでいたんですよ! 

 そして、それで十分だったはずなのに、その時、グランドギャラリーの方に目をやると、なんと、アルビノ(色素欠乏症)の修道僧が走り抜けていたのです!(もちろん俳優。この修道僧が、作品中ではとても重要な役回りを果たします)。あれは実にシュールな、非常に記憶に残る一瞬でした(笑)。

 実はその時、私の両親も撮影現場を見にきていたんです。正直に言うと、私はそれで相当ナーバスになっていました。だって、母親がトム・ハンクスに会ったら舞い上がってしまうのではないかと思っていましたし、また父親が数学者ですから、カメラの後ろに回って好き勝手に「アングルは数学的な角度からするとこの方がいい」とか言い出すのではないかと思っていたんです(笑)。幸い、両親は行儀良くしてくれました。

 見学が終わった後で母親が言ったことなんですが、映画の撮影現場というのは実に変わった場所だと。世界中どこに行っても絶対に聞くことのできないような言葉がよく聞こえてくると言うのです。たとえば、「この死体を3フィート左に動かしてくれ」「カラヴァッジョの絵には血をつけないように」「ハンクスさん、グッドニュースです。ロスリン礼拝堂(作品のラストに登場する最も重要な場所)のトイレは使ってもいいそうです」。

 いや、本当に、実際にそうだったんです。とりわけ、私のお気に入りは次のひと言です。「誰かマグダラのマリアにダイエット・コークをあげてくれ!」。

 映画の撮影現場って、実に不思議で楽しいところなんですね。

トム・ハンクスと一緒にスカート

 映画の撮影は、スコットランドのエジンバラで終了しました。そこで打ち上げパーティーをホテルで開くことになりました。その際、男性は正装用のキルト、これはスコットランドの男性用のスカートですね、これを着なさいという案内が来ました。私は正装用のキルトも普通のキルトも着たことがありませんでした。そもそもスカートというものをはいたことがないのです(笑)。

 そこでパーティーの前に、トム・ハンクスとロン・ハワード監督とホテルの一室で、キルトというのはどのようにはくのか色々と試してみました。その時、トム・ハンクスが私にはき方を教えてくれたんです。それを見ていたロン・ハワード監督が私にこう聞きました。「ダン、『ダ・ヴィンチ・コード』を書き始めた頃、スコットランドのホテルの一室でトム・ハンクスにスカートをはかせてもらうなんて想像していたかい?」。

 私は、ちょっとばつが悪そうにこう答えました。「そうさ、これこそまさに、私の人生目標のシナリオ通りで、『ダ・ヴィンチ・コード』の執筆だけがそれを実現する手立てだったんですよ」とね(笑)。

数学は「悪魔の哲学」

 最後に、『オリジン』の中核のテーマに戻ってもいいでしょうか。つまり、昔からある、科学と宗教の戦いです。

 先ほど私は、科学的進歩によって神の領域が侵食されていて、宗教を蝕んでいったと言いました。でも、誤解しないでください。宗教だって決して科学にとって良き友ではなかったのです。

 8世紀のころ、世界最高の学都はいまのイラクの首都バグダッドでした。あらゆる宗教や哲学、科学に門戸を開いていました。500年にわたってこの街は世界に類を見ない科学の革新的成果を生み出し続け、今でも我々は当時の科学的発明を使っています。英語でアラビア語由来の単語が使われているアルジブラ、台数、アルゴリズム、アルケミー、錬金術、ケミストリー、化学、サイファース、暗号、そして父親が大好きなゼロという数字です。

 11世紀になると、ガザーリーという神学者、ちなみにこの人はムハンマド以降、最も影響力のあったイスラム教徒と思われていますけれども、数学を「悪魔の哲学」と呼ぶ一連の著作を書きました。科学的探究に代わって神学研究だけにせよと要求したんです。そうすると即、科学的探究が一切やめられて、宗教的啓示ばかり提供されまして、それで科学活動が崩壊してしまいました。

 キリスト教聖職者だって科学に対して似たような攻撃をしたんです。ブルノ、ガリレオ、コペルニクスがその標的でした。火あぶりの刑、幽閉、あるいは科学におけるもっとも聡明な頭脳や思想を糾弾しました。

進化論の授業に抗議が殺到

 これは今日でも、2018年になっても続いているのです。最近、マドリッドにおきまして、「カトリック医学協会国際連盟」は、科学には心が欠けているから教会が抑制するべきだとして、遺伝子操作に対して宣戦布告をしました。

 個人的な話ですが、私の母親は最近、肺がんと白血病で亡くなってしまったのですが、それでも10年延命できました。それは遺伝子工学が、遺伝子学があったから。だから、「科学には心が欠けていて、教会が抑制しなくてはならない」なんて誰かが言っても、私は否と言いたい。

 アメリカでは、理科の教師が進化論を教えようとすると、怒る親が押し寄せて、身体的な脅威にさらされ、天地創造とアダムとイブについても同等の評価をせよと迫るんです。

 こんなことを言うとアメリカだとトラブルになるかもしれませんが、日本では安心してこう言って良いと思います。なんと2017年、ある政治家がこういうふうに公言したんです。「地球ができたのは6000年前だ」と。「じゃあ化石は?」と聞くと、「化石はね、神が我々の信仰を試すために置いたんだ」と。ここで笑ってくださってありがとうございます。

 これはもう驚くべき出来事です。こういったような考え方は宗教的な思想というふうに分類されてしまうので、それを嘲ることが禁止されるどころか、学校で教えるかどうか議論することすらタブー視されているんです。

 もちろん、誤解しないでください。宗教はいろんな善をもたらしました。必要な人を支えました。また倫理および道徳の基軸をつくりました。そして共同体を重んじる伝統、神に対する称賛の伝統をつくりました。

 しかし、ますます科学が進歩する世界で、宗教が生き残りたい、重要性を失いたくないのであれば、自分たちは理論による精査を受けずとも済むとか、あるいは隔離されてよい存在なのだなどと宣言したところで、何の足しにもならないのです。

 何世紀にも亘って、世界の宗教の根本的な教義は変わっていません。ある意味では、これこそがその強み、魅力なのです。つまり、宗教が安定している、自信を持っている、一貫性がある、時とともに変わらない。その普遍さが重要だと私も思います。

 その一方で、科学技術は、時とともに劇的に変わってきました。

科学の進歩に倫理観がついて行けるか

 今、科学の進歩はあまりに早いペースで起きているので、我々の頭脳がそれにやっとついていけるかついていけないかといったところです。

 人類が火を見出してから車輪をつくるまでに100万年以上要しました。その後、活版印刷機の発明に数千年かかりました。そこから200年足らずで望遠鏡の発明です。続く数世紀の間には、さらに短い期間で蒸気機関からガソリン車、ひいてはスペースシャトルまで飛躍する。そしてさらにその後、たった20年で自分自身のDNAを修正・改造し始めたのです。

 今、科学の進歩は月単位で更新されます。もう度肝を抜かれるようなペースです。そんなに遠くない将来、今の最速のスーパーコンピューターがそろばんに見えてしまう日が来るかもしれない。今、一番進んでいる外科施術法が野蛮だと思うかもしれないし、発電方法がロウソクみたいに古風に見えるかもしれない。

 初期のギリシャ人は、古代の文化を学習するために何世紀も遡らなくてはならなかったのですが、今我々が当たり前と思っている技術なくして生活した人の歴史を学ぶためには、我々はたった1世代遡れば済むんです。それだけ、人間の発達のペースが圧縮されている。古代と近代を分離していた空間が、もうほとんど無に等しいくらいなくなっているのです。

 未来の技術は我々が想像できないようなことを可能にするような力を持つでしょう。我々は新しい創造性、探究の力を与えられるでしょう。人間同士の反応の仕方が劇的に拡大するでしょう。そういった中で真に我々が問わなくてはならない問題は、技術が進む中で、我々の哲学がついていけるかということ。道徳観が、我々が憶測すらできないような問題に対応するだけ早く成長できるか。倫理観についても、驚くほど早いペースで進歩することによって、今つくっている見事な道具を責任ある形で使いこなせるだけの十分に成熟した倫理観を持つことができるか、ということです。

一番大事なのは「対話」

 未来のこういった倫理のジレンマについて悩むときに、信仰、宗教が大きな影響を及ぼすことは確かなのだと思います。常にそうでした。未来について我々が考える時、今ある既存の神が、明日の哲学でどういう役割を果たすのかということです。それは1人1人が決めること。

 でも、その結論を出す時に決して忘れてはならないことがあります。それは、我々のDNAの中で、先天的に自分の信仰を決めているものは何もないということ。ある神が本当の神だと刷り込まれて生まれるのではないということ。我々は生まれてから文化に入るということ、つまり、自分の親が崇める神を自然と自分も崇拝するということです。アメリカ人全員がチベットの高山で生まれていたなら、おそらく全員、仏教徒になっていたでしょう。そしてそれぞれのアメリカ人が今、熱心に信じている宗教に対する熱意と同じだけ、仏教と哲学を信じていたでしょう。我々は親が崇める神を崇拝してきたのです。それだけ単純なのです。

 そこで、私の話を締めくくるにあたって、一言だけ言わせてください。世の中は今、日々小さくなっている。そして、今まで以上に自分の思っていることが絶対であるなんて信じることが危険になってきました。つまり、真実に対する自分のバージョンが絶対的な真実であって、自分と違う意見を持っている人は誤っていて敵だと思う危険性が高まっています。

 そういう時代にあっては、我々の、人間という種の存続のために、開かれた心を持つことが大切です。自分を教育する。難しい質問を問いかける。そして一番大切なのは「対話」です。とりわけ、意見の違う人との対話こそが重要なのです。

 そこで、対話とアイディアの共有の名の下で、今日、我々が一堂に会することに一役買ってくれたものを称えましょう。それは「本」です。魔法を起こす本です。国境を越えて、文化圏を超えて、言語を超えて、そして最も大切なことに時空を超えて、アイディアの共有を許してくれるのです。

 読書家の皆様、本を宝物として大切にする皆様に感謝をささげます。

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(2018年6月22日
より転載)

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