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2018年11月22日 11時04分 JST | 更新 2018年11月22日 11時05分 JST

国交樹立30周年「日本」と「ミクロネシア連邦」の架け橋となった「日系人」の物語(上)--フォーサイト編集部

奄美大島ほどの小さな国に、多くの日系人が暮らしていることはあまり知られていない。

Dmitry Malov via Getty Images

日本から南へ4000キロ。サイパン、グアムのすぐ先に位置するミクロネシア連邦は、ギリシャ語で「小さい」という意味の「ミクロ」と「島」を表す「ネシア」が合体した名前の通り、607の小さな島々と環礁からなる太平洋の島嶼国だ。

「ミクロネシア=国」というイメージがない人も多いだろうが、オセアニアのうちハワイとニュージーランドの東側を「ポリネシア」、西側の赤道以南を「メラネシア」、赤道以北を「ミクロネシア」と呼び、そのミクロネシア地域の中にサイパン、グアム、ミクロネシア連邦などがある。

さて、この人口11万、国土700平方キロメートル(奄美大島ほど)の小さな国に、多くの日系人が暮らしていることはあまり知られていない。

1890(明治23)年に「南島商会」(現「南洋貿易」、東京都千代田区)という貿易会社が支店を開設すると、続々と他社も進出。従業員の移住がはじまった。戦前の一時、日本の委任統治領だったこともあり、5万人の現地人に対し8万人の日本人が暮らしていたという。戦後はアメリカの信託統治領となり、1986年にミクロネシア連邦として独立した。

現在は2万人超の日系人がおり、人口の2割を占めている。アメリカやブラジルに比べたらほんの僅かだが、割合で言えば世界一かもしれない。

ジョン・フリッツ駐日ミクロネシア連邦大使(58)も、その1人。日系3世だ。

「明治時代に移住した祖父の相沢庄太郎は、神奈川県藤沢市出身で南島商会の後身会社で働いていました。本当はもう少し南にあるパプアニューギニアへ行くはずが、船の不具合か急病人が出たかで引き返し、現在のミクロネシア連邦トール島(当時の水曜島)に漂着。現地の女性と結婚し、私の母が生まれたのです」

18歳で来日した彼は、東海大学卒業後の1988年、駐日ミクロネシア連邦大使館の前身である連絡事務所に一等書記官として赴任。公使を経て2008年、大使に就任した。

実は1988年は、日本とミクロネシア連邦が国交を樹立した年でもある。つまり今年で30周年。その道のりは、フリッツ大使の物語と重なるのだ。

独立運動を支えた日系人

もう少し歴史を振り返ろう。

1891年に最初に移住した日本人は、コプラ(ココナッツの胚乳を乾燥させたものでコプラ油の原料)の輸入を手掛けていた森小弁という土佐の商社マンである。彼の子孫は現在、同国内に2000人以上おり、第7代(2007~2015年)大統領のマニー・モリは曾孫に当たる。こうした縁から、今も高知県とミクロネシア連邦は交流が盛んだ。

「最初にモリさんが渡り、その後に新潟出身のシライさん、私の祖父のアイザワ、横浜出身のナカヤマさん、さらにアキナガさん、スズキさんと続きました」

現地で「ナカヤマ」は特別な響きを持つ。この「横浜出身のナカヤマさん」は、大正に入ってから移住した相沢氏の同僚、中山正実のこと。その息子のトシオ氏は、1970年代末に独立運動を牽引した人物なのだ。

「同じミクロネシア地域には、他にもマーシャルとパラオというアメリカの信託統治領がありました。パラオは大陸に近く、マーシャルには米軍基地があったので、どちらもアメリカの軍事戦略上、必要だった。でも、今のミクロネシア連邦に当たる地域には、それほど必要性がなかったのです。そこでトシオさんが住民に呼びかけ、運動が始まりました」

1979年に憲法が発効し、功労者のトシオ氏が初代大統領に就任。彼は「建国の父」と呼ばれている。

「ミクロネシア連邦では、アメリカに独立が認められた1986年11月3日を独立記念日としていますが、本当の建国は1979年なのです」

伯父がもたらした劇的な変化

独立運動を支えた人たちの中には、フリッツ大使の伯父、ススム・アイザワ(相沢進)氏もいた。実は彼、日本でもちょっとした有名人。第2次世界大戦中に日本へ疎開し、日本の中学、高校を卒業後、「毎日オリオンズ」(のちに高橋ユニオンズ、トンボユニオンズに改組。現・千葉ロッテマリーンズ)で1953年から3年ほど投手を務めた元プロ野球選手なのである。

「成績は8勝17敗とそんなによくありませんでしたが、付き合いが広く、日本の政界にも友人がいました。独立運動には、日系人がそれぞれ日本とのパイプを活かし、水面下で交渉を進めた経緯があります。それが独立、ひいてはその後の日本との友好関係の礎になっていることを考えると、彼らを称えなくてはいけませんね」

ススム氏は2006年5月、ロッテ対ソフトバンク戦の始球式に登板した1カ月後に亡くなった。その波乱万丈で劇的な半生はCS放送のテレビ番組『甦る記憶・酋長になった野球選手を訪ねて』(2006年5月放送)にもなっているが、フリッツ大使の人生に劇的な変化をもたらしたのもまた、伯父だった。

「40年ほど前、留学先のアメリカの高校を卒業し、そのままアメリカの大学に進学することになっていた私のもとへ、伯父から突然、電話がきたのです。彼はプロ野球選手を引退したあと母国に帰り、当時は日本との貿易を手掛けていました。"日本に仕事で1週間行くから、一緒に来て手伝って欲しい"と頼まれ、面白そうだなと思った私は忘れもしない1979年11月、アメリカから日本へやってきました」

ちょうど母国で憲法が施行された年である。

「ところが約束の1週間が過ぎると、伯父が"3カ月残って日本語の勉強をして欲しい"と言う。3カ月と言えばちょうどビザの有効期限なので、それまでならいいかと思った私は、またもや伯父の頼みを聞いて都内の日本語教室に通いはじめたのです。そうしたらある日、国に戻っていた伯父から手紙が来て、"日本の大学に行かない?"と(笑)」

「船乗り」から「政治経済」へ

慌てて帰国したフリッツ青年だったが、ススム氏の並々ならぬ熱意に根負け。結局、アメリカの大学には進学せず、東海大学の留学生向け日本語研修過程で1年学んでから同大学に進学することに。

「今から思えば、自分の日本での仕事やネットワークを継がせようと思っていたのでしょう。でも、当時の私の夢は海洋学部に入学して、船乗りになることでした。中学生の頃、知人からもらった設計図をもとに、伯父が日本から輸入しはじめたばかりのヤマハの船外機を使って初めてボートをつくったら、レースで優勝してしまったのです。その宣伝効果で船外機と私のボートが売れるようになり、留学時代のお小遣いになりました(笑)」

そんな思い出も手伝って船長に憧れていた彼に、再びある人物との出会いが転機をもたらした。

「日本語過程に通っていた時に知り合った国際政治学の教授が、戦時中にサイパンに赴任した方で、同じミクロネシア地域から初めて来た留学生の私をとても目にかけてくれました。その教授から、"海の男には海に行けばなれるのだから、もっと幅広く政治や経済の勉強をした方がいい。国を引っ張っていける人になりなさい"と言われたのです。当時は国が独立運動の真っただ中でしたからね」

こうしてフリッツ青年は教養学部国際学科に入学。さらに政治経済学部経済学科でも学び、政治経済の道を歩むことになった。数奇な巡り合わせが、さらに彼と日本を結び付けていくことになる。(つづく)

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