「この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ」。言わずと知れた、ダンテ・アリギエーリの『神曲』地獄篇の「地獄の門」に記された文句だ。大西巨人による戦後文学の金字塔『神聖喜劇』のタイトルは、『神曲』の原題『La Divina Commedia』の直訳から取られている。同作を、のぞゑのぶひさと岩田和博が10年かけてマンガ化したのが、同題の『神聖喜劇』(全6巻、幻冬舎)だ。
第1巻の巻末で大西は、マンガ化を打診された際に「無謀な企てをする無謀な人たちだなぁ」と疑念と危惧を抱いたというエピソードを披露している。そして「完全漫画化」と銘打たれたマンガ版に、大西は原作者としてではなく、著者の1人として名を連ねている。この一事だけでも、このマンガ版の完成度の高さが知れる。
「戦後文学必読の書」
小説『神聖喜劇』(全5巻、光文社文庫)については、いまさら賛辞を並べ立てる必要はないだろう。手元にある文庫版の帯の文句は、「日本文学史上に輝く大傑作 これぞ不滅の面白さ! 戦後文学必読の書」。第2巻の解説で阿部和重は、読者が「そんな惹句(じゃっく)は聞き飽きた」と思うのは承知で「少しの誇張もない真実」として「この小説は、迷わず全巻買い揃えるべきだ」と記し、「世界文学的にも最高水準に値する一篇」と強調している。
読めば絶対に面白い。そんなことは、分かっている。それでも「いつかは読むつもりだが、なかなか手が出せない大作」が誰にでもあるのではないだろうか。私の場合、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』とアイザック・アシモフの『ファウンデーション』、三島由紀夫の『豊饒の海』あたりが典型例で、学生時代から「いつかは」と思い続けて手つかずでいる。
大西の『神聖喜劇』も長年、そんな未読の大作の1つだった。手を伸ばす機会を与えてくれたのがマンガ版『神聖喜劇』だった。マンガというメディアの特性がこの名作へのハードルを下げてくれたのだった。
「知りません禁止・忘れました強制」論争
まずは作品の舞台設定を確認しておこう。
〈一九四二年一月、対馬(つしま)要塞の重砲兵聯隊(れんたい)に補充兵役入隊兵百余名が到着した。陸軍二等兵・東堂太郎(とうどうたろう)もその中の一人。「世界は真剣に生きるに値しない」と思い定める虚無主義者である。厳寒の屯営(とんえい)内で、内務班長・大前田(おおまえだ)軍曹らによる過酷な"新兵教育"が始まる。そして、超人的な記憶力を駆使した東堂二等兵の壮大な闘いも開始された。〉(文庫版の裏表紙より)
主人公・東堂は目を通した文献を苦も無く暗記できる異能で、漢籍や英詩を含む古今東西の文学から軍関連の法律・規則集などなど、ありとあらゆる文献を場面に応じて暗唱・引用してみせる。この結果、小説・マンガ版とも、引用に次ぐ引用が紙面を埋める、異様な構成になっている。
東堂とは対照的に、もう1人の主役である歴戦の下士官・大前田文七(ぶんしち)は「地方では百姓」であり、高等教育を受けた「学校出」を忌み嫌っている。大前田ら教官は営門という「地獄の門」をくぐった新兵をいじめ抜き、「希望を捨てよ」と圧力をかける。
大前田が体現する陸軍は、前近代的・非合理的な世界である半面、階級制度と軍規・軍法という絶対秩序を戴くヒエラルキー構造の組織でもある。東堂は、虚無主義と強固な倫理観の間で揺れながら、記憶力と論理展開力を武器に、軍隊のこの2面性の矛盾と弱点を突いて戦う。自身と戦友が「個性を持った人間から無個性な兵隊」へと作り変えられるのを拒む知的闘争が、スリリングで胸のすくような面白さを生む。
言わずもがなだが、東堂の戦いは「組織内の身の振り方」と「自己の価値観」のバランスという普遍的なテーマであり、21世紀の我々にとっても示唆に富む。
たとえば中核テーマの1つ、「知りません禁止・忘れました強制」論争。東堂は、教官の指示や部隊内の規則について、承知していない内容には「知りません」と応じる。上官たちは、軍では「知りません」は禁止されており、「忘れました」と答えることを強要する。東堂はここに責任逃れの構造をかぎ取る。「知りません」には教育不行き届きという上官の責任が発生しうるが、「忘れた」なら全責任は部下にある。東堂は「知りません禁止」は明文化された規則なのか繰り返し問い、一等兵の村崎宗平から「バカンマネしとけ」と助言されても顧みず、一歩も引かずに暗黙のルールに抗う。
「上」の権威と指示を絶対視し、忖度と空気の読みあいが「個」の思考停止を招き、それが意思決定をゆがめて、最終的に組織を危うくする。21世紀になっても、日本にはこの悪弊を逃れていない組織はいくらでもある。東堂のロジックのみを武器とする戦いは、東堂自身が、軍という組織の中では悪あがきでしかないことを自覚しているからこそ、「個」を貫徹することの貴さと難しさ、そしてその本質的な重要性を雄弁に語る。
「回り道」して読む価値
無論、こんな教訓めいた読み方は、本書の魅力の一部でしかない。大前田が説く戦地の実態と「皇軍」の理想のギャップ、被差別部落の差別問題、戦時における男女関係の綾、個性的な登場人物らの人間模様など多様なテーマが織り込まれ、硬質で粘りつくような文体の地の文と、方言や部隊内の隠語をまじえた生き生きとした会話のコントラストには何ともいえない中毒性がある。
そこまでの傑作なら、「最初から原作を読めば良いじゃないか」とお思いかもしれない。ごもっとも。
だが、このマンガ版には「回り道」して先に読む価値が十分にある。
まず挙げられる美点が描写力だ。当然のことだが、兵舎の様子や軍服、小銃、野砲などのディテールは、文章で読むよりも圧倒的にマンガの方がイメージをつかみやすい。特に本作は描きこみが丁寧で、手抜きのコマなど一切ない。キャラクターの描き分けでもマンガに軍配があがる。登場人物が多い群像劇だけに、一目でキャラの区別がつくメリットは大きい。
マンガ的手法がユーモアを際立たせている点も美点に挙げたい。
軍隊という非人間的な世界で起きる出来事や人々の言動は、時にブラックジョーク的な不条理劇の様相を呈する。『神聖喜劇』の「喜劇」たるゆえんだ。小説版は、文体が硬質なこともあって、ユーモアを感知するのにある程度の読みこみと読解力を要するが、マンガ版はうまく「ここは笑いどころですよ」と示唆する作りになっている。安易かもしれないが、こうしたハードルの下げ方もまた、マンガという表現形式ならではのものだ。
要所で光る「一枚絵」の演出効果も素晴らしい。
大半のシーンはオーソドックスなコマ割りで展開され、大ゴマや見開きは少ない。そして、「ここぞ」というシーンで、計算されつくした構図の大ぶりなカットが入る。膨大な引用の配置など細部まで目配りした仕事の丁寧さは偏執的ですらある。
躊躇してはならぬ
マンガ版ならではの美点を列挙してきたが、最大にして最重要な「美点」は、原作に対する敬意の深さだ。
前述のとおり、私はマンガ版から小説という順で読んだ。正確に言うと、マンガ版を数回再読してから、小説を手に取った。読み進むうちに、再現度の高さに唸らされた。「読み味」がほとんど変わらないのだ。
おそらく10年かけてマンガ版を成したのぞゑ・岩田コンビの頭にあったのは、「無謀な」挑戦ではなく、「この小説の面白さを万人に伝えたい」という一念だったのではないだろうか。
これは、「この傑作を読ませたい」というリスペクトが結晶化した稀有な傑作マンガなのだ
前述のとおり、小説版第2巻の解説で阿部は、「全部で五冊もあるからといって躊躇(ちゅうちょ)していてはいけない」と、全巻一気買いを強く勧めている。
私も、「そんな惹句は聞き飽きた」という読者の声を恐れず、付言したい。
全部で6冊あるからといって、躊躇してはいけない。
このマンガは、全巻一気買いするべきだ。
そして、ヒトコマの緩みもない作画を楽しみながら、細かい活字の引用部分も含めて熟読してほしい。
そのうえで小説版を読めば、あなたは周囲の本読みにこう伝えたくなるだろう。
「『神聖喜劇』を未読? なんて羨ましい人だ。いいから黙って、いますぐ、マンガ版と小説、11冊を一気買いしてきなさい」。
高井浩章 1972年生まれ。経済記者・デスクとして20年超の経験があり、金融市場や国際ニュースなどお堅い分野が専門だが、実は自宅の本棚14本の約半分をマンガが占める。インプレス・ミシマ社の共同レーベル「しごとのわ」から出した経済青春小説『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』がヒット中。 noteの連載はこちら https://note.mu/hirotakai